十四年
天文十五年(1546年) 正月十一日 京 内裏 河鰭千菊丸
言継が出ていった襖が、まだ揺れている。
千菊丸は、両手を膝の上に置いていた。置いたまま、動かさない。
震えている。膝に押しつけて、止めた。
滋野井の使者が、正面に座っている。諸大夫である。手をついたまま、まだ顔を上げない。
顔を上げないのは、上げてどこを見ればいいのか、決めかねているからだ。
この座に、十一歳の童と、二十九の内侍がいる。当主が、いない。誰に向かって話せばいいのか、この人は、まだ知らない。
千菊丸は、数え始めた。
癖である。怖いときに、数える。南天の実でも、廊下の桟でも、庭の踏み石でも、何でもいい。数えているあいだは、手が止まる。
四つの年に、母が死んだ日から、そうしている。
だから、これは技ではない。技だと言われたことは、一度もない。ただ、誰も止めなかっただけだ。
一つ。滋野井が今年動いたのは、伯母が死んだからだ。止める者が、いなくなった。
二つ。姉は「来ています」と言った。「来ました」ではない。まだ、返事をしていない。
三つ。次郎君は十七。元服は三年前。入れば、その日に家督である。そして、自分は出される。
四つ。今年、若公方の元服があると聞く。場所も加冠役も、まだ定まってはいない。諸家が参仕する。名が並ぶ。表の当主がいない家は、そこで「いない」と、皆に見られる。
だから滋野井は、それより前に決めたい。期限は、今年の十二月だ。
四つ、数え終わった。手の震えは、止まっていた。
そして、そこで千菊丸は、五つ目に気づいた。
五つ。外れている。
今朝、局の前で香の匂いがした。千菊丸は、こう数えた。姉は香を焚かない。焚くのは客が来るときだ。今日、滋野井の使者が来る。だから焚いた。
そこまでは、合っていた。
外したのは、その次だ。焚いた香を最初に嗅ぐ客も、滋野井だと決めた。
先に来たのは、山科言継である。
千菊丸は、冷たいものを感じた。震えが、戻ってきそうになった。
なぜ外したのか。
答えは、すぐに出た。見ていないからだ。
千菊丸は、山科言継という人がこの局に来るところを、一度も見たことがない。見たことのないものは、勘定に載らない。載らないものは、外れる。
それだけの話だ。
それだけの話だが、恐ろしい。
今日、四つ当てて、一つ外した。外した一つが、いちばん大きかった。
言継が来なければ、滋野井の使者は、この場を「内蔵頭の面前」ではないところで済ませていた。
自分が勝ったのではない。あの人が、たまたま先に来ただけだ。
千菊丸は、膝の上の手を見た。
もう震えていない。だが、これは落ち着いたのではない。数え終わったから止まっただけだ。
数え終われば、止まる。止まったからといって、何かが解決したわけではない。
父も、そうだったのだろうか。
書庫の、十一箱。千菊丸が初めて開けたのは、八つの年である。父の顔を知りたかった。
母は父の話をしなかった。姉は、聞くと黙った。家司の清六に聞いたら、「立派な御方でございました」と言われた。それだけだった。
立派だったことを知りたいのではなかった。
何を好み、誰を嫌い、何を見て笑った人か。腹が立てば声を荒らげたのか、黙ったのか。
だから、書いたものを読めば分かると思った。
開けて、読んで、そして分からなかった。
父は、自分のことを何も書いていない。誰が来たか。誰が座ったか。何が幾らだったか。どの家が何を出して、どの家が出さなかったか。全部、勘定である。
生涯、勘定だけを書いて、死んだ人だ。
千菊丸は、それを三年かけて全部読んだ。顔は、最後まで出てこなかった。代わりに、数え方を覚えた。
そして、一つだけ分かったことがある。
あの十一箱を、誰も読んでいない。父が死んで十年。姉も、清六も、開けていない。埃の積もり方で分かる。
姉が、自分が書庫へ入っていることを知っているのかは、分からない。聞かれたことが、一度もない。
父は、書いた。読んだのは、父の顔も覚えていない子ひとりだった。
千菊丸は、初めて父に会った気がした。
そして同時に、こうも思った。
自分が読まなかったら、あれは何だったのだろう。
「若さま」
使者が、顔を上げた。声が、思ったより低い。
千菊丸は、我に返った。
考え込んでいた。十一歳が、客の前で黙り込んでいた。まずい。
いま、この人が姉に話を振れば、姉は答える。
姉は、受けるつもりでいる。香を焚いた。支度をしている。そして姉が「承知いたしました」と言えば、それで終わりだ。十一歳が、内蔵頭の前で「入れませぬ」と言ったことなど、家司の噂話にもならない。
止めなければならない。
だが、どう止める。
「姉上、答えないでください」とは言えない。客の前で、姉に恥をかかせることになる。姉が恥をかけば、姉は意地でも受ける。
人は、そういうふうにできている。父の記に、そう書いてあった。
天文二年の条。名は伏せてあったが、ある公卿が座で恥をかかされて、翌月、自分の損になる側に付いた、という話。
父は、その理由を書いていない。書いていないが、日付だけ律儀に並べてあった。恥をかかせた者が、後で必ず損をしている。
千菊丸は、それを読んで、覚えた。
だから、姉ではなく、こちらが話を止める。そして、姉を「答えられない場所」へ、いったん移す。
方法は、一つしかない。
千菊丸は、両手をついた。顔は、上げた。
「姉上」
姉が、こちらを見た。
「しばし、奥で」
空気が、落ちた。使者の目が、動いた。姉が、息を吸った音がした。
当然である。十一歳が、客を待たせた。それも、姉が「弟が失礼を申しました」と詫びた、その直後にである。詫びの上から、詫びを踏んだ形になる。
家司の清六が、青くなって膝を進めかけた。
千菊丸は、それより先に、使者へ向き直った。膝の上で、また指が震えかけている。押さえた。
「当家、十年、表の当主が立っておりませぬ」
使者は、答えない。
「返事をする者を、決めてから返事をいたします」
詫びない。詫びれば、無礼を認めたことになる。認めれば、無礼を許すかどうかを、相手に握られる。
理由だけを置く。置いて、頭を下げる。
長い、間があった。
使者が、扇を膝に置いた。それから、こう言った。
「……茶を、頂戴しよう」
待つ、と言った。
千菊丸は、頭を下げたまま、息を吐いた。吐いてから、自分が息を止めていたことに気づいた。
立ち上がる。膝が、少し笑った。
廊下へ出て、奥へ向かう。後ろから、姉の衣擦れがついてくる。怒っている。足音で分かる。
千菊丸は、歩きながら、姉に言うべきことを三つ並べ始めた。
足りなければ四つ目がある。だが、それはまだ使いたくない。
四つ目は、父の記に書いてある。姉が知っているかどうかを、千菊丸は知らない。
奥の間は、冷えていた。火桶がない。姉が客のいる部屋へ持たせたからだ。
千菊丸は座って、手を袖に入れた。姉は、立ったままだった。
「なぜ、あのようなことを」
声を抑えている。抑えているぶん、鋭い。
「姉上は、受けるおつもりでしたか」
「受けねば、家が消えます」
「受けても、消えます」
千菊丸は、指を折った。一本目。
「次郎君が入られれば、河鰭は滋野井の預かりになります」
姉が、答えない。
「姉上のお局も、いずれ滋野井の名で通ることになりましょう」
そこは、伏せておこうかと思った。だが、伏せれば嘘になる。姉に嘘をつくと、たいてい後で高くつく。
二本目。
「次郎君は、今年十七。御元服は三年前。入られれば、その日に――」
「先ほど、伺いました」
姉が、遮った。
千菊丸は、口を閉じた。三本目を折るはずだった指が、止まっている。
姉は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「……あなたが、出される、と」
そして、袖を口に当てた。
千菊丸は、それを見ていた。
知っていた。姉は、そのことを知っていて、考えないことにしていた。考えないでいたものを、いま自分の口で言った。
千菊丸は自分に言い聞かせた。
謝るな。謝れば、姉は「それでも受けるしかない」と言う。謝られた側は、そう言うしかなくなる。
姉が、ようやく座った。そして、言った。
「……あなたは、賢い」
「いいえ」
「賢いのです」
姉の声が、震えていた。
「賢いから、そういうふうに数えられるのです」
違う、と千菊丸は思った。
賢いから数えるのではない。数えていないと、怖いのだ。
だが、それを言っても仕方がない。言えば、慰めてほしがっているように聞こえる。
「姉上。滋野井は、急いでおられます。昨年の秋に一度、今日で二度目。伯母上が亡くなられて、二月と経っておりませぬ」
「それが、何か」
「急ぐ者は、足元を見られます」
千菊丸は言った。
「今日、諸大夫を寄越されたのが、その証にございます」
姉が、目を上げた。
「……なぜ、そう言えるのです」
「家司で足りる話に、諸大夫を出されました。格を、上げてこられました」
千菊丸は、言葉を選んだ。
「格を上げるのは、断られるかもしれぬと、思うておられるからにございます」
姉は、しばらく黙っていた。やがて、こう言った。
「……千菊丸」
「はい」
「あなた、日記を読みましたね」
来た。
千菊丸は、袖の中で指を握った。
「読みました」
「全部」
「全部」
姉が、目を伏せた。そして、聞いた。
「父上の日記の、天文四年の項に、何と」
千菊丸は、答えられた。答えられることが、そのまま答えになる。三年かけて読んだ。日付も、順も、覚えている。
「『滋野井へ返答、なほ延引すべし』」
姉が、息を吸った。千菊丸は、続けた。
「その前の年にも、同じ言葉がございます。天文三年、九月。そのまた前にも。享禄五年、二月」
三度ある。
千菊丸は、それを見つけたとき、書庫で長く座り込んだ。
「父上が生きておられたうちから、滋野井は当家に手を伸ばしておられました」
「亡くなられるまで、十四年にございます」
姉が、顔を上げた。目が、赤かった。
「……父上は、断っておられたのですね」
「いいえ」
千菊丸は、首を振った。
ここが、いちばん言いたくないところだった。
「断ってはおられませぬ」
「延ばしておられました」
部屋が、静かになった。
「断れば、潰される。だから延ばす」
「そして、また来る。また延ばす」
「十四年、延ばして、」
千菊丸は、一度、息を継いだ。
「亡くなられました」
姉は、何も言わなかった。千菊丸も、言わなかった。
言えば、父を責めたことになる。責めるつもりは、なかった。
父は、勝つ手を持っていなかった。銭がない。地が入らない。座もない。家業を教える者もいない。
あの盤で、延ばす以外に何ができたか。
千菊丸には、分からない。読んでも、分からなかった。
「姉上。私も、まだ持っておりませぬ」
「勝つ手を」
姉が、こちらを見た。
「ですが、」
千菊丸は、顔を上げた。
「探せる歳になりました」
姉が、袖で口を押さえた。そして、そのまま、しばらく動かなかった。
やがて、姉が言った。声が、変わっていた。
「……今日は、私が返事をいたします」
千菊丸が、身構えた。止めなければ。
「『当主の元服の後に、あらためて』と」
受けるでも、断るでもない。
千菊丸は、動きを止めた。
「元服が先だ」という前提を、先に置く。
断っていないから、滋野井は怒れない。受けていないから、次郎君は入れない。そして「河鰭には当主が立つ」という話が、向こうの口から出ることになる。
千菊丸が「入れませぬ」と言い切ったのを、姉が大人の言葉に訳した。
自分では、こうは言えなかった。言い切ることはできる。言い切ったものを、通る形にすることは、まだできない。
それは、二十九年ぶんの何かだ。
「姉上――」
「その代わり」
姉が、遮った。
「十日のうちに、山科へ。あなた一人で行きなさい。私は行きませぬ」
「……なぜ」
「私が行けば、内蔵頭は私に話します」
姉は言った。
「あの方が話したいのは、あなたです」
千菊丸は、頭を下げた。
下げてから、姉がもう一つ言うのを聞いた。
「それと、もう一つ」
「はい」
「加冠は、」
姉が、少し言い淀んだ。
「私が一人、心当たりがあります」
千菊丸は、顔を上げた。
名を、聞くべきか。
聞けば、姉は答える。答えれば、それはこちらの手になる。姉の手のまま置いておけば、姉は自分でそれを使いに行く。
人は、自分で指した手を、指し直さぬ。
これも、父の記に書いてあったことだ。
千菊丸は、聞かなかった。
「お願いいたします」
それだけ言った。
姉が、少し驚いた顔をした。そして、初めて笑った。この日、初めてである。
「……父上より、しぶといこと」
立ち上がるとき、姉が言った。
「千菊丸。あなた、震えていたでしょう」
見られていた。
千菊丸は、答えなかった。
姉は、それ以上言わずに、廊下へ出ていった。




