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一針目『雨の匂い』

雨の匂いがした。


窓は閉まっているはずなのに、濡れたアスファルトみたいな湿った空気だけが教室に漂っている。


六月の放課後。


夕焼けに染まりかけた教室で、クラスメイトたちは騒がしく笑っていた。


「だからそれ絶対好きじゃん」


「いや、あれは営業スマイルだって」


「空木はどう思う?」


急に話を振られ、空木は顔を上げた。


前の席の女子が、椅子を半分こちらへ向けながら笑っている。


肩までの黒髪。

眠たそうな目。

制服の袖を少しだけ余らせる癖。


知らない顔だった。


……はずなのに。


昔から知っているような感覚だけがあった。


「聞いてなかった」


「やっぱり」


彼女は小さく吹き出す。


その笑い方を見た瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなった。


教室の後ろでは男子たちがスマホゲームで騒いでいた。

窓際では女子たちが写真を見せ合っている。


どこにでもある放課後。


それなのに。


空木はずっと、小さな違和感を覚えていた。


何かがおかしい。


でも、何がおかしいのか分からない。


「ねえ」


前の席の彼女が、ふいにこちらを見る。


「今日、夢見た?」


「夢?」


「うん。嫌なやつ」


空木は少し考える。


「……いや、覚えてない」


「そっか」


彼女はそれ以上聞かなかった。


その瞬間。


──ジジッ。


教室のスピーカーから、短いノイズが流れた。


みんな一瞬だけ黙る。


けれど、それだけだった。


すぐに笑い声が戻る。


ただ。


彼女だけが、青ざめていた。


「……また」


小さな声。


「え?」


「ううん」


彼女はすぐ笑った。


でもその笑顔は、ほんの少しだけ遅れていた気がした。


気のせいだろうか。


ふと、空木は時計を見る。


午後五時十二分。


秒針が動く。


カチ。


カチ。


カチ。


──カチ。


一瞬だけ。


秒針が逆に戻った。


空木は目を細める。


見間違いか?


もう一度見る。


時計は普通に動いていた。


「どうしたの?」


「……いや」


「疲れてるんじゃない?」


彼女は頬杖をつきながら言った。


「最近ちゃんと寝てないでしょ」


「なんでわかるんだよ」


「なんとなく」


その時、ふわりと甘い匂いがした。


シャンプーみたいな匂い。


その奥に、微かに鉄っぽい臭いが混ざっている気がした。


血の匂い。


そう思った瞬間、自分でも意味が分からなくなる。


「……なあ」


「ん?」


「前に会ったことあるっけ」


彼女は少しだけ黙った。


窓の外を見る。


夕焼けが、異様なくらい赤かった。


「会ってるよ」


静かな声だった。


「何回も」


背筋が冷える。


「……は?」


聞き返そうとした瞬間だった。


──ジジジジッ。


今度は長いノイズ。


教室の電気が一瞬だけ明滅する。


誰かが悲鳴を上げた。


窓ガラスが震える。


空気が、急に冷たくなる。


そして。


教室の後ろの壁に、“黒い染み”が浮かび上がった。


濡れたインクみたいに。


じわじわと。


ゆっくり。


広がっていく。


さっきまで笑っていたクラスメイトたちが、言葉を失う。


「な、なにあれ……」


誰かが震えた声で言う。


その時。


前の席の彼女だけが、泣きそうな顔をしていた。


まるで。


これから起こることを、全部知っているみたいに。

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