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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第一部『空き家』

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天文五 内蔵

天文十五年(1546年) 正月十二日  京  河鰭邸  河鰭千菊丸


 書庫は、家でいちばん寒い。北向きで、日が入らない。板の間に、桐の箱と文箱が積んである。


 千菊丸は、灯を一つ持って入った。


 十日で山科へ行く。何を持っていくかを、決めなければならない。だが、その前に、この家に何が残っているかを確かめたかった。


 三年かけて日記は読んだが、その外はまだである。


 文箱は六つ。


 一つ目は、家領の証文。応仁より前のものも混じるが、いま効いているものがない。


 二つ目は、叙位任官の口宣案。祖父・実治の代まで揃い、父のぶんもある。


 三つ目は、装束の図。家業である。祖父が寸法まで書き込んでいたが、新しい墨は十年なかった。


 四つ目は、和歌と、書状の反古。


 五つ目。


 千菊丸は、蓋を取って、手を止めた。


 空である。


 持ち上げた。軽い。当たり前だが、軽い。千菊丸は、その軽さを、しばらく手の中で確かめていた。


 埃が、均していない。


 十年、誰も入らない部屋である。埃は、どの箱にも同じように積もっている。この箱だけ、積もり方が違う。いったん動かして、置き直した積もり方だ。


 蓋を裏返した。小さな墨書がある。父の手だった。


  天文五 内蔵


 千菊丸は、灯を近づけた。


 天文五年。内蔵寮。


 中身があった。そして、なくなった。


 六つ目の箱には、手をつけずに立ち上がった。呼んだ。


 家司の清六は、六十を過ぎている。この家に三十年いる。千菊丸が生まれる前から、いる。


「若さま。書庫は冷えまする。火桶を」


「いらぬ」


 千菊丸は、五つ目の箱の蓋の裏を見せた。


「この箱の中身は」


 清六は、覗き込んだ。覗き込んで、しばらく黙った。


「……存じませぬ」


 目が、動かなかった。


 知らない者は、思い出そうとする。上を見るなり、眉を寄せるなり、何かする。この男は、しなかった。


 知っている。


 千菊丸は、次に何を言うべきかを、頭の中で探した。


 父の記に、こういう場合の話があった。享禄三年の条。ある家の家司が、家財を勝手に処分した。主が問い詰めたら、白状した。


 問い詰めれば、白状する。千菊丸は、そう覚えていた。だから、そのようにした。


「清六。そなた、知っておるな。答えよ」


 清六は、答えなかった。膝をついたまま、動かない。


 千菊丸は、もう一度言った。


「答えよ」


 清六は、答えなかった。


 外れた。


 千菊丸は、気づいた。父の記の、あの家司は、主に憎まれていた。だから追い詰められて吐いた。


 清六は、違う。この男は、三十年いる。牛を売ったのもこの男だ。女房三人の飯を回しているのもこの男だ。追い詰めれば、この男は死ぬまで黙る。


 父の記は、そこまで書いていない。書いていないことは、こちらで数えるしかない。


 千菊丸は、座り直した。そして、言い方を変えた。


「清六」


「……へえ」


「父上が亡くなられたのは、私が生まれた年です」


「さようにございます」


「その年、この家から出て行った物を、私は一つも知りませぬ」


「……若さま」


「責めておりませぬ」


 千菊丸は言った。


「数えているだけです」


 長い間があった。


 清六の肩が、下がった。それから、膝を下げた。


「……御葬の費えに、」


「質か」


「入れましてございます」


「どこに」


「……室町の、小山」


 千菊丸は、その名を頭に置いた。


 室町の小山。唐薬を扱う。京の薬屋は、質も金貸しもやる。


「流れておりましょうか」


「……紙にございます。銭にはならぬ紙で」


 清六は、うつむいたまま言った。


「流すにも流せず、蔵に置いたままかと」


 千菊丸は、うなずいた。


 誰にとっても無価値な紙だから、残っている。銭になる物なら、十年前に流れている。


 銭にならないから、まだある。


「清六」


「へえ」


「装束は」


 清六が、顔を上げた。そして、初めて、目を伏せた。


「……焼きましてございます」


「焼いた」


「御棺に、入れましてございます」


 千菊丸は、それを聞いて、しばらく黙った。


 父の装束である。正四位下、左近衛中将の。あれがあれば、直して自分の元服に使えた。売れば、多少の銭にもなった。


 焼いた。紙は、質に入れた。装束は、棺に入れた。


 千菊丸は勘定を置き直した。


 この男は、正しい順で捨てている。銭になる物を質に入れて葬式を出し、銭にならない紙もついでに入れた。そして、父に持たせるべき物だけは持たせた。


 十年前、この家で、それを決めた者がいた。


 祖父は奥にいた。父の葬の日にも、戸は開かなかった。姉は御所にいる。自分は乳飲み子だった。


 命じる者が黙ったまま、決めたのは、この男である。


「清六」


「……へえ」


「十年前、そなたが質に入れた紙が、」


 千菊丸は、言った。


「今年、この家を立てるかもしれませぬ」


 清六は、答えなかった。顔も上げなかった。肩が、震えていた。


 千菊丸は、それを見ないことにして、六つ目の箱に手をかけた。


 開かなかった。錠ではない。板が、湿気で膨れて噛んでいる。


 後だ。


 灯を持って、書庫を出た。外は、まだ明るかった。


天文十五年(1546年) 正月十三日  京  室町 小山  小山宗琢


 朝から、算木が合わない。合わないのではない。合っているから、腹が立つ。


 小山宗琢は、五十二になる。室町で薬種を商って三十年、父の代から数えれば六十年になる。麝香、竜脳、蜜、唐渡りの薬研。蔵は二棟あり、奥には質物を置く一棟もある。


 悪くない店である。掛けさえなければ。


 どちらの帳にも振り分けられぬまま、仮に立ててある一枚がある。十年で、そこだけが厚くなった。


 山科。内蔵頭・山科言継。


 あの御方は、月に二度は来る。麝香を買い、竜脳を買い、蜜を買う。医の真似事をしておられる。近所の病人に薬を調じてやっておられるとも聞く。


 銭は、置いていかれぬ。掛けである。十年になる。


 催促はしていない。できるはずがない。相手は権中納言で、内蔵寮の頭である。この店は御所にも納めている。


 だが、御所に納めた分の銭も、入っていない。どちらが御用で、どちらが私用か、区別がついておらぬ。区別がついていないから、どちらの帳にも載っていない。載っていないから、催促する筋がない。


 宗琢は、十年、その一枚を繰り返し見ている。


「主《あるじ》さま。お客さまで」


 奉公人が言った。


「どちらの」


「……お子でございます」


「子」


「公家さまの、お子かと」


 十一か十二か。童形である。供もいない。


 ただ、袴の折り目だけが、きちんとしていた。これは、女房が畳んでおる。貧しい家でも、女手がある家は、そこが違う。


 宗琢は、算木を置いて、愛想を出した。


「これは、若君さま。何を御用で」


「河鰭千菊丸にございます」


 子供は、そう名乗った。


「故左近衛中将季富が、子にございます」


 宗琢の手が、止まった。


 河鰭。十年前に、当主が死んだ家。それきり、誰も継いでいない家。


 この店には、その家の質物がある。紙が。


「……故左中将さまの」


「はい」


「これは、これは」


 宗琢は、座を勧めた。勧めながら、頭の中で算木を並べた。


 請け出しに来たか。だとすれば、銭を持っている。十年ぶりに。


 いや。供もない。牛車もない。袴は畳んであるが、生地は古い。


 持っていない。


「十年前、当家より預けた文箱がございましょう」


 子供が、言った。


 宗琢は、笑った。町衆の笑い方で。


「さて」


「紙にございます。銭にならぬ紙」


「若さま。うちは薬屋にございます」


「存じております」


 子供は、引かなかった。そして、まったく別のことを言った。


「山科さまは、いつも何をお買いになります」


 宗琢の手が、また止まった。


 なぜ、そこへ行く。


「……麝香を。竜脳も」


「銭で。掛けでございましょう」


 宗琢は、答えなかった。


 答えないことが、答えになるのは分かっていた。分かっていたが、答えられなかった。


 なぜ、知っておる。この掛けのことは、店の者と、山科の家司しか知らない。


 子供が、続けた。


「御用の分と、御私用の分が、混ざっておりませぬか」


 宗琢は、初めて、この子供を客として見た。


 いや、客ではない。同業の顔である。勘定を、見に来た者の顔だ。


「……若さま」


「はい」


「なぜ、そのようなことを」


「当家も、混ざっておりましたゆえ」


 子供は、そう言った。


「御葬の費えと、家の費えが」


 宗琢は、しばらく黙った。それから、正直に言うことにした。


 この子には、嘘が通らぬ。三十年、商いをしていると、そういう相手が年に一度か二度、来る。


「ございます」


「十年でございますか」


「……さようで」


「宗琢どの」


 子供は、名を呼んだ。


 名乗った覚えは、ない。いや、店の名が小山である。誰でも分かる。だが、この子は「小山どの」ではなく「宗琢どの」と言った。


 調べてきておる。


「うちの紙、まだございますな」


「……なぜ、そう」


「流していれば、先ほど『ない』とお答えでした」


 宗琢は、笑うのをやめた。


 そのとおりである。「さて」と言った。「ない」とは言わなかった。


 言わなかったことを、数えられた。


「若さま。請け出す銭は」


「ございませぬ」


「では、何をしにお越しで」


 子供は、両手を膝に置いた。


「流さぬよう、お願いに」


「それだけか」


「それだけにございます」


 宗琢は、算木を見た。


 値を、言わぬ。


 この子は、紙に値があるとは一言も言わなかった。「銭にならぬ紙」と、自分から言った。


 値があると言えば、こちらが値のつく相手を探す。探せば、行き着く先は一人しかない。山科である。


 宗琢は、奉公人を呼んで、小声で言った。蔵のいちばん奥。桐の箱。河鰭。


 それから、子供に向き直った。


「……若さま。一つ、申し上げておきます」


「うかがいます」


「三月ほど前に、山科さまが蔵にお入りになりました」


 子供の顔が、変わらなかった。


 変わらなかったのが、恐ろしい。


「紙を、検めておいででした」


「何を」


「存じませぬ」


 これは、本当だった。


 あの御方は、蔵で四半刻、何かを見ておられた。何を見たかは、宗琢には分からない。


 あのとき、初めて思った。値のつかぬ紙に、値がついたのかもしれぬ、と。


 子供は、立ち上がった。戸口で、一度振り返った。


「宗琢どの」


「へえ」


「掛けは、いかほど溜まっておいでです」


 宗琢は、答えなかった。


「また、参ります」


 子供は、それだけ言って、出ていった。


 宗琢は、しばらく算木の前に座っていた。


 あの子は、紙を請け出さなかった。銭も置いていかなかった。何も、取らずに帰った。


 だが、こちらの帳の、いちばん厚い一枚を、正確に指した。


 そして「掛けはいかほどか」と聞いて、答えを待たずに出ていった。


 次に来るときには、答えを持ってこいということか。


 宗琢は、算木を並べた。十年ぶんの掛け。


 並べてから、手が止まった。


 並べたのは、十年ぶりだった。


天文十五年(1546年) 正月十三日  京  室町から一条まで  河鰭千菊丸


 室町から北へ歩いた。風が冷たい。手が悴む。


 千菊丸は、歩きながら数えていた。


 三月前。三月前といえば、去年の十月である。山科言継が、小山の蔵に入った。紙を検めた。そして、正月十一日に、河鰭の局へ来た。


 「故左中将殿の御記を拝借したい」と言った。


 「享禄より、天文の初めまで」と言った。


 千菊丸は、これまでこう数えていた。言継は、日記を見たがっている。日記を読めば、天文五年の何かに行き着く。順序が、そうだと思っていた。


 日記が先。紙が後。


 逆かもしれない。


 千菊丸は、立ち止まった。橋の上だった。人が避けて通っていく。


 紙が先だ。


 言継は、三月前に紙を見た。見て、何かを確かめたくなった。だから、日記を借りに来た。日記は、答え合わせである。


 だとすれば。あの日、言継が最後に聞いたことの意味が、変わる。


  滋野井の次郎を、入れるか。入れぬか。


 千菊丸は、あれを「家督が埋まるかどうかを気にしている」と読んだ。


 違う。紙に書かれているものを、誰が相続するのかを聞いていた。


 千菊丸は、詰まった。


 知らない。箱は空だった。蓋の裏に「天文五 内蔵」とあっただけだ。


 内蔵寮に関わる、天文五年の何か。


 天文五年二月に、主上の御即位があった。銭が足りなかった、と言われている。


 それ以上は、分からない。日記には、書いていない。


 三年かけて全部読んだ。天文五年の二月は、他の月と同じように、淡々と書いてある。誰が座った。誰が来た。何が幾ら。異常なところは、なかった。


 いや。


 千菊丸は、一度、記憶を戻した。なかった、と思っている。


 三年かけて読んだのは、八つから十一の年である。あのころ探していたのは、父の顔だった。


 顔を探して読んだ目と、紙を探して読む目は、同じではない。


 もう一度、読み直さねばならぬ。


 言継は、こう言った。


  十日のうちに、山科へ参られよ。御記を持って。


 持って行けば、渡すことになる。渡せば、向こうが読む。こちらが読む前に、向こうが読む。


 それは、まずい。


 だが、行かないという手もない。姉が「あなた一人で行きなさい」と言った。行かなければ、そこで話が切れる。


 千菊丸は指を折った。


 原本を渡す前に読み直し、内容を掴んで、渡すものと残すものを分ける。


 最後のところで指が止まった。


 冊子だから、切り取っても抜いても跡が残る。ならば写せばよい。


 だが十一箱すべては無理で、言継が名指した享禄から天文初めまでの四箱さえ、残りの日数では写しきれない。


 選ぶには、先に読まねばならなかった。読むには、日数が要る。


 残り、九日。


 千菊丸は、歩き出した。手は、もう悴んでいなかった。数えているあいだは、寒さを忘れる。これも、癖である。


 書庫に入って、灯を二つに増やした。油が減る。姉に言えば、また減ったと言われる。言われても、後だ。


 享禄の箱を開けた。いちばん古いほうから、読む。


 今度は、父の顔を探さない。銭と、座次と、日付を探す。


 最初の一冊を開いたとき、千菊丸は自分でも意外なことに気づいた。


 速い。


 三年前に読んだときより、遥かに速く読める。同じ文字である。同じ手である。だが、探しているものが違うと、こんなに違う。


 あのころは、父を探していた。いなかった。いま探しているのは、勘定である。それは、いくらでもある。


 千菊丸は、少しだけ、笑いそうになった。笑わなかった。笑うところではない。


 背後で、灯が一つ消えた。清六が、芯を摘まんでいた。


「なぜ消す」


「月末まで、二灯を続ける油はございませぬ」


「買えばよい」


「何で」


 千菊丸は、答えられなかった。


 清六は、消した灯を持ち上げた。


「一つは台所。一つは姫さまの局。もう一つは、奥の大殿の御灯にございます」


 祖父・実治のいる棟である。戸は十年、開かない。それでも日が暮れれば灯は入る。


「奥の灯を、こちらへ回せとは申しませぬ」


 千菊丸は言った。


「申されても、回しませぬ」


 清六は、初めて先に拒んだ。


「では、一つで読む」


「読むだけなら」


「写します」


 清六の手が止まった。


「四箱を」


「すべてではない。選びます」


「若さま」


「何じゃ」


「四箱を写すほどの紙も、ございませぬ」


 九日のうちに、読む。選ぶ。写す。


 使える灯は一灯だけで、新しい紙はない。


 千菊丸は、開いた一冊を見た。


 初めて、日数ではなく、足りない物のほうから期限を言われた。


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