四針目『名前のない放課後』
「……また、お前なんだ」
男子生徒の声は、妙に静かだった。
空木の背中を冷たいものが走る。
教室は止まったまま。
誰も動かない。
夕焼けだけが、窓から赤く差し込んでいる。
「お前、誰だよ」
空木はそう言ったが、自分の声に自信が持てなかった。
男子生徒を知っている気がする。
でも思い出せない。
頭の奥に、引っかかったままの何かがある。
男子生徒は答えなかった。
代わりに、ゆっくり立ち上がる。
椅子が擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
その瞬間。
彼女が、空木の制服を掴む。
「ダメ」
小さな声だった。
「関わっちゃダメ」
「なんなんだよ、さっきから……」
「お願いだから」
彼女の指先は震えていた。
男子生徒は、そんな二人をじっと見ている。
感情のない目だった。
いや。
感情が抜け落ちたみたいな。
空木は無意識に一歩後ずさる。
すると男子生徒が、ふっと笑った。
「まだ、そこなんだ」
「……は?」
「安心した」
意味が分からない。
なのに。
その言葉を聞いた瞬間、妙な吐き気が込み上げた。
──まだ。
その言葉だけが、頭に残る。
まるで。
今の自分が、“途中”みたいに。
「お前……何知ってる」
男子生徒は答えない。
代わりに、教室の時計を見る。
午後五時十二分。
秒針のない時計。
カチ。
カチ。
存在しない針の音だけが鳴っている。
男子生徒が小さく呟いた。
「今回も、ここからか」
その瞬間。
教室の窓が、ガタッと揺れた。
風は吹いていない。
なのに。
ガタッ。
ガタッ。
まるで外側から誰かが叩いているみたいに。
空木は反射的に窓を見る。
夕焼けだった空が、少し黒ずんでいた。
空に、染みが広がっている。
墨を垂らしたみたいに。
「っ……」
頭痛。
ノイズ。
──ジジッ。
視界が乱れる。
赤い空。
煙。
誰かが泣いている。
地面に転がる足。
血。
知らない記憶が流れ込んでくる。
空木は頭を押さえた。
すると男子生徒が、ぽつりと言う。
「思い出すと痛いだろ」
その言葉に、彼女が顔を上げた。
「やめて」
初めてだった。
彼女が、はっきり怒ったのは。
男子生徒は少しだけ目を細める。
「……毎回そう言う」
「黙って」
「でも結局、お前は失敗する」
教室の空気が、凍る。
空木だけが意味を理解できない。
“毎回”。
また、その言葉。
彼女は唇を噛み締めたまま、男子生徒を睨んでいた。
そして。
小さく呟く。
「今回は違う」
男子生徒は、少しだけ悲しそうに笑った。
「それ、前も聞いた」
──ジジッ。
次の瞬間。
教室の時間が動き出した。
笑い声。
机を引く音。
部活の掛け声。
全てが、一気に戻ってくる。
空木は思わず周囲を見る。
クラスメイトたちは普通に会話していた。
まるで何もなかったみたいに。
夕焼けだけが、赤い。
空木は息を切らしながら、教室後ろを見る。
窓際の席。
そこには、誰もいなかった。
空席だった。
最初から、ずっとそうだったみたいに。
ただ。
机の上にだけ。
黒い手形が、ひとつ残っていた。




