二針目『午後五時十二分』
気づけば、教室はいつも通りだった。
騒がしい声。
机を引く音。
窓の外で鳴いている運動部の掛け声。
空木は、ぼんやりと顔を上げた。
夕焼けが眩しい。
教室の後ろの壁を見つめる。
そこにはもう、“黒い染み”なんて存在していなかった。
「……夢?」
喉が妙に乾いている。
嫌な汗が制服に張り付いていた。
「空木?」
声を掛けられ、振り返る。
前の席の女子が、不思議そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「あ……ああ」
彼女は少しだけ眉を寄せる。
「顔色悪いよ」
その時。
──ジジッ。
短いノイズ。
空木の肩が跳ねる。
けれど周囲の生徒たちは、誰も反応しなかった。
笑い声は止まらない。
まるで、自分だけが別の音を聞いているみたいだった。
「……また聞こえた?」
彼女が小さく言う。
空木は目を見開く。
「お前、今……」
「なんでもない」
彼女はすぐ視線を逸らした。
空木は言葉を失う。
やっぱり何かおかしい。
ふと時計を見る。
午後五時十一分。
秒針が静かに進んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音だけが、妙に耳に残った。
「なあ」
空木は前の席へ身を乗り出す。
「昨日、変なことなかったか?」
「昨日?」
「黒い染みみたいなのが――」
そこまで言った瞬間。
彼女の表情が固まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
怯えたみたいに。
「……空木」
小さな声だった。
「それ、誰に聞いたの?」
「は?」
「誰から聞いたの」
教室の空気が、急に冷えた気がした。
夕焼けの赤が、やけに濃い。
空木は言葉に詰まる。
夢だったはずだ。
そう思っていた。
なのに。
どうして自分は、“昨日”と言った?
夢なら、“昨日”じゃない。
「……俺、夢見てただけだよな?」
彼女は答えなかった。
代わりに、ゆっくり時計を見る。
午後五時十二分。
その瞬間。
──カチ。
秒針が止まった。
教室から音が消える。
笑い声も。
部活の掛け声も。
風の音さえも。
まるで世界ごと、息を止めたみたいに。
空木の背筋を冷たいものが走る。
教室にいる全員が、動かない。
瞬きすらしていなかった。
「……な、んだよこれ」
誰も答えない。
ただ一人。
前の席の彼女だけが、静かに立ち上がった。
そして。
泣きそうな顔で、こう言った。
「今回は、早すぎる……」




