なぜ、言わぬ
天文十五年(1546年) 正月二十九日 京 三条邸 河鰭千菊丸
約束が、先である。
公頼は「門はわしが開ける。代わりに、三度目の座を調べて、わしに教えよ」と言った。門は、開いた。こちらが、まだ払っていない。
五日、置いた。
置いたのは、調べがつかなかったからではない。調べは、二十四日についていた。あとの五日は、どこまで申し上げるかを決めるのに使った。
その五日、三条から使いは来なかった。
来なかったことが、催促だった。
案内は、つかなかった。前と同じ道を、同じ順に歩いた。
公頼は、待っていた。待っていた顔である。
千菊丸は、座って、前置きなしに言った。
「三度目の寄合の儀、調べましてございます」
「……申せ」
「天文五年二月。御即位の支度が、足りませんでした」
「大内よりの献金は届きましたが、それでも足りませなんだ」
「幾ら、足りなんだ」
「その額は、どこにも書かれてございませぬ」
公頼が、こちらを見た。
「……書かれておらぬ、か」
「はい」
「式は、日が決まっております。延ばせませぬ」
千菊丸は、続けた。
「あの日、大殿は諸家をお回りになりました」
「何と言うて」
「『帳に載せぬ形で、立ててくれぬか』と」
公頼の顔が、動かなかった。
驚いていない。この人は、聞いた瞬間に、腹の底で「やはりか」と思った顔をしている。九年、その形を疑っていた。疑っていて、確かめられなかった。
確かめる筋がなかったのではない。確かめれば、父が何をしたかを、自分の手で書き留めることになる。書き留めれば、日記に残る。三条の当主の日記に残ったものは、いつか誰かが読む。
だから、疑ったまま置いた。
九年である。
「応じたのは、二家にございます」
「どこじゃ」
「一家は、当家にございます」
「もう一家は」
千菊丸は、一度だけ息を止めた。
「……申し上げられませぬ」
公頼が、眉を上げた。
「言えぬか」
「はい」
「わしにか」
「はい」
千菊丸は、頭を下げた。
「私の口から申し上げれば、その家に、私が借りを作ります」
「約束を果たすために、別の借りを作るか」
「それでは、払い終わりませぬ」
公頼は、鼻から息を抜いた。呆れた息ではなかった。
「……よい」
「お許しくださりませ」
「許すも何も、おぬしは言わぬのであろう」
「はい」
「ならば、聞いても同じじゃ」
千菊丸は、その問いだけを抜いた。裁可がどう下り、奥を誰が通したか。姉の名を出せば、この人はそれを知った者になり、いつか誰かへ悪気なく話す。
言えば、姉が焼ける。
抜いたことは、この人には分かるはずだった。
「帳に載せぬ立替」は、勝手にはできない。禁裏の側が承知していなければ、成立しない。
その部分だけ、報告に穴が空いている。千菊丸は、それを承知で置いた。
公頼は聞かなかった。この人は穴に気づいて、踏まなかった。
代わりに、公頼は別のことを言った。
「千菊丸。わしが、なぜあの座におらなんだか。天文五年の二月じゃ。わしは、娘の縁組の最中じゃった」
公頼は、庭を見た。
「甲斐へ下す話でな」
「支度は、その前の年から始まっておった。輿も、女房も、道の宿も、みな決まっておった。決まっておるものに、当主が張りつく用はない」
「日取りが重なった、と父は言うた。嘘じゃ」
「わしは、京におった」
「縁組の用は、その前の日に済んでおった」
公頼の声が、少し濁った。
「父は、わしを外したのじゃ」
千菊丸は、頭の中で筋をつないだ。
実香は帳に載せぬ話に跡取りを立ち会わせなかった。立ち会えば公頼もその座に連なり、次の代の三条家まで紙に縛られる。
縛られるだけならよい。縛った紙は、いつか外へ出る。出たとき、座にいた者は全員が同じ形になる。いなかった者だけが、いなかったことにできる。
翌年、実香は出家し、一人で全部持って出た。
最後に、庇ったのだ。
千菊丸は、それを言うべきかどうか迷った。言えば、この人は楽になる。だが、楽になった人は、動かなくなる。
いま、この人には動いてもらわねばならない。
千菊丸は、言った。言うほうを選んだ。
「三条さま」
「なんじゃ」
「庇われたのだと存じます」
公頼は、即座に答えた。
「わかっておる」
千菊丸が顔を上げると、公頼はこちらを見ていなかった。
「わかっておるから、腹が立つのじゃ」
外れた。
千菊丸は、自分の勘定を訂正した。この人は楽になっていない。九年、庇われたと分かったうえで腹を立てている。
「なぜ、言わぬ」
公頼が言った。
「一言で済むことじゃ。『おぬしを残す』と、それだけ言えばよい。わしが聞かぬと思うたか」
千菊丸は、答えなかった。
「聞けば、わしが止めると思うたのじゃろう」
「では、止められたのでございますか」
公頼が、こちらを見た。
長い間があった。
「……止めた」
「はい」
「止めたに決まっておる。父一人に背負わせるくらいなら、わしも座った」
「だから、外されたのですね」
「そうじゃ」
公頼は、扇を握った。
「だから、腹が立つ」
千菊丸は、そのとき初めて少し分かった。
庇われたことが腹立たしいのではない。選ばせてもらえなかったことが腹立たしいのだ。父が代わりに決めた。残る側に置かれた。それが九年、終わっていない。
そういう腹の立て方が、あるのだ。
日記には、書いていない。
千菊丸は、手をついた。
「三条さま。お願いがございます」
「申せ」
「私の加冠を、お願い申し上げます」
部屋が、静かになった。
公頼は、しばらく動かなかった。
千菊丸は、膝の上で指を折っていた。折ってから、折っていることに気づいた。怖いときに数える癖である。数えたところで、何が減るわけでもない。
やがて、公頼はこう言った。
「……父が、季富に冠を置いた」
「はい」
「その子に、わしが置く」
「はい」
公頼は、扇を膝に置いた。
「季富は、父の字を返しおったぞ」
「存じております」
「知っておって、頼むか」
「はい」
千菊丸は、顔を上げた。
「ですから、」
そこで、一度切った。
父は、受け取らなかった。返した。返して、自分で一字を選んだ。その結果が、九年である。
「私が、受け取ります」
長い間があった。公頼は、庭を見ていた。楓が、まだ裸である。
「受けよう」
「ありがたく」
「ただし」
公頼が、こちらを見た。
「一つ、条件がある」
「うかがいます」
「九日のちに、わしも連れて行け」
千菊丸の背中を、冷たいものが走った。
実香は九年、誰にも会っていない。会ったのは、二刻座った十一歳ひとりである。そこへ、外された息子を連れて行く。
さらに、戸が、二度と開かなくなる目がある。
二度と開かなければ、加冠は挙がらない。挙がらなければ、二月八日に元服できない。戸が閉まれば、言継との約束が止まる。叙爵が止まる。全部止まる。
断るべきである。
断れば、加冠役がいなくなる。滋野井しか残らない。
滋野井の加冠を受ければ、家は残る。実質は下に入る。父が十四年やったことと、同じになる。
千菊丸は、もう一度、数え直した。
七年前、大殿は一字書いた。
「季」と。
外へ、問うていた。
九年、薬だけが届いていた。姉から。あの人が待っていたのは、「まだ生きておるか」への答えである。
答えるべき者は、何人いる。
姉。
十一歳。
そして、外された息子。
三人だ。
連れて行くのは、危ない。
だが、危ないから連れて行かぬ、では、また同じことになる。誰かが誰かの代わりに決める。残すために外す。庇うために黙る。
それで、九年かかった。
「承知いたしました」
千菊丸は、頭を下げた。そして、こう続けた。
「姉も、参ります」
公頼が、眉を上げた。
「内侍の」
「はい」
「……なるほどのう」
それ以上、公頼は聞かなかった。
この人は、もう気づいている。報告に空いていた穴を、いま、こちらから半分だけ埋めた。姉が同行すると言った時点で、穴の形が見える。
見えても、公頼は聞かなかった。聞けば、千菊丸が言えない理由まで知ることになる。
知らぬままにしておく。公頼は、それを選んだ。
公頼が、廊下まで出てきた。二度目である。
「千菊丸。九日のちじゃな」
「はい」
公頼は、渡り廊下のほうを見た。一本だけの、あの廊下を。
「わしは、九年、あれを渡っておらぬ。二度、渡ろうとして、断られた」
公頼は、そう言って、少し笑った。
「三度目は、せなんだ」
千菊丸は、頭を下げた。
この人も回数を覚えていた。公頼は二度でやめ、言継は十七度通った。やめなかった者と、やめた者がいる。
今日、もう一つ増えた。
言わなかった者と、言われなかった者がいる。
どちらが正しいかは、千菊丸には分からない。
分からないが、九日後には、両方が同じ庭に立つ。




