五針目『黒い手形』
「……何見てんの?」
声を掛けられ、空木は肩を震わせた。
気づけば、教室はいつも通りだった。
笑い声。
机を引く音。
窓の外から聞こえる運動部の掛け声。
夕焼けだけが、やけに赤い。
空木は息を整えながら、教室後ろの席を見る。
誰もいない。
窓際の空席。
さっきまで、あそこに誰かがいたはずなのに。
「空木?」
前の席の彼女が、不安そうにこちらを見ていた。
「顔、やばいよ」
「……いや」
空木は誤魔化すように視線を逸らす。
夢じゃない。
そう思った。
時間が止まったことも。
男子生徒の言葉も。
“また”という言葉も。
全部。
空木は無意識に、窓際の机へ近づく。
その時だった。
──ジジッ。
頭の奥でノイズが鳴る。
机の上に、黒いものが見えた。
手形だった。
乾いた泥みたいな色。
誰かが強く掴んだみたいに、指の跡まで残っている。
空木は立ち止まる。
喉が乾く。
なのに、目を逸らせなかった。
「……どうしたの?」
彼女の声。
空木は振り返らない。
ただ黒い手形を見つめる。
その瞬間。
頭の奥で、誰かの声がした。
“触るな”
低い声だった。
知らないはずなのに。
どこか聞き覚えがある。
空木は反射的に手を止める。
だが。
気づけば指先は、黒い手形へ伸びていた。
触れた瞬間。
冷たい。
異様なくらい。
──ジジジジッ。
世界が歪む。
教室の音が遠ざかる。
笑い声がノイズ混じりに引き伸ばされる。
赤い空。
黒煙。
崩れた建物。
そして。
地面から伸びる、無数の黒い手。
助けを求めるみたいに。
空木の足を掴もうとしていた。
「っ……!」
空木は反射的に後退る。
景色が戻る。
教室。
夕焼け。
クラスメイトたち。
呼吸が荒い。
周囲の生徒が、不思議そうにこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
男子の一人が笑う。
「顔色終わってるぞ」
空木は返事ができない。
彼女だけが、青ざめた顔で空木を見ていた。
「……触れたの?」
小さな声だった。
空木は目を見開く。
「なんで分かるんだよ」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「……見れば分かる」
意味が分からない。
だが。
彼女は黒い手形を見ていなかった。
正確には。
“見ないようにしている”ように見えた。
その時だった。
ガタッ。
教室前方の椅子が倒れた。
全員の視線がそちらへ向く。
一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
顔色が真っ青だった。
彼女は震える指で、窓の外を指している。
「……あれ、なに?」
教室が静まり返る。
空木も窓を見る。
夕焼け空。
その真ん中に。
黒い染みが浮かんでいた。
空に。
巨大な染みが、ゆっくり広がっていた。
そして。
カチ。
教室の時計が鳴る。
午後五時十二分。
秒針のない時計だった。




