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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第一部『空き家』

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年内に

天文十五年(1546年) 正月十一日  京  滋野井邸  本間主計


 茶は、ぬるかった。本間主計は、それを咎めなかった。咎めるほどの家では、ない。


 二十九の内侍が一人、家司が一人、女房が三人。牛車はない。厩の跡には、雪が積もったままである。


 奥には、前の当主格だった老公がいる。正二位、権中納言。だが昨年の秋に使いを出したときも、今日も、戸は開かなかった。


 生きた公卿を一人抱えたまま、返事をする者がいない。


 主計は、諸大夫として二十年、諸家を回っている。家の懐具合は、玄関で分かる。河鰭は、底が抜けている。抜けているのを、繕う銭すらない。


 だから、これは奪う話ではない。主計は、そう思っている。


 滋野井の次郎君を入れれば、河鰭の名は残る。家領の名目も残る。内侍の局も残る。入れなければ、あと五年で消える。


 救う話である。少なくとも、そう説明できる話ではある。


 その屋敷で、十一の童に待たされた。


「当家、十年、表の当主が立っておりませぬ」


「返事をする者を、決めてから返事をいたします」


 詫びなかった。主計は、それを思い出しながら歩いていた。


 詫びられれば、こちらは許すことができた。許せば、こちらが上になる。詫びられなかったので、上にも下にもならなかった。


 十一である。誰が教えたのか。


 もう一つ、腹に残っているものがある。


 山科言継。内蔵頭が、あの局にいた。


 主計は、部屋に入った瞬間、座ろうとした場所から一膝下がった。下がるより先に、身体が下がった。


 なぜ、あの方があそこに。


 分からない。分からないことが、一つ混じった。それが、童のことよりも気持ちが悪かった。


 主が、書見をしていた。


 滋野井の当主。四十七になる。羽林家であるが、河鰭よりは遥かに厚い。家領も入っている。


 そして、子が多い。多すぎる。それが、この家の悩みである。次郎をこのまま置いておく席は、ない。


「首尾は」


「はっ」


 主計は、手をついた。


「返事は、賜っておりませぬ」


「なぜじゃ」


「当主の御元服の後に、あらためて、と」


 主が、書を置いた。


「当主?」


「河鰭の、千菊丸どのにございます」


「あれは、十一であろう」


「さようにございます」


 主が、鼻から息を抜いた。


「元服など、いつのことじゃ。加冠は誰が置く。装束は。銭は」


 全部、その通りである。主計も、そう思っている。


「引き延ばしておるだけじゃ。あの内侍も、なかなか」


「いえ」


 主計は、言った。


「内侍さまが仰せられる前に、童が、断り申しました」


 主が、顔を上げた。


「童が」


「はい」


「何と」


「『入れませぬ』と」


 主が、しばらく黙った。それから、笑った。


「十一が、何を申すか」


 主計は、笑わなかった。笑えなかったので、続けた。


「その場に、内蔵頭がおられました」


 主の顔から、笑いが消えた。


「……山科か」


「はい」


「なにゆえ、あの御方が」


「存じませぬ」


 主が、扇を握った。握り方で、主計には分かった。まずい、と思っておられる。


 滋野井は、この話を三条家に通していない。


 三条は閑院流の嫡流である。そして滋野井は、河鰭が直接分かれた本家にあたる。


 本家の子を分家の家督に入れる。筋だけを言えば、他家から奪う話ではない。だからこそ、家領まで本家へ呑み込むつもりではないかと見られる。


 本来なら、先に三条へ筋を通すべき話である。


 諮っていない。先に諮れば、否と言われて終わる。だから、決めてから持って行く。「もう決まりましてございます、御報せまで」と。


 そこへ、内蔵頭が居合わせた。


「主計」


「はっ」


「あの御方は、口が軽いか」


「……いえ」


 主計は、正直に答えた。


「あの御方は、帳に書かれます」


 主が、扇を膝に落とした。


 山科言継は、諸家の叙位任官を全部書き留めている。京で、あの帳に載らずに済むものは、ない。


 口が軽いより、悪い。忘れないのだ。


 夕刻、主計は次郎君に会った。庭で、弓を引いていた。十七である。背は伸びきっている。顔は、悪くない。


「本間」


「はっ」


「どうであった」


 主計は、答えに詰まった。


 この若君は、十四で元服して、それから三年、何もしていない。長兄は家を継ぐ。次兄は寺に入った。残ったのが、この人である。寺には、行きたくないと言った。武家に行くには、遅い。


 行き場が、ない。


「まだ、決まっておりませぬ」


「……そうか」


 次郎君は、それだけ言って、また弓を引いた。外した。


「本間」


「はっ」


「河鰭というのは、どういう家じゃ」


 主計は、少し迷った。迷って、こう答えた。


「貧しゅうございます」


「そうか」


「牛車も、ございませぬ」


「そうか」


 次郎君は、笑った。


「それでも、家じゃな」


 主計は、頭を下げた。下げながら、思った。この人は、行きたがっている。貧しくても、当主になれる家がある。三男に生まれた者にとって、それは十分な話である。


 主計は、昼に河鰭の童が言ったことを思い出した。


 入れませぬ。


 十一の子は、入れたくない。十七の若者は、入りたい。どちらにも、家がない。


 主計には、どちらが正しいとも思えなかった。


 主が、主計を呼んだ。


「主計」


「はっ」


「年内じゃ」


「……は」


「今年、若公方の御元服があると聞く。河鰭の名が、そこで空いておれば、」


 主が言った。


「誰の目にも、空いて見える」


「はっ」


「その前に、決める」


 主計は、手をついた。そして、一つだけ申し上げた。


「内蔵頭の御耳に、入っておりまする」


「構わぬ」


 主が、書を取り上げた。


「三条には、決まってから申す」


 変えぬか。


 主計は、それ以上は言わなかった。言えば、出過ぎになる。


 主計は、月を見ながら歩いた。河鰭の童の顔を、思い出していた。


 あの子は、こちらを見ていなかった。顔を見ていたのは、最初の一瞬だけである。


 あとは、どこを見ていた。思い出せなかった。


 ただ一つ覚えている。


 部屋を出るとき、あの子は火桶の炭がどれだけ残っているか、確かめる目をしていた。


天文十五年(1546年) 正月十一日  京  内裏  河鰭千菊丸


 廂に戻ると、茶碗が空いていた。使者は、飲み終えて、待っていた。


 待った、ということを、こちらに見せている。千菊丸は、そう読んだ。


 だから、詫びない。詫びれば、待たせたことが「悪いこと」に確定してしまう。


 座って、両手をついた。


「お待たせいたしました」


 事実だけ。そして、顔を上げた。


「河鰭千菊丸にございます」


 使者の目が、わずかに動いた。


「故左近衛中将季富が、子にございます」


 名乗った。千菊丸が、この人の前で自分の名を出したのは、これが初めてである。


 諱はまだない。位も官もない。十一歳が使える肩書きは、死んだ父の官しかなかった。


 それでも、名乗る前と後では、話す相手が変わる。


 と、千菊丸は考えている。合っているかどうかは、分からない。


「本間主計にござる」


 使者が、初めて名乗り返した。


 千菊丸は、その名を、頭の中に置いた。置いておく。いつ要るか分からない。だが、名を覚えておいて損をしたことは一度もない。


「次郎君は、御壮健にあらせられますか」


「……息災にござる」


「十七と、伺いました」


「さよう」


「では、御元服はとうにお済みでございましょう」


「三年前に」


 千菊丸は、頭を下げた。


「羨ましゅうございます」


 それだけ言った。


 主計は、答えなかった。答えられない。


 「羨ましい」に返せる言葉が、この場にはない。


 「そのうち、そなたも」と言えば、それは「河鰭の当主として」という意味になる。次郎君を入れる話と、噛み合わなくなる。


 「気の毒に」と言えば、憐れんだことになる。


 だから、黙るしかない。


 千菊丸は、それを狙って言った。狙って言ってから、少し後ろめたくなった。


 十七で行き場のない人を、いま自分は駒として扱った。


 衣擦れの音で分かった。姉は座って、まっすぐ言った。


「本間さま。先ほどの儀にございますが」


「はっ」


「当主の元服の後に、あらためて」


 主計が、頭を下げた。下げてから、顔を上げた。


 そして、姉ではなく、千菊丸を見た。


「……童どの」


 この人は、今日の話し相手を、決めた。


「その『元服』は、いつにござる」


 来た。


 千菊丸の背中が、冷えた。期限を切らせに来ている。切れば守らねばならず、守れなければその日に家が落ちる。


 千菊丸は四つの答えを並べ、この問いを姉ではなく自分にした。


 「いつ」と聞いた。「するのか」ではない。元服そのものは、もう呑まれている。


 滋野井にも期限がある。次郎君は十七。二十を過ぎた部屋住みは、他家へ入れにくくなる。向こうも、急いでいる。


 そして今年中と噂される、若公方の元服。


 双方にとって、そこが終点だ。


 切られる前に、切る。


「年内に」


 姉の袖が、動いた。


 「言うな」と思ったのだろう。遅い。


 主計は、しばらく千菊丸を見ていた。そして、言った。


「年内、と承った」


「滋野井には、そのように」


 期限が、確定した。千菊丸は、膝の上で手を握った。


 自分で切った。切られたのではない。切られる前に切った。


 どちらでも、守れなければ同じである。だが、切られた期限と、自分で切った期限は、言い訳のできる量が違う。


 主計が立ち上がった。そして、沓のほうへ歩きかけて、止まった。


「童どの」


「はい」


「加冠は、どなたに」


「まだ、決めておりませぬ」


 主計は、少し間を置いて、言った。


「当家が、お受けしてもよろしいのですぞ」


 やはり、来た。千菊丸は、それを予期していた。


 次郎君を入れずとも、加冠役を取れば、河鰭は滋野井の庇護を受けた家と見られる。


 冠を置いた家と、置かれた家。同じ場所へ、別の道で着く手だ。


 断る。と、思った。思って、止めた。


 千菊丸は、両手をついた。


「ありがたきお言葉」


「年内までに、御返事を」


 断らなかった。


 主計が、うなずいて出ていった。


 姉が、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。


「……年内、と言ってしまわれた」


「言わねば、向こうが切りました」


「加冠も、断りませんでしたね」


「断る手を、まだ持っておりませぬ」


 千菊丸は、そう答えた。


 嘘ではない。加冠役の当てが、いまこの家には一つもない。姉が「心当たりがある」と言ったが、名は聞いていない。当てになるかどうかも分からない。


 全部が潰れたとき、最後に残るのが、滋野井である。


 滋野井の加冠を受ければ、家は残る。実質は下に入る。入るが、消えはしない。


 父が十四年やっていたことと、同じである。


 千菊丸は、少し、嫌な気持ちになった。


 姉が、それを見ていたらしい。こう言った。


「千菊丸。父上と、同じだと思いましたか」


 読まれた。千菊丸は、答えなかった。答えられなかった。


 姉は、火桶に炭を足しながら、こう言った。


「父上は、十四年、延ばされました」


「はい」


「あなたは、十一か月で終わらせると言いました。同じではありませぬ」


 千菊丸は、頭を下げた。下げながら、指がまた震えかけているのに気づいた。押さえた。


 十一か月。


 加冠役も、装束も、銭も、位もない。書庫に十一箱があり、質屋には紙が残っているかもしれない。


 それだけだった。


 その紙のことを、千菊丸はまだ知らない。


 夕刻。千菊丸は、御所を出て、家へ帰った。庭の南天を、もう一度数えた。


 三十四。朝より、二つ減っていた。


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