季
天文十五年(1546年) 正月二十四日 京 内裏 河鰭清子
弟が、報告に来た。夜である。いつもの座に座って、いつものように火桶の脇に手をかざした。そして、こう言った。
「麝香は、大殿がお受け取りになりました」
清子は、湯を注ごうとして、手を止めた。
受け取った。
「……お受け取りに」
「はい」
「どのように」
「『置いていけ』と」
清子は、湯呑みを置いた。置いてから、置いた場所が違うことに気づいて、直した。直しながら、手が震えていた。
九年、月に一度、送ってきた。三条邸の門まで。名も告げず。中に入ったことはない。届いたかどうかも、確かめたことがない。
捨てられていても、分からない。そう思ったことは、何度もある。思うたびに、思うのをやめた。考えても仕方がない。
それが。
「置いていけ」
受け取った、ということだ。九年で、初めて分かった。清子は、袖で目のあたりを押さえた。
弟は、それを見なかったふりをしていた。この子は、見ないふりがうまい。気づいたうえで、見ないことにしている。
それが、この子の優しさの形なのだと、清子は最近になって思うようになった。
「二月八日に、もう一度参れと」
「……二月八日」
「支度に日を要する歳じゃ、と仰せられました」
清子は、それを聞いて、うつむいた。
七十八。九年前、あの方が出家されたと聞いたとき、六十九であった。あのころ、清子は二十で、父の四十九日も済んでいなかった。
「姉上」
「はい」
弟が、顔を上げた。
「姉上にも、御一緒願います」
「……私は、」
清子は、言いかけて、止まった。
断る理由を、いくつも用意していた。内侍の身で、公家の奥へ上がるのは筋が違う。局を空けられない。あちらが会うと言ったのは弟だけである。
全部、嘘だ。
本当の理由は、一つしかない。行けば、九年のことが表に出て、この子はそこへたどり着く。弟は、急かさずに待っていた。待たれると、人は喋る。
清子は、それを知っていて、それでも喋った。
「……千菊丸」
「はい」
「九年ではありませぬ」
弟の指が、止まった。
「十年です」
「私が薬を送り始めたのは、天文六年。あの御方が御出家なさった年です」
「ですが、始まりは、その前の年にございます」
清子は、灯を見ていた。弟の顔は、見なかった。
「天文五年、二月」
「あのころ、私は十九でした。新内侍を勤めておりました」
「御即位の支度で、奥も表も、慌ただしゅうございました」
清子は、一度、息を継いだ。
「二月の半ばに、御使いがございました。三条の、大殿から」
「奥へ、お取次ぎ願いたいと」
「何をでございます」
弟が、静かに聞いた。清子は、目を閉じた。
「帳に載せぬ立替を、御沙汰賜りたい、と」
部屋が、静かになった。
「帳に載せぬ立替は、勝手にはできませぬ」
清子は、続けた。
「太政大臣が諸家に頼まれるにしても、禁裏の側が、黙って承知しておらねばなりませぬ」
「ですが、承知したことは、文には残せませぬ」
「残せぬものを通す道は、一つしかございませぬ」
「奥にございます。女房を通す道に」
「御沙汰は」
弟が、聞いた。
「……下りました」
「文は」
「ございませぬ」
「口頭で」
「はい」
清子は、初めて、弟の顔を見た。十一である。
その子が、いま、こう言った。
「では、その一件を知っておられるのは、大殿と、父上と、山科さまと、」
弟は、答えるまでに間を置いた。
「姉上だけにございます」
清子は、うなずいた。うなずいて、そこで気づいた。父は、死んだ。残っているのは、三人である。
そのうち一人は、九年こもっている。もう一人は、内蔵頭で、受取を書いた側だ。そして、私だ。
「父上は、それで立て替えられたのですね」
「はい」
「娘が取り次いだ話だから」
「……はい」
清子は、うつむいた。
「父上は、私に一度もお咎めがございませんでした」
「ただ一度、こう仰せになりました」
「『よう働いた』と」
弟は、何も言わなかった。
「それきりでございます」
「その年の冬に、亡くなられました」
清子は、袖を口に当てた。十年、誰にも言っていない。言えば、こうなると思っていた。実際、こうなった。
弟が、しばらくしてから、言った。
「姉上。だから、滋野井をお受けになろうとされたのですね」
清子は、答えられなかった。答えなくても、この子は気づく。
「当主が立てば、必ずこの話に行き着きます。日記があり、紙があり、山科さまがおられます」
「ですが、」
弟は言った。
「他家から入られた御方なら、行き着きませぬ。他家の子は、他家の子ですから」
清子は、目を閉じた。そのとおりである。
滋野井の次郎君が入れば、あの一件は誰も掘り返さない。河鰭の名は残る。局も残る。そして、十九の内侍が奥で何をしたかは、永久に誰も知らない。
「……家を守るために、」
清子は、自分の声を聞いた。
「家を、明け渡そうとしておりました」
弟は、しばらく黙っていた。清子は、その沈黙が何を指しているのか、遅れて気づいた。
この子を、出すつもりだった。
家を守るために。当主が立てば掘り返される。だから他家の子を入れる。筋は、通っている。通っているが、出されるのは、この子である。
「……千菊丸」
「はい」
弟は、それだけ答えた。責める声では、なかった。だが、許す声でもなかった。
清子は、悟った。この子は、消したのではない。答えを出さずに、どこかへ置いた。いつか、降ろすつもりでいる。
しばらく、黙っていた。それから、こう言った。
「姉上。大殿がお会いになったのは、私の書き付けのゆえでは、ございませぬ」
清子が、顔を上げた。
「私は、紙を一枚出しました。二刻、座りました。それだけにございます」
「九年、あの門を叩き続けた者が、他にございました」
弟は、頭を下げた。
「姉上にございます」
清子は、答えられなかった。答えられずに、袖で顔を覆った。
しばらくして、清子は文箱を開けた。いちばん下に、七年開けていない紙がある。角が丸い。清子は、それを取り出して、膝に置いた。
「……千菊丸」
「はい」
「七年前に、一度だけ、返しがございました」
「使いの者は、ただ『まだ、生きておるか』と」
「開けておりませぬ」
弟が、その紙を見た。見て、何も言わなかった。
「開けてください」とも、「なぜ開けないのですか」とも言わなかった。
この子は、聞かない。この前も、そうだった。
清子は、紙を膝に置いたまま、こう言った。
「二月八日に、参ります」
「……はい」
「ですが、この紙は、」
清子は言った。
「その日までに、私が開けます」
天文十五年(1546年) 正月二十七日 京 内裏 河鰭千菊丸
三日、待った。姉は「その日までに、私が開けます」と言った。言った以上、開ける。急かせば、開けなくなる。
千菊丸は、そう数えて、三日、御所へ行かなかった。
四日目の夜に、姉から使いが来た。「参られよ」とだけ。
姉は、文机の前に座っていた。紙が、開いてある。千菊丸は、座って、それを見た。
一字。老いた手で、大きく。墨がかすれ、最後の払いが震えている。
季
それだけだった。
「……何も、書いておりませぬ」
声が、乾いていた。
「七年、これを開けなかったのです」
「開ければ『もう送るな』と書いてあるかもしれぬと、思うておりました」
姉は、笑おうとして、失敗した。
「一字でございました」
千菊丸は、答えなかった。答える前に、数えていた。まず、近い代を置いた。公邦。実村。公益。実治。
「公」と「実」が、代ごとに重なる。父だけが、季富である。
父は元服の日に「実」を返した。実香が、そう言った。返して、自分で「季」を選んだ。
千菊丸は、指を止めた。季とは、何だ。
季子。季世。末。しんがり。終わり。
千菊丸は、迷った。言えば、姉が傷つく。言わなければ、姉はこの一字を「懐かしんでくださった」と読む。そのほうが、姉には優しい。
だが。この一字は、二月八日に会う相手が書いたものである。読み違えたまま行けば、向こうの言うことが分からなくなる。
千菊丸は、頭を下げた。
「姉上。申し上げてよろしゅうございますか」
「言いなさい」
「父は、この字を、御自分でお選びになりました」
「はい」
「季とは、末にございます」
姉が、顔を上げた。
「……末」
「季子、季世。しんがり、と読みまする。父は、十二の年に、」
千菊丸は、一度、息を継いだ。
「御自分で、この家を終わらせると仰せになったのです」
姉が、紙を取り落としそうになった。
「そんな」
「応仁より、七十九年にございます」
「当家の家領は、名ばかり。座もなく、奥の祖父は何も仰せになりませぬ」
千菊丸は言った。
「父は、日記に一度も『家を興す』と書いておられませぬ」
「書いておられるのは、『なほ延引すべし』にございます」
姉は、答えなかった。
千菊丸は、続けようとした。
「延ばすことだけを、生涯――」
そこで、声が止まった。違う。
千菊丸は、父の記ではなく、その外にあった一枚を思い出した。家系図の、ずっと上。河鰭季村。さらに遡れば、閑院流の始まりに、藤原公季がいる。
季は、近い代から外れた字ではない。近い代より、はるかに古い。
「違います」
千菊丸は言った。
「……何が」
「いまのは、私の読み違いにございます」
姉が、紙を持ったまま見ている。
「季は、末だけではございませぬ」
「当家には季村がおります。その上には、閑院流の始祖、公季がおります」
「父は家を終わらせる字を選んだのではない」
言いながら、千菊丸の中で、散っていたものが初めて一列になった。
「近い代の通り字より古いところへ、一代で戻ったのです」
姉は、すぐには答えなかった。
「では、なぜ父上は」
「分かりませぬ」
千菊丸は、今度は急いで答えなかった。
「ですが、分からぬことを、終わりと決めてはなりませぬ」
自分で言った言葉が、自分の胸に刺さった。父の記を三年読んだ。読んだのに、父の一字を、いままで近い四代だけで見ていた。読んだつもりで、切っていた。
長い沈黙があった。やがて、姉が言った。
「……では、大殿は」
「はい」
「なぜ、この字を」
千菊丸は、もう一度、紙を見た。七年前、使いの者が口で伝えた問いは、「まだ、生きておるか」。いま紙の内に置かれているのは、「季」の一字だけだった。
千菊丸は、背中が冷えた。これは、返事ではない。
「姉上。これは、問いにございます」
「問い」
「はい」
「『季富が戻したところを、お前たちはまだ覚えておるか』と」
「あるいは、」
千菊丸は、紙のかすれた墨を見た。
「『この一字を読む者は、まだ生きておるか』と」
姉が、口を押さえた。
「七年前に、あの御方はこれをお書きになりました」
「そして、返事が来なかった」
千菊丸は言った。
「姉上は、開けておられませんでしたゆえ」
姉が、はっとした顔をした。
「……私が」
「はい」
「私が開けていれば、七年、早かったのでしょうか」
千菊丸は、すぐには答えられなかった。自分は、いま開いた紙を見て、最初に読み違えた。父が「実」を返したと聞いたあとでさえ、である。
「いいえ」
千菊丸は言った。
「紙は、開くだけでは足りませぬ」
「読む者と、読むためのものが揃わねば、ただ一字があるだけにございます」
父の記。家系図。実香の言葉。どれか一つが欠けても、千菊丸は「末」で止まっていた。
「七年前の姉上が開けても、返せなかったかもしれませぬ」
「返せば、そこで一往復になって、九年は続かなかったかもしれませぬ」
これは慰めではない。少なくとも、慰めだけではない。
書かれたものは、読まれて初めて意味になる。だが、読むにも時が要る。
姉は、しばらく黙っていた。それから、少しだけ笑った。
「……千菊丸」
「はい」
「あなた、いま、慰めましたね」
見抜かれた。
「……いえ」
「慰めました」
姉は、紙を畳んだ。
「初めてです」
千菊丸は、答えられなかった。姉は、畳んだ紙を、文箱に戻さなかった。懐に入れた。
「二月八日に、持って参ります」
「姉上」
「あの御方に、お返しいたします」
姉は、そう言った。
「七年、開けずにおりました、と」
「開けたのは、弟に言われたからではございませぬ、と」
千菊丸は、頭を下げた。
この人は、自分で決めた。自分が「伺いませぬ」と言ったのは、七日前である。あのとき手を引いた札を、姉は、自分の手で切りに行く。
外に出ると、月が出ていた。千菊丸は、歩きながら、まだ一つ数えていた。
「季」の隣に、何を置くか。
元服すれば、諱が要る。「実」を貰いに行く。それは決めた。
だが、下の一字は、まだ決めていない。
父は「季」と書いた。末ではない。少なくとも、末だけではない。近い代を越えて、始まりへ戻った字である。
その隣に、何と書くか。
千菊丸は、足を止めた。
まだ、思いつかない。二月八日まである。




