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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第二部『帳』

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12/41

元値

天文十六年(1547年) 正月  京  三条邸  三条公頼


 冠を置いてから、二月になる。


 公頼は、あの日のことを、思い出さないようにしていた。思い出すと、父の顔が出てくる。


「外したのではない。残したのじゃ」


 九年、待った一言である。待った、とは、自分でも思っていなかった。言われて初めて、待っていたと分かった。


 あれから、父には会っていない。渡り廊下は、また閉じている。


 開けたのは、あの童じゃ。わしではない。


 河鰭実初が来た。十二になった。従五位下。官は、まだない。


 装束は、去年こしらえたものである。まだ新しい。公頼は、ふと、それが誰の銭で作られたのかを考えた。あの家に、銭はない。


 考えて、聞かないことにした。


 年賀の口上が済むと、この子はすぐに本題に入った。そこは、変わらぬ。


「三条さま。当家の家業を、再開いたします」


「ほう」


「有職の儀にございます」


 公頼は、扇を膝に置いた。


「十年、誰も習いに来なんだ家じゃぞ」


「十年、教える者がおりませなんだゆえにございます」


 言い返してきた。公頼は、少し笑った。


「して、誰に教える」


 実初は、一拍置いた。置いたのが、分かった。言いにくいことを、言う前の間じゃ。


「上がってきた者にでございます」


 公頼の眉が、動いた。


「武家か」


「はい」


「町人もか」


「払う者になら」


 公頼は、扇を膝の上で立てた。


 これは、いい話ではない。


 故実は、知っていること自体が家の格である。分からぬ者へ教えれば、知っている家と知らぬ家の差が、一つ消える。


「実初。それは、家業を売ることじゃ」


「さようにございます」


 否定せぬか。


「恥と思わぬか」


「思いませぬ」


 即答である。公頼は、少し、腹が立った。


「なにゆえじゃ」


 実初は、手をついた。


「当家は、天文五年に、帳に載らぬ銭を出しましてございます」


 その話を、ここで出すか。


「あのとき、当家が出せる物は、銭しかございませんでした」


「銭がのうなって、表の座が十年空きました」


 実初は、顔を上げた。


「次に禁裏が痩せたとき、当家が出せる物を、増やしておきとうございます」


 公頼は、答えられなかった。痩せる。次に、ではない。いま、痩せている。節会は削られたままである。御所の修理は止まっている。主上は五十二におなりになる。


 わしは、それに何を出した。娘を配って、家を保った。それだけである。


 公頼は、庭を見た。そして、まったく別のことを言った。


「……父がな」


「はい」


「先月、そなたの諱を聞いて、こう申した」


 実初が、こちらを見た。


「『あれは、季富の子ではないな』と」


 実初は何も言わなかった。公頼は少し可笑しくなった。この子は褒められても喜ばず、言葉の裏を探す顔をしている。


 公頼は扇を閉じた。


「実初。三つ、条件を出す」


「教える相手を、選べ。誰にでも教える家は、誰からも尊ばれぬ」


「値を書くな。『礼』として受けよ。書けば、商いになる」


 実初の指が、そこで一度、止まった。書かねば、残らない。書けば、商いになる。


 こちらの帳にだけ書いて、外へは出さぬ。それでよいか。


 父が、九月の一度でやったのが、それである。やって、返らなくなった。


「三条の名は、こちらから出す。頼まれて出すのではない。先に出しておく」


 実初が、手をついた。


「ありがたく存じます」


「待て」


 公頼は、最後に条件を足した。


「もう一つある。わしが、最初の客になろう」


 実初が顔を上げると、公頼は続けた。


「娘が、甲斐におる。あちらから、任官の作法を問うてくる」


「わしは、知らぬ」


 公頼は、正直に言った。


 知らぬのじゃ。武家の任官である。清華家の当主が、そんなものを覚えているはずがない。


 だが、娘の嫁ぎ先が聞いてくれば、答えねばならない。この二年、家司に調べさせて、そのつど返している。


 面倒である。


「故実は、そなたの家業じゃ」


「承知いたしました」


 実初が帰ったあと、公頼はしばらく座っていた。最初の客に、わしがなった。


 なぜなったのか、自分でもうまく説明できない。娘のことが面倒だから、というのは、半分である。


 もう半分は。


 この子が、何を作るのかを見たい。


 公頼は、そう思った。思って、自分で少し驚いた。五十三である。何かを見たいと思ったのは、久しぶりであった。


天文十六年(1547年) 正月  京  室町 小山  小山宗琢


 反物の掛けは、まだ残っている。


 宗琢は、それを帳に立てたままにしている。催促せぬ。催促すれば、賭けが賭けでなくなる。


 賭けたのは、去年の秋である。十一の童に、質も取らずに反物を出した。


 そして、当たりかけている。河鰭の若ぎみは、十一月に元服し、正月に叙爵した。従五位下。十二である。官は、まだない。


 だが、位が出た。位が出たということは、内蔵頭が動いたということである。


 宗琢は、それを聞いたとき、算木を並べた。十年焦げついた掛けが、動くかもしれぬ。


「河鰭さまがお見えで」


 宗琢は、算木を置いた。掛けの話か。それなら、待つと言うつもりでいる。まだ早い。この子には、まだ何もない。


 入ってきた若ぎみは、去年より背が伸びていた。装束は、あの反物である。


 着ておる。宗琢は、それを見て、少しだけ、自分の判断を信じた。


「宗琢どの。掛けの儀にございますが」


「へえ」


「まだ、お返しできませぬ」


 宗琢は、うなずいた。


「存じております」


「催促は、いたしませぬ。当たりが出るまで、待ちまする」


 若ぎみは、頭を下げた。そして、こう言った。


「今日は、別の御用にございます」


「へえ」


「唐薬の元値を、伺いとうございます」


 宗琢は、顔を上げた。


 元値。商人に元値を聞く客は、いない。客が聞くのは、売値である。


「若さま。それは、知ってどうなさいます」


「知らねば、値の話ができませぬ」


「どなたと」


「まだ、決めておりませぬ」


 宗琢は、しばらく若ぎみを見た。決めておらぬのに、聞きに来た。商人の顔である。仕入れを覚えようとする者の顔だ。


 宗琢は算木を一本置いた。教えて損か。元値を知られれば、こちらの乗せ幅が知れる。ふつうなら損である。


 だが。


 この子の相手は、手前ではない。唐薬の値を決めているのは、京の薬屋ではない。堺である。あちらが「今年はこの値」と言えば、京はそれで買うしかない。三十年、そうである。


 堺の値を、揺らしてくれる者がいれば。仕入れが、安くなる。


 元値は、そのための武器になる。


 宗琢は、話すことにした。半日、話した。麝香がどこから来て、堺で誰の手を経て、京に着くまでにいくら乗るか。竜脳がなぜ高いか。蜜が、なぜ年によって二倍になるか。


 この子は、途中で一度も口を挟まなかった。挟まずに、最後に三つだけ聞いた。


「船は、年に何度着きまする」


「着かなかった年は、ございましたか」


「そのとき、値を決めたのは、どなたでございます」


 三つとも、宗琢が言い落としたところだった。三つ目で、宗琢は答えに詰まった。


 日が傾いてから、宗琢はこう言った。


「若さま。もう一つ、申し上げます」


「うかがいます」


「堺の衆は、公家をありがたがりませぬ」


 若ぎみは、驚かなかった。


「存じております」


「銭も、船も、鉄砲もございます」


「戦を止めることも、始めることも、あちらの匙加減にございます」


 宗琢は言った。


「京の位など、あちらには紙屑にございます」


 若ぎみは、うなずいた。うなずいて、こう聞いた。


「では、堺の御方は、何を欲しがっておられます」


 宗琢は、少し、考えた。考えて、こう答えた。


「茶にございます。茶の湯にございます」


 宗琢は、続けた。


「あちらは、銭で身分を作れませぬ。誰も官位を貰えませぬゆえ」


「そこで、茶室を建てて、道具を集めて」


「道具の格で、序列を作っておられます」


 若ぎみが、身を乗り出しかけて、やめた。やめたな。宗琢は、それを見た。乗り出さぬように、力を使った顔である。


「宗琢どの」


「へえ」


「道具の格は、どなたがお決めになります」


「それは、決まっております」


 宗琢は、そう答えた。


「決めたのは、公方さまの御同朋衆にございます」


「能阿弥さま、相阿弥さま」


「『君台観左右帳記』に、飾りようから何から、全部書かれておりまする」


 若ぎみが、うなずいた。


「では、いま、それを裁いておられるのは」


 宗琢は、口を開いて、閉じた。


 誰じゃ。


 相阿弥さまが亡くなられて、もう二十年を超える。その後、誰が継いだか。


 知らぬ。三十年、堺と商いをして、知らない。


「……存じませぬ」


「御存じないのですか」


「へえ」


 宗琢は、正直に言った。


「書き物は、ございます。写しが、あちこちに出回っております」


「ですが、」


 宗琢は、初めて、妙なことに気づいた。


「その写しを持っておられる御方が、皆、御自分で裁いておられます」


 若ぎみは、しばらく何も言わなかった。宗琢も、言わなかった。言ってから、こちらが考え込んでしまった。


 基準は、ある。書かれている。書かれているのに、堺で誰もが従う裁定者が、おらぬ。


 だから、写しを持つ者が、めいめい「これが本式じゃ」と言う。今日、ある茶壺が名物だと言われる。明日、別の御方が「あれは違う。帳記にはこうある」と言う。どちらも、同じ書き物を引いておる。


 三十年、宗琢はそれを「そういうものだ」と思っていた。思う必要が、なかったからだ。道具は、売れる値で売れればいい。


 だが、この子は、そこを聞いた。


 二度目である。


 船の値を、誰が決めるか。道具の格を、誰が裁くか。二度とも、宗琢は答えられなかった。


 若ぎみは、立ち上がった。


「宗琢どの。堺に、御縁はございますか」


「南荘に、仕入れ先が」


「会合衆の御方に、納めておられますか」


「……納めておる家に、納めております」


 若ぎみは、それを聞いて、うなずいた。


「では、そちらへ。唐薬の値を、伺いに参りとうございます」


 薬の値ではない。この子が聞きたいのは、薬の値ではない。だが、薬の値を聞きに行く子供は、誰も警戒しない。


「若さま。手前も、参りましょうか」


 若ぎみは、少し考えて、首を振った。


「いえ。宗琢どのがおられますと、商いの話になります」


「私一人なら、ただの童にございます」


 戸が閉まってから、宗琢は算木を並べた。賭けの札を、もう一枚足すべきかどうか。


 並べて、こう思った。


 あの子は、道具の格を売る気じゃ。


 値のつかぬものに、値をつける。紙のときと、同じである。


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