四十一
天文十五年(1546年) 正月二十二日 京 三条邸 三条公頼
年始の客が、途切れない。
三条公頼は、五十二になる。清華家の当主である。
娘を三人もうけた。長女は細川晴元へ、次女は甲斐の武田へ嫁いだ。三女を本願寺へ入れる話が進んでいる。
配って歩いた男である。自分でも、そう思っている。配ったぶんだけ、家は保った。保ったが、それだけである。
父が、まだ生きている。
三条実香。七十八。太政大臣まで昇って、天文六年に出家した。
九年、会っていない。同じ屋敷の、奥の一棟にいる。渡り廊下が一本あるだけだ。
その一本を、公頼は九年、渡っていない。渡ろうとして、断られた。二度。三度目は、しなかった。
「河鰭の、若ぎみが」
家司が言った。
「河鰭」
「はっ。年賀の御礼にと」
年賀の礼。正月二十二日に。
公頼は、扇を止めた。
用がある。年賀の礼は、十日も遅れて持ってくるものではない。「用がある」と書かずに、用があると言いに来ている。
「通せ」
入ってきたのは、痩せた子供だった。童形である。装束は古い。だが、汚れてはいない。
あれは、女房が手入れしておる。
公頼は、座るのを待って、先に言った。
「滋野井が、三日前に来た」
子供の指が、動かなかった。
驚かぬか。
「本家の子を河鰭へ入れる話を、三条へ通しに来た。童が断ったあとでな」
「さようにございます」
「なぜ、わしのところへ来た」
子供は、手をついた。
「大殿さまに、お目通りを願いとうございます」
父にか。
公頼は、扇を膝に置いた。
「父は、誰にも会わぬ」
「存じております」
「知っておって、来たか」
「知らねば、御子息に願う理由がございませぬ」
公頼は、初めて、この子を見た。
理屈を、通してきた。
「大殿に会いたい」だけなら、家司に取り次げばいい。「会えないと知っている、だから当主に願う」と言った。断りにくい形に、してから言った。
「なにゆえ、父に会いたい」
「父の、加冠役にあらせられます」
「ほう」
公頼は、少し、身を引いた。
知っておるのか。
永正十年の冬である。三十三年前だ。父が近衛大将であったころ、河鰭の童に冠を置いた。
公頼は、そのとき十九である。覚えてはいる。覚えてはいるが、京で覚えている者は、もういくらもいまい。
子供が、懐から紙を出した。
「これを」
「なんじゃ」
「父の記の、写しにございます。一部にございますが」
公頼は、受け取った。座次の条である。
天文五年二月。内蔵寮と諸家の寄合、四度。
一度目、十一名。二度目、九名。三度目、記載なし。
四度目で、公頼の目が止まった。
自分の名がある。二月二十二日の寄合。
わしはこの場におった。覚えているが、何の寄合であったかは覚えていない。御即位の支度の話であった。銭の話であった。それだけだ。
二十六日に式が挙がった。挙がったので、それきり考えなかった。
そして。
公頼は、指で上へ戻った。三度目。記載なし。
わしは、この座におらぬ。
公頼は、息を吸った。
二月の中頃である。あのころ、娘の縁組の話が動いていた。甲斐へ下す話だ。父が、「そちらを見よ」と言った。だから、行かなかった。
日取りが重なった、と父は言うた。
だが、いま思い出すと、あの日、自分は京にいた。縁組の用は、その前日に済んでいた。
公頼の手が、少し震えた。
外された。
三十年、政をしてきて、父に外されたことは何度もある。だが、あの二月の一度だけは、いまも分からない。
そして翌年、父は出家した。理由を、誰にも言わずに。
公頼は、写しを膝に置いた。そして、こう言った。
「千菊丸と申したな」
「はい」
「取引をしよう」
「うかがいます」
「父に会わせよう。会うかどうかは、父が決める。門までは、わしが開ける」
「ありがたく」
「代わりに、」
公頼は、写しの三度目の条を指した。
「この座を、そなたが調べて、わしに教えよ」
子供は、しばらく黙った。それから、こう聞いた。
「三条さまは、この座に何があったか、御存じないのでございますか」
「知らぬ」
言ってしまった。公頼は、そう思った。
清華家の当主が、十一の童に「知らぬ」と言った。だが、嘘をついても、この子は数える。数えられて外されるより、先に言ったほうがましだ。
「父は、わしに何も言わなんだ。九年、会うておらぬ。会わぬ理由も、知らぬ」
子供は、頭を下げた。
「承知いたしました」
そして、顔を上げてこう言った。
「三条さま。一つ、お伺いしてよろしゅうございますか」
「申せ」
「二月の三度目の寄合に、大殿は諸家をお回りになりましたか」
公頼は、答えられなかった。
知らぬ。知らないが、いま、そう聞かれて、腹の底が冷えた。
回った、という話であれば、話が通る。跡取りを外して、自分だけで回る。そういうことをする理由が、一つだけある。
「……千菊丸」
「はい」
「そなた、何を知っておる」
子供は、答えなかった。答えずに、こう言った。
「三条さま。当家は、有職の家にございます。調べる家にございます」
「調べてから、申し上げまする」
公頼は、廊下まで出た。自分でも、なぜ出たのか分からなかった。
子供が、沓を履いている。
「千菊丸。そなた、いくつになる」
「十一にございます」
「季富が死んだ年の子か」
「はい」
公頼は、庭を見た。楓が、裸である。
「顔は、似ておらん」
「よく言われます」
「……目つきが、似ておる」
子供は、頭を下げて、出ていった。
公頼は、しばらくそこに立っていた。
あの座に、何があった。九年、考えなかった。考えないようにしていた。
それを、いま、十一の童が調べに行く。
公頼は、渡り廊下のほうを見た。一本だけの、あの廊下を。
天文十五年(1546年) 正月二十三日 京 三条邸・奥 河鰭千菊丸
門は、開いた。公頼が、約束どおりに開けた。
ここまでは、通った。
奥の一棟である。築地で仕切られ、渡り廊下が一本だけ通っている。庭に、楓が一本。人の気配が、薄い。
取次の僧が出てきた。五十がらみ。痩せている。
千菊丸が名乗る前に、こう言った。
「お会いになりませぬ」
名も聞かずに。
この僧は、名を聞く必要がない。誰が来ても、答えは同じだからだ。九年、同じことを言い続けている。言い慣れている。
千菊丸は、膝をついた。そして、懐から紙を一枚出した。
「これを、お渡しくださりませ。返事は、いりませぬ」
僧は、それを受け取らなかった。
「若ぎみ。無駄にございます」
「存じております」
「山科の御方も、幾度も」
「十七度と、伺いました」
僧が、少し驚いた顔をした。
数えていたのは、こちらだけではない。
千菊丸は、紙を差し出したまま言った。
「これは、願い事ではございませぬ」
「では、何にございます」
「問いにございます」
紙には、一行しか書いていない。
河鰭季富が子、千菊丸。元服つかまつるにあたり、諱に「実」の字を用ゐてよろしきや。
千菊丸は、これを三日考えて書いた。
この家の傷は、そこにある。河鰭の近い代の諱には、「公」と「実」が重なる。公邦。実村。公益。実治。
父だけが、季富である。「公」も「実」もない。
千菊丸が家系図を近い代から追って、いちばん最初に引っかかったのが、そこだった。
そして、父の加冠役は、三条実香である。実香の「実」。祖父・実治の「実」。同じ閑院流の字である。
偶然重なったのではない。加冠役から差し出すにも、河鰭が用いるにも、筋の通った一字だった。
それでも父は、差し出された「実」を受け取らなかった。
貰えなかったのか。返したのか。取り上げられたのか。千菊丸は、答えを持っていない。だから、聞いていない。
聞いたのは、「私は使ってよいか」だけである。
十一の童が、家の通り字を使う許しを、父の加冠役に願う。礼として、完璧に正しい。
そして正しいがゆえに、答えないという選択が、難しくなる。断るなら、理由が要る。理由を書けば、それが答えになる。
どちらに転んでも、何か出る。
僧は、しばらく紙を見ていた。そして、受け取った。
「……お待ちいただいても、無駄にございますぞ」
「待ちませぬ」
千菊丸は、そう言った。
「返事はいらぬと、申し上げました」
「では」
「ですが、座るのは自由にございましょう」
僧は、答えなかった。答えずに、奥へ入っていった。
千菊丸は、渡り廊下の外に座った。石の上である。庭で、楓が鳴っている。正月の風が、袖の中に入ってくる。
待っている、のではない。
千菊丸は、自分にそう言い聞かせた。待っていることになると、断られたときに、負けたことになる。座っているだけである。誰も、座ってはならぬとは言っていない。
日が、動いた。庭の影が、伸びた。
千菊丸は、南天を探した。ない。この庭には、南天がない。
代わりに、敷石を数えた。渡り廊下の下から、築地まで。四十一。二度数えた。二度目も四十一だった。
三度目を数えているとき、指が痺れた。千菊丸は、袖の中で手を揉んだ。
帰るべきか。帰れば、明日また来られる。だが、明日来れば、今日座ったことが「一度目」になる。一度目は、断られた回である。
一度で済ませたい。
日が、傾いた。影が、渡り廊下を越えた。僧は、一度も出てこない。
千菊丸は、数え終わったものが、もう何もないことに気づいた。敷石も、瓦も、楓の枝も、全部数えた。
数えるものがなくなると、寒い。手が、震えてきた。押さえた。
そして、こう思った。
父も、こうやって座ったことがあるのだろうか。
日記には、書いていない。誰の門で、何刻待ったかは、一度も書いていない。書いていないことのほうが、多い。三年かけて全部読んで、そこだけが分かった。
千菊丸は、袖で顔をこすった。寒いからである。それだけだ、と思うことにした。
開いた。
千菊丸は、顔を上げた。
出てきたのは、僧形の老人だった。小さい。背が丸い。僧衣の襟から出た首が、細い。
七十八。
千菊丸は、その姿を見て、言継の言葉を思い出した。あの御方に残された時は、長うない。
そうかもしれない。
だが、目が。目だけが、七十八には見えなかった。
老人は、千菊丸を見下ろした。そして、最初にこう言った。
「季富は、字を返したのじゃ」
千菊丸は、石の上に座ったまま、聞いていた。立ち上がるべきだったのかもしれない。立てば、話が終わる気がした。
「返した」
千菊丸は、繰り返した。
「いつでございますか」
「元服の、その日にじゃ」
老人は、渡り廊下の縁に腰を下ろした。ゆっくりと。骨が軋む音が、聞こえた。
「冠を置いて、諱を授けた。『実』の字をな」
「その場で、断りおった」
老人は、庭を見ていた。
「十二の童がじゃ」
千菊丸は頭の中でつないだ。
父は十二で元服し、その場で烏帽子親の与えた諱を拒んだ。それでも実香との縁は切れず、日記には二十余年「大殿」と出てくる。
切れたのは父が死んだ天文五年、葬に来なかった年だった。
いま九年ぶりに人と会った老人が、いきなり三十三年前の話をする。ずっと、そのことを考えていた者の喋り方だ。
「なぜ、お断りになったのです」
老人は、答えなかった。代わりに、こう言った。
「童。お前、なぜ『実』を使うてよいかと聞いた」
「父が、使うておらぬからにございます」
「それだけか」
千菊丸は、少し、迷った。
嘘を言えば、通るかもしれぬ。「家の通り字ゆえ、礼を尽くしに参りました」と言えば、話は丸く収まる。
収まるが、それで終わる。この人は、九年待っていた。丸い話を聞くために、九年こもってはいまい。
「……それだけでは、ございませぬ」
千菊丸は、顔を上げた。
「父は、返しました」
と言った。
「私は、貰いに参りました」
老人の顔が、動いた。笑ったのか、歪んだのか、千菊丸には分からなかった。どちらとも取れる形で、しばらく止まっていた。
やがて、老人が言った。
「わしは僧じゃ。冠は置けぬ」
「存じております」
「わかっておって来たか」
「冠を置く方は、他に探します」
「では、何を求める」
千菊丸は、一度、息を継いだ。
ここで、山科の話をするべきか。
言継は「大殿を出せ」と言った。天文五年の帳外を、この人に「あった」と言わせろ、と。
それを、いま言えば。
言えば、この人は九年目の客を内蔵頭の使いと受け取る。九年、断り続けた相手の使い。戸が閉まる。
千菊丸は、別のことを言った。嘘ではないほうを。
「父が、なぜ返したのかを」
老人は、答えなかった。庭を見たまま、しばらく動かなかった。
風が出て、楓が鳴った。
千菊丸は、待った。さっきまでと違って、待つのが苦にならない。誰かが向かいにいる待ち時間は、一人で座っている二刻より、ずっと短い。
やがて、老人が言った。
「二月八日に来い」
「二月八日でございますか」
「わしは、支度に日を要する歳じゃ」
千菊丸は、頭を下げながら考えた。
言継は、この人に残された時は長くないと読んでいた。自分はそうは読まなかった。いま、見方が一つ増えた。
日を定めて支度をする者は、その日まで生きるつもりでいる。
どちらが当たっているかは、まだ分からない。だが、一つだけ、確かなことがある。
この人は、何かを用意する気がある。
千菊丸は、懐から包みを出した。
「これを」
「なんじゃ」
「麝香にございます」
老人が、包みを見た。見て、こう言った。
「山科か」
千菊丸は、答えなかった。答える前に、老人が続けた。
「あれは、しつこい男じゃ。十七度、来た」
覚えていた。
千菊丸は、背中が冷えた。九年こもって誰にも会わず、断り続け、それでも何度来たかを忘れていない。
「大殿。山科さまは、まだ来られますでしょうか」
老人は、しばらく黙って、こう言った。
「来るじゃろうな」
そして、包みを取った。
「置いていけ」
老人が、立ち上がった。千菊丸も立った。膝が、笑った。二刻、石の上に座っていた。
戸のところで、老人が振り返らずに言った。
「童」
「はい」
「山科の小せがれには、まだ会うておらぬな」
会っている。二日前に山科邸へ行った。
知らずに聞いているのか、知っていて聞いているのか。九年こもっている老人が、京の誰が誰に会ったかを知っているとは思えない。だが、この人は「十七度」を覚えていた。
千菊丸は、正直に答えることにした。嘘をつけば、次に会うまでの半月余り、それを抱えることになる。
「会うております」
「ほう」
「一昨日にございます」
老人は、答えなかった。しばらく、背を向けたまま立っていた。そして、こう言った。
「それでよい」
戸が、閉まった。
日が、落ちていた。
千菊丸は、三条邸の門を出て、しばらく歩いてから、立ち止まった。
「それでよい」。
何が。会っていることがよかったのか。嘘をつかなかったことがよかったのか。
分からない。いま考えても仕方がないが、手に入ったものはある。
半月後に、また会える。九年、誰も入れなかった戸がもう一度開く。
何を持って行くべきか、千菊丸は歩きながら考え始めた。
持って行くものは、まだ何もない。
あるのは、公頼への約束と、言継への約束と、姉が答えなかった一つの沈黙である。




