元値
天文十六年(1547年) 正月 京 三条邸 三条公頼
冠を置いてから、二月になる。
公頼は、あの日のことを、思い出さないようにしていた。思い出すと、父の顔が出てくる。
「外したのではない。残したのじゃ」
九年、待った一言である。待った、とは、自分でも思っていなかった。言われて初めて、待っていたと分かった。
あれから、父には会っていない。渡り廊下は、また閉じている。
開けたのは、あの童じゃ。わしではない。
河鰭実初が来た。十二になった。従五位下。官は、まだない。
装束は、去年こしらえたものである。まだ新しい。公頼は、ふと、それが誰の銭で作られたのかを考えた。あの家に、銭はない。
考えて、聞かないことにした。
年賀の口上が済むと、この子はすぐに本題に入った。そこは、変わらぬ。
「三条さま。当家の家業を、再開いたします」
「ほう」
「有職の儀にございます」
公頼は、扇を膝に置いた。
「十年、誰も習いに来なんだ家じゃぞ」
「十年、教える者がおりませなんだゆえにございます」
言い返してきた。公頼は、少し笑った。
「して、誰に教える」
実初は、一拍置いた。置いたのが、分かった。言いにくいことを、言う前の間じゃ。
「上がってきた者にでございます」
公頼の眉が、動いた。
「武家か」
「はい」
「町人もか」
「払う者になら」
公頼は、扇を膝の上で立てた。
これは、いい話ではない。
故実は、知っていること自体が家の格である。分からぬ者へ教えれば、知っている家と知らぬ家の差が、一つ消える。
「実初。それは、家業を売ることじゃ」
「さようにございます」
否定せぬか。
「恥と思わぬか」
「思いませぬ」
即答である。公頼は、少し、腹が立った。
「なにゆえじゃ」
実初は、手をついた。
「当家は、天文五年に、帳に載らぬ銭を出しましてございます」
その話を、ここで出すか。
「あのとき、当家が出せる物は、銭しかございませんでした」
「銭がのうなって、表の座が十年空きました」
実初は、顔を上げた。
「次に禁裏が痩せたとき、当家が出せる物を、増やしておきとうございます」
公頼は、答えられなかった。痩せる。次に、ではない。いま、痩せている。節会は削られたままである。御所の修理は止まっている。主上は五十二におなりになる。
わしは、それに何を出した。娘を配って、家を保った。それだけである。
公頼は、庭を見た。そして、まったく別のことを言った。
「……父がな」
「はい」
「先月、そなたの諱を聞いて、こう申した」
実初が、こちらを見た。
「『あれは、季富の子ではないな』と」
実初は何も言わなかった。公頼は少し可笑しくなった。この子は褒められても喜ばず、言葉の裏を探す顔をしている。
公頼は扇を閉じた。
「実初。三つ、条件を出す」
「教える相手を、選べ。誰にでも教える家は、誰からも尊ばれぬ」
「値を書くな。『礼』として受けよ。書けば、商いになる」
実初の指が、そこで一度、止まった。書かねば、残らない。書けば、商いになる。
こちらの帳にだけ書いて、外へは出さぬ。それでよいか。
父が、九月の一度でやったのが、それである。やって、返らなくなった。
「三条の名は、こちらから出す。頼まれて出すのではない。先に出しておく」
実初が、手をついた。
「ありがたく存じます」
「待て」
公頼は、最後に条件を足した。
「もう一つある。わしが、最初の客になろう」
実初が顔を上げると、公頼は続けた。
「娘が、甲斐におる。あちらから、任官の作法を問うてくる」
「わしは、知らぬ」
公頼は、正直に言った。
知らぬのじゃ。武家の任官である。清華家の当主が、そんなものを覚えているはずがない。
だが、娘の嫁ぎ先が聞いてくれば、答えねばならない。この二年、家司に調べさせて、そのつど返している。
面倒である。
「故実は、そなたの家業じゃ」
「承知いたしました」
実初が帰ったあと、公頼はしばらく座っていた。最初の客に、わしがなった。
なぜなったのか、自分でもうまく説明できない。娘のことが面倒だから、というのは、半分である。
もう半分は。
この子が、何を作るのかを見たい。
公頼は、そう思った。思って、自分で少し驚いた。五十三である。何かを見たいと思ったのは、久しぶりであった。
天文十六年(1547年) 正月 京 室町 小山 小山宗琢
反物の掛けは、まだ残っている。
宗琢は、それを帳に立てたままにしている。催促せぬ。催促すれば、賭けが賭けでなくなる。
賭けたのは、去年の秋である。十一の童に、質も取らずに反物を出した。
そして、当たりかけている。河鰭の若ぎみは、十一月に元服し、正月に叙爵した。従五位下。十二である。官は、まだない。
だが、位が出た。位が出たということは、内蔵頭が動いたということである。
宗琢は、それを聞いたとき、算木を並べた。十年焦げついた掛けが、動くかもしれぬ。
「河鰭さまがお見えで」
宗琢は、算木を置いた。掛けの話か。それなら、待つと言うつもりでいる。まだ早い。この子には、まだ何もない。
入ってきた若ぎみは、去年より背が伸びていた。装束は、あの反物である。
着ておる。宗琢は、それを見て、少しだけ、自分の判断を信じた。
「宗琢どの。掛けの儀にございますが」
「へえ」
「まだ、お返しできませぬ」
宗琢は、うなずいた。
「存じております」
「催促は、いたしませぬ。当たりが出るまで、待ちまする」
若ぎみは、頭を下げた。そして、こう言った。
「今日は、別の御用にございます」
「へえ」
「唐薬の元値を、伺いとうございます」
宗琢は、顔を上げた。
元値。商人に元値を聞く客は、いない。客が聞くのは、売値である。
「若さま。それは、知ってどうなさいます」
「知らねば、値の話ができませぬ」
「どなたと」
「まだ、決めておりませぬ」
宗琢は、しばらく若ぎみを見た。決めておらぬのに、聞きに来た。商人の顔である。仕入れを覚えようとする者の顔だ。
宗琢は算木を一本置いた。教えて損か。元値を知られれば、こちらの乗せ幅が知れる。ふつうなら損である。
だが。
この子の相手は、手前ではない。唐薬の値を決めているのは、京の薬屋ではない。堺である。あちらが「今年はこの値」と言えば、京はそれで買うしかない。三十年、そうである。
堺の値を、揺らしてくれる者がいれば。仕入れが、安くなる。
元値は、そのための武器になる。
宗琢は、話すことにした。半日、話した。麝香がどこから来て、堺で誰の手を経て、京に着くまでにいくら乗るか。竜脳がなぜ高いか。蜜が、なぜ年によって二倍になるか。
この子は、途中で一度も口を挟まなかった。挟まずに、最後に三つだけ聞いた。
「船は、年に何度着きまする」
「着かなかった年は、ございましたか」
「そのとき、値を決めたのは、どなたでございます」
三つとも、宗琢が言い落としたところだった。三つ目で、宗琢は答えに詰まった。
日が傾いてから、宗琢はこう言った。
「若さま。もう一つ、申し上げます」
「うかがいます」
「堺の衆は、公家をありがたがりませぬ」
若ぎみは、驚かなかった。
「存じております」
「銭も、船も、鉄砲もございます」
「戦を止めることも、始めることも、あちらの匙加減にございます」
宗琢は言った。
「京の位など、あちらには紙屑にございます」
若ぎみは、うなずいた。うなずいて、こう聞いた。
「では、堺の御方は、何を欲しがっておられます」
宗琢は、少し、考えた。考えて、こう答えた。
「茶にございます。茶の湯にございます」
宗琢は、続けた。
「あちらは、銭で身分を作れませぬ。誰も官位を貰えませぬゆえ」
「そこで、茶室を建てて、道具を集めて」
「道具の格で、序列を作っておられます」
若ぎみが、身を乗り出しかけて、やめた。やめたな。宗琢は、それを見た。乗り出さぬように、力を使った顔である。
「宗琢どの」
「へえ」
「道具の格は、どなたがお決めになります」
「それは、決まっております」
宗琢は、そう答えた。
「決めたのは、公方さまの御同朋衆にございます」
「能阿弥さま、相阿弥さま」
「『君台観左右帳記』に、飾りようから何から、全部書かれておりまする」
若ぎみが、うなずいた。
「では、いま、それを裁いておられるのは」
宗琢は、口を開いて、閉じた。
誰じゃ。
相阿弥さまが亡くなられて、もう二十年を超える。その後、誰が継いだか。
知らぬ。三十年、堺と商いをして、知らない。
「……存じませぬ」
「御存じないのですか」
「へえ」
宗琢は、正直に言った。
「書き物は、ございます。写しが、あちこちに出回っております」
「ですが、」
宗琢は、初めて、妙なことに気づいた。
「その写しを持っておられる御方が、皆、御自分で裁いておられます」
若ぎみは、しばらく何も言わなかった。宗琢も、言わなかった。言ってから、こちらが考え込んでしまった。
基準は、ある。書かれている。書かれているのに、堺で誰もが従う裁定者が、おらぬ。
だから、写しを持つ者が、めいめい「これが本式じゃ」と言う。今日、ある茶壺が名物だと言われる。明日、別の御方が「あれは違う。帳記にはこうある」と言う。どちらも、同じ書き物を引いておる。
三十年、宗琢はそれを「そういうものだ」と思っていた。思う必要が、なかったからだ。道具は、売れる値で売れればいい。
だが、この子は、そこを聞いた。
二度目である。
船の値を、誰が決めるか。道具の格を、誰が裁くか。二度とも、宗琢は答えられなかった。
若ぎみは、立ち上がった。
「宗琢どの。堺に、御縁はございますか」
「南荘に、仕入れ先が」
「会合衆の御方に、納めておられますか」
「……納めておる家に、納めております」
若ぎみは、それを聞いて、うなずいた。
「では、そちらへ。唐薬の値を、伺いに参りとうございます」
薬の値ではない。この子が聞きたいのは、薬の値ではない。だが、薬の値を聞きに行く子供は、誰も警戒しない。
「若さま。手前も、参りましょうか」
若ぎみは、少し考えて、首を振った。
「いえ。宗琢どのがおられますと、商いの話になります」
「私一人なら、ただの童にございます」
戸が閉まってから、宗琢は算木を並べた。賭けの札を、もう一枚足すべきかどうか。
並べて、こう思った。
あの子は、道具の格を売る気じゃ。
値のつかぬものに、値をつける。紙のときと、同じである。




