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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第一部『空き家』

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7/41

総額

天文十五年(1546年) 正月二十一日  京  山科邸  山科言継


 十日、待った。待つあいだに、言継は二度、後悔した。


 一度目は、「御記は借りぬ」と言った直後である。借りると言っておけばよかった。借りれば、こちらの手元に来る。


 二度目は、「持って参れ」と言い直したときだ。言い直したことが、こちらの手の内を見せている。


 あの日、言継は童に手順を崩された。崩されて、それを取り返さないまま十日経った。


 薬の部屋に通した。書院ではない。書院に通せば、公事の話になる。


 公事の話にすれば、こちらが位で押すことになる。位で押しても、あの童には効かぬ。効かない相手に効かない手を使うのは、無駄である。


 だから、薬研のある部屋にした。麝香の匂いが染みついている。棚には紙包みが並び、隅に乳鉢が二つ置いてある。


 言継は、一つを引き寄せた。待ちながら、薬を擂る。手を動かしていたほうが、考えやすい。


 童が来た。供は、家司が一人。包みを一つ、抱えている。


 思ったより、薄い。


「持って参ったか」


「はい」


 童は、包みを解いて、前に置いた。


 言継は、それを取り上げた。紙の束である。


 写しであった。


 原本の入った包みは、童の膝の脇にある。置いてある。開いていない。出す気が、ない。


 言継は、それを見なかったふりをして、写しを読み始めた。


 座次の条である。二月の四度の寄合。一度目、十一名。二度目、九名。三度目。


 書いていない。


 言継は、指を止めた。


 この童は、書いていないという事実を、写した。「三度目の座次、これ無し」と、はっきり書いてある。


 普通は、写さぬ。ないものを写す者は、いない。写しとは、あるものを移すものである。


 ないことを移した。


 銭の条。天文四年から五年。日付。額。日付。額。一、二、三、四。


 九月十一日。額のみ。摘要なし。


 言継は、唾を飲んだ。九月十一日。この日のことを、京で知っている者は、四人しかいない。


 一人は、九年前に出家した。一人は、十年前に死んだ。そして、もう一人が、いま写しを持っている。


 束の、いちばん最後。言継は、そこまで読んで、顔を上げずに言った。


「足しておらぬな」


 童は、答えなかった。


「日付も額も、一つ残らず写してある。総額だけ、ない」


「……書き落としましてございます」


「嘘じゃ」


 言継は、写しを膝に伏せた。そして、続けた。


「わしなら、こう写す」


 言ってしまった。言継は、自分でそう思った。


 これは、負けの言葉である。「わしなら、こう写す」は、「そなたとわしは同じことをする」という意味だ。


 十一の童に、それを言った。言継は、写しを膝に伏せたまま、目を閉じた。


 指も算木も使わない。二十年、これをやっている。数字は、目で見れば頭に入る。入ったものは、勝手に足される。


 一、二、三、四、五。しばらくして、額を口にした。


 童の顔が、動かなかった。


 動かなかった。


 言継は、確信した。合っている。もし外れていれば、この子は「違います」と言うか、そうでなければ、安堵するはずだ。どちらもしなかった。


 動かないように、力を使っている顔である。


「若ぎみ」


 言継は、そう呼んだ。「童」ではなく。


「その銭は、返らぬ」


「なぜでございます」


「帳に、ないからじゃ」


 言継は、乳鉢を脇へ寄せた。そして、座り直した。


 話すことにした。十日、迷った。迷って、この子が写しを持ってきた時点で、決めた。


 この子は、総額を隠した。隠す者は、使い方を知っている。使い方を知らぬ者に話せば、噂になる。


「天文五年二月。御即位の支度が、足らなんだ。大内からの銭は届いた。届いたが、足りなんだ。式は日が決まっておる。延ばせぬ」


 言継は、一度、息を継いだ。


「三度目の寄合じゃ。あの日、太政大臣がな、諸家を回られた」


「『帳に載せぬ形で、立ててくれぬか』と」


 童が、動かなかった。


 言継は、続けた。


「受けたのは、二家じゃ」


「もう一家は」


 聞いてきた。言継は、答えなかった。答えないことが、答えになるのは、この子には分かる。


 童が、少し間を置いて、言った。


「父は、それゆえ書かなかったのですね」


「書けば、御即位が銭で足らなんだ、と残る」


「書かねば、返らぬ」


「そういうことじゃ」


 言継は、薄く笑った。笑うところではない。笑うところではないので、笑った。


「わしは、末席におった。三十じゃった」


「受取を書いたのは、わしの手じゃ」


 童は、しばらく黙っていた。それから、こう聞いた。


「山科さま。御所は、いま銭がございますか」


「ない」


「では、返らぬのは道理にございます」


 あっさり言う。


 言継は、少し、拍子抜けした。この子は、銭を取りに来たのではない。


「若ぎみ。禁裏に銭はない。じゃが、位はある」


 童が顔を上げると、言継は続けた。


「位は、出しても減らぬ」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 二十年、内蔵頭をやっている。この言い方を誰かにしたのは初めてである。思っていたことを、初めて口に出した。


 童の目が、動いた。初めて、はっきり動いた。


「叙爵を」


「それくらいは、通す」


「中将は」


 来た。言継は、湯呑みを置いた。


「……欲が深いのう」


「父の官にございます」


「先例は要る。歴名は、わしが編んでおる」


「存じております」


 知っておるか。言継は、そこも見逃さなかった。この子は、こちらの家業まで調べてきている。


「その代わり、条件が三つある」


 まず、原本を出せ。


「写しではない。帳に載らなんだ年の記録を、内蔵寮が持っておかねばならぬ」


 また、年内に元服せよ。


「元服前の叙爵にも、先例はいくらもある。四つで従五位下という家もあるでな」


 言継は、言葉を切った。


「じゃが、表の座が十年空いた家の童に、位だけ下ろすわけにはいかぬ」


「年内に元服せよ。当主として、名を立てよ。さすれば、わしが通す」


 言継は、声を落とした。


「大殿を、出せ」


 童が、聞き返した。


「大殿、と申されますと」


「三条の、諦空さまじゃ。あの御方が『あった』と一言おっしゃれば、帳のない銭は、帳になる」


「九年、誰にも会うておられぬ。わしも、幾度も断られた」


 言継は言った。


「わしは、十七度、行った」


 数えている。自分でも嫌になるが、数えている。


「なぜ、私なら会えると」


 童が、聞いた。言継は、正直に答えた。


「会えぬかもしれぬ。じゃが、わしは七年やって、駄目じゃった」


 言継は、乳鉢を指で弾いた。乾いた音がした。


「駄目じゃった者と同じ手を使わぬ者に、頼むしかない」


 童は、頭を下げた。下げて、こう言った。


「お引き受けいたします」


 そして、顔を上げた。


「ただ、」


「なんじゃ」


「原本は、後にしていただきとうございます」


天文十五年(1546年) 正月二十一日  京  山科邸  河鰭千菊丸


 千菊丸は、膝の脇の包みに手を置いた。置いただけで、押し出さなかった。


「大殿にお目通りを済ませたのち、お持ちいたします」


 空気が、変わった。言継は、湯呑みを取ろうとして、止めた。


「……順を、変えると申すか」


「変えてはおりませぬ」


 千菊丸は言った。


「三つとも、お受けいたします。ただ、三つ目が先にございます」


「理由を申せ」


 言うべきか。言えば、この人を疑ったことになる。言わなければ、ただの我儘になる。我儘は、通らない。


「大殿が『あった』と仰せになれば、帳のない銭は帳になります」


「さよう」


「では、帳になる前に原本をお渡しすれば、」


 千菊丸は、言った。


「帳は、山科さまのお手だけで書かれることになりましょう」


 言継が、黙った。長い沈黙だった。千菊丸は、膝の上で指を握っていた。


 言った。十一歳が、四十の内蔵頭に「あなたを信じていない」と言った。理由まで添えて。


 取り消せない。


 やがて、言継が言った。


「わしを、疑うたな」


「疑うてはおりませぬ。山科さまが、御自身の分をどうなさるおつもりか、まだ伺うておりませぬ」


 言継の指が、止まった。千菊丸は、続けた。


「帳外に立てたのは、二家と伺いました」


「……さよう」


「もう一家の名は、伺うておりませぬ」


「うむ」


「ですが、」


 千菊丸は、まっすぐ言った。


「受取をお書きになったのは、山科さまの手にございます」


 言継は、答えなかった。千菊丸は、最後の一つを置いた。


「山科の分は、山科さまが帳に載せられます」


「当家の分は、」


 少し、間を置いた。


「誰が載せまする」


 言継が、笑った。声を出して。千菊丸は、それに身構えた。怒鳴られるより、悪いかもしれぬ。


「季富も、これをやりおったわ」


 千菊丸は、動きを止めた。


「天文五年の秋じゃ」


 言継は、笑いを収めて言った。


「『内蔵寮へ、なほ申すべし』と、わしに三度申した」


 あの一行だ。白い行の、上の一行である。


「三度目に、こう言いおった」


「『言継どの。貴殿の分は、貴殿が書ける。わしの分は、誰が書く』とな」


 千菊丸は、息を止めた。白い行の、続きだった。


 父は、書かなかった。書かなかったものを、この人が覚えていた。


「わしは、答えられなんだ」


 言継は、乳鉢を見ていた。


「そして季富は、その冬に死んだ」


 部屋が、静かになった。千菊丸は、初めて、自分がいま何を言ったのかを理解した。


 同じことを言った。十年後に。同じ相手に。同じ言葉で。


 偶然ではない。同じ帳を読んだからだ。同じものを見て、同じところで詰まった。


 千菊丸は、頭を下げた。何と言えばいいのか、分からなかった。「存じませんでした」も違う。「申し訳ございませぬ」も違う。


 だから、黙った。


「若ぎみ。順は、そちらでよい」


 千菊丸が顔を上げると、言継は続けた。


「大殿にお目通りを済ませたのち、原本を。それまで、わしは小山には行かぬ」


 小山を知っている。三月前に蔵へ入っている。そして、いま「行かぬ」と言った。


 行けば取れる、と自分で認めた形になる。認めたうえで、行かないと言った。


「山科さま。三月前に、蔵にお入りになりましたな」


 言継の目が、動いた。


「……小山か」


「はい」


「そこまで見たか」


 千菊丸は、答えなかった。答えれば、宗琢が話したことになる。あの人を、売らない。


 言継も、それ以上聞かなかった。


 言継は、立って、湯を汲んできた。二人分。自分で。千菊丸は、それを受け取った。


 十一歳に、権中納言が湯を汲んだ。この人は、そういうことをする。そして、それが計算なのか、そうでないのか、千菊丸には分からなかった。


 言継は、薬棚の引き出しから、小さな紙包みを出した。


「麝香じゃ」


「……薬にございますか」


「大殿は、九年前から胸を患うておられる」


「小山から薬が入っておるのを、わしは知っておる」


 千菊丸が引っかかったのは、誰が買っているのかだった。


 三条家の家司なら言継はそう言うはずで、言わないのは、この人も買い手を知らないからだ。


 それを頭の隅に置いた。いまは、聞かない。


「若ぎみ」


「はい」


 言継の声が、低くなった。


「急げ」


「……は」


「七十八じゃ。九年、日の当たらぬところにおられる」


 言継は、乳鉢を引き寄せた。


「あの御方に残された時は、長うない。わしは、そう読んでおる」


 千菊丸は、麝香の包みを懐に入れて、山科邸を出た。


 外は、風が出ていた。


 長うない。言継は、そう言った。九年こもって、胸を患って、七十八。そうかもしれない。


 だが、千菊丸は、それを鵜呑みにしなかった。


 あの人は九年、断り続けている。断り続けるのは力の要ることである。死にかけた者は断らない。面倒だからだ。


 どちらが当たっているかは、会ってみなければ分からない。いま考えても仕方がない。


 千菊丸は、懐の包みを押さえて、歩いた。これを届ける先の門は、九年、開いていない。言継が十七度、断られた門である。


 同じ手を使わぬ者に、頼むしかない。あの人は、そう言った。


 千菊丸は、同じ手を使わない方法を、まだ一つも思いついていない。


 思いつく前に、会わねばならない人が、一人いる。


 三条邸の、門を開けられる人である。


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