三針目『いないはずの席』
「今回は、早すぎる……」
彼女の声が、静まり返った教室に落ちる。
空木は息を呑んだ。
誰も動かない。
さっきまで笑っていたクラスメイトたちが、全員その場で止まっていた。
窓際で話していた女子。
机に突っ伏していた男子。
スマホを見ていた教師。
瞬きすらしていない。
世界ごと、停止しているみたいだった。
「……なんだよ、これ」
空木の声だけがやけに響く。
返事はない。
静かすぎる教室の中で。
カチ。
時計の音だけが鳴っていた。
カチ。
カチ。
空木はゆっくり顔を上げる。
午後五時十二分。
時計には、長針と短針しかなかった。
秒針は、どこにもない。
なのに。
カチ、カチ、と音だけが響いている。
背筋が冷えた。
「空木」
彼女が小さく言う。
「こっち来て」
「待てよ。何なんだよこれ」
「お願い」
その声は、怯えていた。
空木は戸惑いながら彼女へ近づく。
彼女は教室後ろの壁を見つめていた。
昨日、“黒い染み”が浮かんでいた場所。
今は何もない。
……はずだった。
近づくと、壁紙の一部だけが黒ずんでいる。
焼け焦げた跡みたいに。
空木は無意識に、その黒ずみへ手を伸ばす。
その瞬間。
──ジジッ。
頭の奥でノイズが弾けた。
赤い空。
煙。
崩れた建物。
誰かの悲鳴。
血の匂い。
知らない景色が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
いや。
“視えて”しまった。
「っ……!」
激しい頭痛。
空木は思わず壁へ手をつく。
すると彼女が、強く腕を掴んだ。
「見ちゃダメ!」
悲鳴みたいな声だった。
空木は驚いて彼女を見る。
彼女の手が震えている。
「……お前、何知ってるんだよ」
返事はない。
ただ、彼女は怯えた目で空木を見ていた。
まるで。
思い出してはいけないものを、空木が視てしまったみたいに。
その時。
ガタッ。
教室の後ろで音がした。
空木は振り返る。
一番後ろ、窓際の席。
誰かが座っていた。
知らない男子生徒だった。
俯いたまま、微動だにしない。
「……誰だ、あいつ」
空木が呟く。
彼女の顔色が変わった。
「嘘……」
「え?」
「なんで、いるの……」
空木は眉をひそめる。
クラスメイトじゃないのか?
だが次の瞬間。
違和感に気づく。
──あの席は、空席だった。
昨日も。
その前も。
ずっと誰も座っていなかったはずだ。
なのに。
どうして自分は、それを覚えている?
男子生徒が、ゆっくり顔を上げる。
目が合った。
その瞬間。
頭の奥で、またノイズが走る。
──赤い空。
──血に濡れた手。
──誰かの叫び声。
知らない記憶。
なのに。
その顔を、自分は知っている気がした。
男子生徒の口が、ゆっくり動く。
「……また、お前なんだ」




