初
天文十五年(1546年) 二月八日 辰の刻 京 三条邸・奥 三条実香(諦空)
正月二十三日から、支度をした。
支度といっても、書き物である。諦空は、十年、書いている。この半月で書いたのは、そのうちの一枚だけだ。
判を据え、日を入れた。これが、いちばん時がかかる。手が震えるからだ。判を曲げれば、書き直しになる。三度、書き直した。
人に会わなくなって、九年になる。
最初の一年は、来た。幾人も来た。二年目から、減った。三年目に、山科の男が来始めた。
あれは来る。十七度来た。諦空はその回数を覚え、断るたびに力の残りを測っている。
薬も届くが、誰が送っているのかは名を告げないから分からない。
名を告げぬのが、答えじゃ。名を告げる者は、返礼を求めている。告げぬ者は、求めていない。
九年、求めない者が一人だけいた。
戸を開けると、庭に三人いた。
三人か。
諦空は、一度、息を吸った。
九年、誰も来なかった。いや、来た。来て、帰った。入ってきたのは、九年ぶりである。
三人は、順に入って、順に座った。そして、誰も口をきかなかった。
諦空は、脇息にもたれたまま、三人を見た。
左に、女がいる。内侍の装束である。三十に届かぬくらいか。真ん中に、男。公頼。右に、童。二刻座っていた子だ。
諦空は、順に見た。女で、止まった。男で、止まった。童で、止まった。そして、目を閉じた。
待っておる。
諦空は、そう読んだ。三人とも、こちらが先に喋るのを待っている。
待たれたのは九年ぶりである。この九年、来た者はみな先に喋った。用件を言い、理由を並べ、頼み、そして断られて帰った。
この三人は、言わぬ。
諦空は、目を開けた。
「……三人か」
誰も、答えない。
「九年、誰も来なんだ」
「九年、一人も来なんだのじゃ」
誰も、答えない。答えないことが、答えだった。
諦空は、左を見た。
「そなたか」
女が、手をついた。名乗らなかった。
ここでも、名乗らぬか。
「九年、月に一度。礼は、言わぬぞ」
女が、うつむいた。そして、懐から紙を出した。膝の前に、置いた。
七年前に、わしが書いたものじゃ。
「季」の一字。折り目だけが、増えていた。
諦空は、それを見た。見て、しばらく何も言わなかった。
開けたか。七年、開けなんだな。
開けておれば、返事が来ておった。返事が来れば、わしは終いにしておった。
「言えば、終わってしまう」
諦空は、そう言った。言ってから、自分でも、そのとおりだと思った。
礼を言えば、送る理由がなくなる。九年、こちらが黙っていたのは、そのためである。
この女は、それを分かって送っておった。分かっていなければ、七年前の紙を開けて、返事を書いていたはずだ。
返事は、来なかった。だから、続いた。
諦空は、真ん中を見た。
五十二か。わしが四十五のとき、この子は十九であった。あのころ、こやつは何をしておったか。
思い出せない。見ておらなんだのじゃ。
「公頼」
「はい」
声が、硬い。諦空は、そこを見た。
「そこは、下座じゃ。上へ来い」
公頼が、動かなかった。
九年である。九年、渡り廊下を渡っていない男が、いま、庭を渡ってここまで来た。わしが呼んだのではない。童が、連れてきた。
公頼が、膝を進めた。進めながら、喉の奥で何かを押し殺す音がした。
諦空は、それを見なかった。見ぬでよい。見れば、この子は止まる。
諦空は、たった一言だけ言った。この半月、それを考えた。置文よりも、これのほうが時がかかった。
「外したのではない」
公頼が、顔を上げかけて、やめた。
「残したのじゃ」
公頼が、手をついた。顔は、上げなかった。上げないまま、しばらく、上げなかった。
諦空は、庭を見た。
十年、遅い。言えばよかった。天文五年に言えばよかった。
言わなかったのは、言えば公頼が「では、わしも」と言うと分かっていたからだ。その座に連なれば、次の代が縛られる。だから言わず、九年、腹を立てられた。
諦空は自分に言い聞かせた。この九年で、いちばん高くついたのは、これじゃ。
帳外の銭ではない。太政大臣の座でもない。説明しなかった一言である。
諦空は、右を見た。
童は、こちらを見ていた。逸らさぬ。
九年、この目で見られたことがない。来た者は、みな、どこかを見ていた。畳とか、庭とか、こちらの手元とか。
この子は、顔を見ている。
「童」
「はい」
「名は」
「千菊丸にございます」
「まだ、無いのじゃな」
「はい」
諦空は、脇の文箱を指した。
「開けよ」
童が、開けた。紙が、一枚。判が据えてある。日が入っている。
半月かけて、一枚じゃ。
諦空は、それを見て、少し可笑しくなった。太政大臣まで昇った男が、半月かけて一枚である。
童が読んでいる。異様に速い。十一で出る速さではない。
季富の記を読んだな、と諦空は気づいた。
童の手が止まった。止まったところで、諦空には分かった。
九月十一日じゃ。
「大殿」
「なんじゃ」
童が、顔を上げた。
「これは」
「読んだままじゃ」
諦空は、目を閉じた。
十年、書いてきた。このことだけは、どこにも書かなかった。書いたのは、この半月である。
「二月に、わしは諸家を回った」
「帳に載せぬ形で立ててくれ、とな」
「応じたのが、二家じゃ。河鰭と、山科」
「帳に載らぬ銭は、返す道もない。半年、抱えた」
「九月に、返そうとした」
諦空は、一度、息を継いだ。
「返す銭が、なかった」
誰も、何も言わない。
「じゃから、借りに行った。返すべき相手の、片方に」
「季富は、笑いおったわ」
諦空は、そう言った。言いながら、あのときの顔を思い出した。十年経つ。
「『御返しになる銭を、それがしがお貸しいたします』とな」
「そして、こう申した」
「『これで、山科殿の分は、返りましょう』」
女が袖を口に当てても、童は動かなかった。
動かぬな、と諦空は少し感心した。この子はいま、自分の家がその日に何を失ったかを考えておる。
「わしは、返せなんだ」
諦空は、続けた。
「季富が死んだ。紙はない。奥も、文には残っておらぬ」
「相手は、乳飲み子と、女房が一人じゃ」
「返そうにも、返す形がなかった」
「それゆえ、出たのじゃ」
公頼が顔を上げると、諦空は続けた。
「太政大臣のままでは、この紙は書けぬ。書けば、御即位が銭で足らなんだと残る」
「僧なら、書ける」
諦空は言った。
「書いても、朝廷の恥にはならぬ。ただの老僧の繰り言じゃ」
九年。
書ける身分には、九年前になった。なってから、九年、書かなかった。
書いても、受け取る者がおらねば、ただの紙である。受け取りに来る者が来たから、この半月で書いた。
来た。三人で。
諦空は、最後に、童を呼んだ。
「童」
「はい」
「『実』を、使うてよいかと聞いたな」
「はい」
諦空は、答えるまでに間を置いた。
「やらぬ」
童が、顔を上げた。初めて、顔が動いた。
「やる物ではない」
諦空は言った。
「三十三年前、わしは季富にやった。やったから、返された」
「そなたは、貰いに来たと申した」
「ならば、取れ。わしは、置くだけじゃ」
諦空は、震える手で筆を取った。紙に、一字だけ書いた。
実
そして、筆を童のほうへ押した。
「下は、自分で書け」
「季富が、そうしたようにな」
諦空は、目を閉じた。
何と書く。
「実忠」か。「実基」か。無難なところなら、そのあたりじゃ。あるいは、父を継いで「実季」か。それも悪くない。わしなら、それを書く。
筆の音がした。一字である。
諦空は、目を開けた。そして、しばらく、動けなかった。
天文十五年(1546年) 二月八日 京 三条邸・奥 河鰭千菊丸
筆を、取った。
二月八日まで、考えた。考えて、決まらなかった。
「実」の下に、何を置くか。
父は、近い代の「公」と「実」を越えて、「季」と書いた。その隣に、何と書けばいいのか。
実忠。実基。実世。無難な字は、いくつも思いついた。思いついて、どれも書かなかった。
無難な字は、父を消す。父がどこまで遡ってその字を選んだのかを見ずに、近い代の通り字へ戻るだけになる。父の三十五年が、そこで消える。
だが、「実季」も違う。父が自分で選び取った字を、そのまま借りるだけになる。それでは、父の答えを写したにすぎない。
筆を持ったまま、千菊丸は、数えるのをやめた。
数えても、出ない。数えて出るものは、もう全部数えた。残っているのは、数えないで決めるものである。
千菊丸は、書いた。
初
老人が、片方の眉を上げた。
「そのような諱は、聞かぬ」
「ございませぬ」
「ならば、なぜ」
「ですから、私の字にございます」
かわばた さねはつ。
老人は、目を閉じたままだった。しばらくして、こう言った。
「……初、か」
「はい」
「季の、次にか」
「いいえ」
実初は、答えた。
「季の、隣にございます」
老人が、笑った。声を出して。咳き込まなかった。
「憎いことを申す。季富は、近き代を越えて、古い始まりへ戻った」
「そなたは、その隣に、まだ無い始まりを置いた」
老人は、目を開けた。
「どちらも消さぬか」
「父は、生涯、延ばしてくださいました」
実初は言った。
「延ばしていただいたゆえ、家が残っております。残っておるゆえ、始められます」
老人は、それきり何も言わなかった。
やがて、脇息にもたれたまま、片手を上げた。帰れ、という手だった。
三人が立つとき、背中に一言だけ落ちた。
「公頼」
「……はい」
「冠は、まっすぐ置け」
支度に、九月かかった。
装束は、祖父・実治の図から起こした。文箱の三つ目である。十歳から十二歳の童の、元服の袍。代々、この家の子が使ってきた図だった。
家業が、初めて役に立った。
反物は、室町の小山から入れた。実初は、質草を出そうとした。宗琢は、受け取らなかった。
「若さま。それは、質草にはなりませぬ」
「なぜです」
「手前が、値を知ってしまいましたゆえ」
宗琢は、そう言った。
「流せぬ物は、質草と申しませぬ」
そして、掛けで出した。
なぜ、出す。
この人は、十年ぶんの掛けで困っている。合わない算木を、毎朝見ている。その男が、十一の童に、質も取らずに反物を出す。
人情ではない。人情で商いをする者は、三十年もたない。
「宗琢どの」
「へえ」
「なぜ、お出しになります」
宗琢は、算木の筒を撫でた。そして、笑わずに言った。
「若さまは、内蔵頭さまの御屋敷に、御出入りにございましょう」
「……はい」
「手前は、十年、あちらへ薬を納めております」
宗琢は、少し、間を置いた。
「銭は、頂戴しておりませぬ」
実初は、理解した。
橋である。
この人は、自分に貸しを作っている。貸しを作っておけば、いつか山科の帳を動かす筋に使える。十年、催促できなかった掛けを、こちらから動かせるかもしれぬ、と数えている。
「宗琢どの」
「へえ」
「当たるかどうかは、分かりませぬ」
「存じております」
宗琢は、算木を置いた。
「外れれば、反物のぶんが損にございます」
「十年焦げついた掛けに比べれば、安うございます」
実初は、頭を下げた。
この人は、賭けた。賭けたからには、こちらは外してはならない。
証文はない。証文がないぶん、重い。
日取りは、十一月十八日と決まった。場所は、三条邸である。
河鰭邸では、格が足りぬ。道理である。同時に、三条の傘の下に入るという宣言でもある。
滋野井のときに拒んだ構図と、形は同じだ。だが、家督は自分のものになる。入れられた養子は、後から出せない。傘は、後から畳める。
呑んだ。
滋野井へは、公頼から伝えた。実初が言えば、断りになる。三条から伝われば、報せになる。格が違う相手に取られたのなら、負けにならない。
返事は、二字だったという。
「承知」
実初は、一つだけ添えてもらった。次郎君の身の振りについて、心に留めおいていただきたい、と。
公頼は、それを伝えた。そして、こう書き送ってきた。
次郎の儀、心に留めおく由、申し伝えた。
童が申したとは、書かなんだ。
この人は、味方をするときに、味方の姿を消す。
三条邸。加冠、三条公頼。
河鰭邸の奥へも、日取りは告げてあった。返りはなく、祖父・実治は姿を見せなかった。
几帳の内から、姉が見ていた。女房が弟の元服を見るのは、本来、筋ではない。公頼が黙って一枚、几帳を立てさせた。
冠が置かれたとき、実初は目を閉じていた。
まっすぐか。自分では分からない。
こうして、表の座が十年空いていた家に、十一歳の当主が立った。
*
近江坂本では若公方の元服が行われ、六角の大殿が加冠役を務めた。諸家の名が並ぶなか、河鰭家も「当主あり」として記された。
十年、空席として晒されるはずだった年に、間に合った。自分で切った期限に、間に合った。
求められたのは、天文五年の一箱だけである。それでも、十一箱すべてを持っていった。
理由を、実初は誰にも言わなかった。言えば、意味が変わる気がした。
父に、読む者を渡すためである。
あの十一箱を読んだのは、京で自分ひとりだった。自分が死ねば、それきりになる。
内蔵頭なら、読む。あの人は、全部読む。読まずにはいられない人である。
言継は、箱の蓋を一つも開けずに、脇へ置いた。
「大殿は」
「御健勝にあらせられます」
「……ほう」
「支度に半月と仰せられましたが、半月で一枚でございました」
言継が、初めて笑った。
「一枚か」
実初は、置文を出した。言継が読んだ。読み終えて、長く黙った。
「……九月の銭は」
「山科さまの分を、返させるためのものにございます。父は、それで当家の分を失いましてございます」
言継は、置文を膝に置いた。そして、頭を下げた。四十の内蔵頭が、十一歳に。
「若ぎみ」
「河鰭実初にございます」
「……実初どの」
言継は、顔を上げた。
「帳は、わしが書く」
「式のぶん四通は、御用の立替として載せる」
「そして九月のぶんは、載せられぬ」
「存じております」
「銭にはならぬ。位にもならぬ」
「存じております」
実初は言った。
「ですが、残ります」
*
河鰭実初、叙爵。従五位下。十二歳になった。
位を貰った日の夜、実初は書庫に入り、十一箱の消えた棚を見た。
読む者が、いなくなった。
いや。言継が読む。あの人は、必ず全部読む。
それでいい。それでいいのだが、実初は、しばらくそこを動かなかった。
姉が、湯を持ってきた。
「……寒うございましょう」
「はい」
姉は、空いた棚を見て、何も言わなかった。そして、こう言った。
「実初。名で呼ぶのは、初めてですね」
実初は、答えられなかった。
庭に出ると、南天があった。冬である。
十九。
去年の正月は三十六あった。鳥が食い、毎年減る。来年になればまた実る。
実初は、十九をもう一度数えた。
位は、取った。従五位下。十二歳。官が、まだない。
位は、出しても減らぬ。言継が、そう言った。
では、官は。
官は、除目の帳に名が載らねば、来ない。載らぬ者は、待っていても載らぬ。
待っていれば載る、と思うている者が、京に何人もいる。
そのことに、実初はまだ気づいていない。気づくのは、七年後である。
風が出た。南天が、揺れた。
実初は、数えるのをやめて、家に入った。
第一部『空き家』 了




