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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第一部『空き家』

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11/41

初

天文十五年(1546年) 二月八日 辰の刻  京  三条邸・奥  三条実香(諦空)


 正月二十三日から、支度をした。


 支度といっても、書き物である。諦空は、十年、書いている。この半月で書いたのは、そのうちの一枚だけだ。


 判を据え、日を入れた。これが、いちばん時がかかる。手が震えるからだ。判を曲げれば、書き直しになる。三度、書き直した。


 人に会わなくなって、九年になる。


 最初の一年は、来た。幾人も来た。二年目から、減った。三年目に、山科の男が来始めた。


 あれは来る。十七度来た。諦空はその回数を覚え、断るたびに力の残りを測っている。


 薬も届くが、誰が送っているのかは名を告げないから分からない。


 名を告げぬのが、答えじゃ。名を告げる者は、返礼を求めている。告げぬ者は、求めていない。


 九年、求めない者が一人だけいた。


 戸を開けると、庭に三人いた。


 三人か。


 諦空は、一度、息を吸った。


 九年、誰も来なかった。いや、来た。来て、帰った。入ってきたのは、九年ぶりである。


 三人は、順に入って、順に座った。そして、誰も口をきかなかった。


 諦空は、脇息にもたれたまま、三人を見た。


 左に、女がいる。内侍の装束である。三十に届かぬくらいか。真ん中に、男。公頼。右に、童。二刻座っていた子だ。


 諦空は、順に見た。女で、止まった。男で、止まった。童で、止まった。そして、目を閉じた。


 待っておる。


 諦空は、そう読んだ。三人とも、こちらが先に喋るのを待っている。


 待たれたのは九年ぶりである。この九年、来た者はみな先に喋った。用件を言い、理由を並べ、頼み、そして断られて帰った。


 この三人は、言わぬ。


 諦空は、目を開けた。


「……三人か」


 誰も、答えない。


「九年、誰も来なんだ」


「九年、一人も来なんだのじゃ」


 誰も、答えない。答えないことが、答えだった。


 諦空は、左を見た。


「そなたか」


 女が、手をついた。名乗らなかった。


 ここでも、名乗らぬか。


「九年、月に一度。礼は、言わぬぞ」


 女が、うつむいた。そして、懐から紙を出した。膝の前に、置いた。


 七年前に、わしが書いたものじゃ。


 「季」の一字。折り目だけが、増えていた。


 諦空は、それを見た。見て、しばらく何も言わなかった。


 開けたか。七年、開けなんだな。


 開けておれば、返事が来ておった。返事が来れば、わしは終いにしておった。


「言えば、終わってしまう」


 諦空は、そう言った。言ってから、自分でも、そのとおりだと思った。


 礼を言えば、送る理由がなくなる。九年、こちらが黙っていたのは、そのためである。


 この女は、それを分かって送っておった。分かっていなければ、七年前の紙を開けて、返事を書いていたはずだ。


 返事は、来なかった。だから、続いた。


 諦空は、真ん中を見た。


 五十二か。わしが四十五のとき、この子は十九であった。あのころ、こやつは何をしておったか。


 思い出せない。見ておらなんだのじゃ。


「公頼」


「はい」


 声が、硬い。諦空は、そこを見た。


「そこは、下座じゃ。上へ来い」


 公頼が、動かなかった。


 九年である。九年、渡り廊下を渡っていない男が、いま、庭を渡ってここまで来た。わしが呼んだのではない。童が、連れてきた。


 公頼が、膝を進めた。進めながら、喉の奥で何かを押し殺す音がした。


 諦空は、それを見なかった。見ぬでよい。見れば、この子は止まる。


 諦空は、たった一言だけ言った。この半月、それを考えた。置文よりも、これのほうが時がかかった。


「外したのではない」


 公頼が、顔を上げかけて、やめた。


「残したのじゃ」


 公頼が、手をついた。顔は、上げなかった。上げないまま、しばらく、上げなかった。


 諦空は、庭を見た。


 十年、遅い。言えばよかった。天文五年に言えばよかった。


 言わなかったのは、言えば公頼が「では、わしも」と言うと分かっていたからだ。その座に連なれば、次の代が縛られる。だから言わず、九年、腹を立てられた。


 諦空は自分に言い聞かせた。この九年で、いちばん高くついたのは、これじゃ。


 帳外の銭ではない。太政大臣の座でもない。説明しなかった一言である。


 諦空は、右を見た。


 童は、こちらを見ていた。逸らさぬ。


 九年、この目で見られたことがない。来た者は、みな、どこかを見ていた。畳とか、庭とか、こちらの手元とか。


 この子は、顔を見ている。


「童」


「はい」


「名は」


「千菊丸にございます」


「まだ、無いのじゃな」


「はい」


 諦空は、脇の文箱を指した。


「開けよ」


 童が、開けた。紙が、一枚。判が据えてある。日が入っている。


 半月かけて、一枚じゃ。


 諦空は、それを見て、少し可笑しくなった。太政大臣まで昇った男が、半月かけて一枚である。


 童が読んでいる。異様に速い。十一で出る速さではない。


 季富の記を読んだな、と諦空は気づいた。


 童の手が止まった。止まったところで、諦空には分かった。


 九月十一日じゃ。


「大殿」


「なんじゃ」


 童が、顔を上げた。


「これは」


「読んだままじゃ」


 諦空は、目を閉じた。


 十年、書いてきた。このことだけは、どこにも書かなかった。書いたのは、この半月である。


「二月に、わしは諸家を回った」


「帳に載せぬ形で立ててくれ、とな」


「応じたのが、二家じゃ。河鰭と、山科」


「帳に載らぬ銭は、返す道もない。半年、抱えた」


「九月に、返そうとした」


 諦空は、一度、息を継いだ。


「返す銭が、なかった」


 誰も、何も言わない。


「じゃから、借りに行った。返すべき相手の、片方に」


「季富は、笑いおったわ」


 諦空は、そう言った。言いながら、あのときの顔を思い出した。十年経つ。


「『御返しになる銭を、それがしがお貸しいたします』とな」


「そして、こう申した」


「『これで、山科殿の分は、返りましょう』」


 女が袖を口に当てても、童は動かなかった。


 動かぬな、と諦空は少し感心した。この子はいま、自分の家がその日に何を失ったかを考えておる。


「わしは、返せなんだ」


 諦空は、続けた。


「季富が死んだ。紙はない。奥も、文には残っておらぬ」


「相手は、乳飲み子と、女房が一人じゃ」


「返そうにも、返す形がなかった」


「それゆえ、出たのじゃ」


 公頼が顔を上げると、諦空は続けた。


「太政大臣のままでは、この紙は書けぬ。書けば、御即位が銭で足らなんだと残る」


「僧なら、書ける」


 諦空は言った。


「書いても、朝廷の恥にはならぬ。ただの老僧の繰り言じゃ」


 九年。


 書ける身分には、九年前になった。なってから、九年、書かなかった。


 書いても、受け取る者がおらねば、ただの紙である。受け取りに来る者が来たから、この半月で書いた。


 来た。三人で。


 諦空は、最後に、童を呼んだ。


「童」


「はい」


「『実』を、使うてよいかと聞いたな」


「はい」


 諦空は、答えるまでに間を置いた。


「やらぬ」


 童が、顔を上げた。初めて、顔が動いた。


「やる物ではない」


 諦空は言った。


「三十三年前、わしは季富にやった。やったから、返された」


「そなたは、貰いに来たと申した」


「ならば、取れ。わしは、置くだけじゃ」


 諦空は、震える手で筆を取った。紙に、一字だけ書いた。


  実


 そして、筆を童のほうへ押した。


「下は、自分で書け」


「季富が、そうしたようにな」


 諦空は、目を閉じた。


 何と書く。


 「実忠」か。「実基」か。無難なところなら、そのあたりじゃ。あるいは、父を継いで「実季」か。それも悪くない。わしなら、それを書く。


 筆の音がした。一字である。


 諦空は、目を開けた。そして、しばらく、動けなかった。


天文十五年(1546年) 二月八日  京  三条邸・奥  河鰭千菊丸


 筆を、取った。


 二月八日まで、考えた。考えて、決まらなかった。


 「実」の下に、何を置くか。


 父は、近い代の「公」と「実」を越えて、「季」と書いた。その隣に、何と書けばいいのか。


 実忠。実基。実世。無難な字は、いくつも思いついた。思いついて、どれも書かなかった。


 無難な字は、父を消す。父がどこまで遡ってその字を選んだのかを見ずに、近い代の通り字へ戻るだけになる。父の三十五年が、そこで消える。


 だが、「実季」も違う。父が自分で選び取った字を、そのまま借りるだけになる。それでは、父の答えを写したにすぎない。


 筆を持ったまま、千菊丸は、数えるのをやめた。


 数えても、出ない。数えて出るものは、もう全部数えた。残っているのは、数えないで決めるものである。


 千菊丸は、書いた。


  初


 老人が、片方の眉を上げた。


「そのような諱は、聞かぬ」


「ございませぬ」


「ならば、なぜ」


「ですから、私の字にございます」


 かわばた さねはつ。


 老人は、目を閉じたままだった。しばらくして、こう言った。


「……初、か」


「はい」


「季の、次にか」


「いいえ」


 実初は、答えた。


「季の、隣にございます」


 老人が、笑った。声を出して。咳き込まなかった。


「憎いことを申す。季富は、近き代を越えて、古い始まりへ戻った」


「そなたは、その隣に、まだ無い始まりを置いた」


 老人は、目を開けた。


「どちらも消さぬか」


「父は、生涯、延ばしてくださいました」


 実初は言った。


「延ばしていただいたゆえ、家が残っております。残っておるゆえ、始められます」


 老人は、それきり何も言わなかった。


 やがて、脇息にもたれたまま、片手を上げた。帰れ、という手だった。


 三人が立つとき、背中に一言だけ落ちた。


「公頼」


「……はい」


「冠は、まっすぐ置け」


 支度に、九月かかった。


 装束は、祖父・実治の図から起こした。文箱の三つ目である。十歳から十二歳の童の、元服の袍。代々、この家の子が使ってきた図だった。


 家業が、初めて役に立った。


 反物は、室町の小山から入れた。実初は、質草を出そうとした。宗琢は、受け取らなかった。


「若さま。それは、質草にはなりませぬ」


「なぜです」


「手前が、値を知ってしまいましたゆえ」


 宗琢は、そう言った。


「流せぬ物は、質草と申しませぬ」


 そして、掛けで出した。


 なぜ、出す。


 この人は、十年ぶんの掛けで困っている。合わない算木を、毎朝見ている。その男が、十一の童に、質も取らずに反物を出す。


 人情ではない。人情で商いをする者は、三十年もたない。


「宗琢どの」


「へえ」


「なぜ、お出しになります」


 宗琢は、算木の筒を撫でた。そして、笑わずに言った。


「若さまは、内蔵頭さまの御屋敷に、御出入りにございましょう」


「……はい」


「手前は、十年、あちらへ薬を納めております」


 宗琢は、少し、間を置いた。


「銭は、頂戴しておりませぬ」


 実初は、理解した。


 橋である。


 この人は、自分に貸しを作っている。貸しを作っておけば、いつか山科の帳を動かす筋に使える。十年、催促できなかった掛けを、こちらから動かせるかもしれぬ、と数えている。


「宗琢どの」


「へえ」


「当たるかどうかは、分かりませぬ」


「存じております」


 宗琢は、算木を置いた。


「外れれば、反物のぶんが損にございます」


「十年焦げついた掛けに比べれば、安うございます」


 実初は、頭を下げた。


 この人は、賭けた。賭けたからには、こちらは外してはならない。


 証文はない。証文がないぶん、重い。


 日取りは、十一月十八日と決まった。場所は、三条邸である。


 河鰭邸では、格が足りぬ。道理である。同時に、三条の傘の下に入るという宣言でもある。


 滋野井のときに拒んだ構図と、形は同じだ。だが、家督は自分のものになる。入れられた養子は、後から出せない。傘は、後から畳める。


 呑んだ。


 滋野井へは、公頼から伝えた。実初が言えば、断りになる。三条から伝われば、報せになる。格が違う相手に取られたのなら、負けにならない。


 返事は、二字だったという。


「承知」


 実初は、一つだけ添えてもらった。次郎君の身の振りについて、心に留めおいていただきたい、と。


 公頼は、それを伝えた。そして、こう書き送ってきた。


  次郎の儀、心に留めおく由、申し伝えた。

  童が申したとは、書かなんだ。


 この人は、味方をするときに、味方の姿を消す。


 三条邸。加冠、三条公頼。


 河鰭邸の奥へも、日取りは告げてあった。返りはなく、祖父・実治は姿を見せなかった。


 几帳の内から、姉が見ていた。女房が弟の元服を見るのは、本来、筋ではない。公頼が黙って一枚、几帳を立てさせた。


 冠が置かれたとき、実初は目を閉じていた。


 まっすぐか。自分では分からない。


 こうして、表の座が十年空いていた家に、十一歳の当主が立った。


*


 近江坂本では若公方の元服が行われ、六角の大殿が加冠役を務めた。諸家の名が並ぶなか、河鰭家も「当主あり」として記された。


 十年、空席として晒されるはずだった年に、間に合った。自分で切った期限に、間に合った。


 求められたのは、天文五年の一箱だけである。それでも、十一箱すべてを持っていった。


 理由を、実初は誰にも言わなかった。言えば、意味が変わる気がした。


 父に、読む者を渡すためである。


 あの十一箱を読んだのは、京で自分ひとりだった。自分が死ねば、それきりになる。


 内蔵頭なら、読む。あの人は、全部読む。読まずにはいられない人である。


 言継は、箱の蓋を一つも開けずに、脇へ置いた。


「大殿は」


「御健勝にあらせられます」


「……ほう」


「支度に半月と仰せられましたが、半月で一枚でございました」


 言継が、初めて笑った。


「一枚か」


 実初は、置文を出した。言継が読んだ。読み終えて、長く黙った。


「……九月の銭は」


「山科さまの分を、返させるためのものにございます。父は、それで当家の分を失いましてございます」


 言継は、置文を膝に置いた。そして、頭を下げた。四十の内蔵頭が、十一歳に。


「若ぎみ」


「河鰭実初にございます」


「……実初どの」


 言継は、顔を上げた。


「帳は、わしが書く」


「式のぶん四通は、御用の立替として載せる」


「そして九月のぶんは、載せられぬ」


「存じております」


「銭にはならぬ。位にもならぬ」


「存じております」


 実初は言った。


「ですが、残ります」


*


 河鰭実初、叙爵。従五位下。十二歳になった。


 位を貰った日の夜、実初は書庫に入り、十一箱の消えた棚を見た。


 読む者が、いなくなった。


 いや。言継が読む。あの人は、必ず全部読む。


 それでいい。それでいいのだが、実初は、しばらくそこを動かなかった。


 姉が、湯を持ってきた。


「……寒うございましょう」


「はい」


 姉は、空いた棚を見て、何も言わなかった。そして、こう言った。


「実初。名で呼ぶのは、初めてですね」


 実初は、答えられなかった。


 庭に出ると、南天があった。冬である。


 十九。


 去年の正月は三十六あった。鳥が食い、毎年減る。来年になればまた実る。


 実初は、十九をもう一度数えた。


 位は、取った。従五位下。十二歳。官が、まだない。


 位は、出しても減らぬ。言継が、そう言った。


 では、官は。


 官は、除目の帳に名が載らねば、来ない。載らぬ者は、待っていても載らぬ。


 待っていれば載る、と思うている者が、京に何人もいる。


 そのことに、実初はまだ気づいていない。気づくのは、七年後である。


 風が出た。南天が、揺れた。


 実初は、数えるのをやめて、家に入った。


第一部『空き家』 了


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