借りぬ
天文十五年(1546年) 正月 京 内裏 山科言継
内蔵寮の用で奥へ回るのは、月に四度ほどある。
その四度のうち二度は、寄り道をする。河鰭の内侍の局へである。
用はない。用がないから寄れるのだ、と言継は思っている。用があって行けば、何か聞きに来たと思われる。用がなければ、ただの世間話になる。
世間話のほうが、よほど多くのことが分かる。
言継は四十になった。内蔵頭の帳を一人で回して二十年。朝廷の銭を数える役を、一人で回している。
回している、というのは体裁のいい言い方だ。実際には、足りない銭を毎日どこかへ寄せて、どこかを空にして、また埋めている。畳を上げると床がない、そういう家の帳を二十年つけている。
だから、家が消える前に何が起きるかを知っている。
人が減る。使いが減る。灯が減る。季節の贈答が一つ減り、翌年にはもう一つ減る。
やがて、誰もその家の話をしなくなる。
その言継が、この十年、ずっと気にしている家が一軒あった。
河鰭家である。
当主が、いない。
天文五年の冬に、河鰭左近衛中将季富が死んだ。三十五だった。あれから十年、家督が埋まっていない。
公卿の間では、もう忘れられている。羽林家が一軒空いていることなど、誰も気に留めない。空いている家は、京にいくらでもある。
だが、言継は忘れられなかった。
あの家には、まだ紙がある。そして、その紙には、誰も見たくないものが書いてある。
言継自身の花押も、そこに残っている。十年前、三十だった自分が書いたものだ。
「山科さまが、お見えにございます」
女房が取り次いだ。
言継は、いつも通り、砕けた顔で入った。内蔵頭が硬い顔で来ると、相手が身構える。身構えられると、何も出てこない。
「や、正月早々に無粋にござるな」
「まあ、山科さま」
河鰭の内侍、清子は文机の前にいた。二十九になるはずだ。
父を失ってから十年、この人が河鰭家を一人で持たせている。持たせている、と言えるほど何もできていないが、それでも消えていないのは、この人が御所を離れなかったからだ。
そして、その脇に。
子供が、座っていた。
ああ、と言継は思った。噂は、聞いていた。河鰭の童が、台盤所に出入りしていると。一度聞いた名を忘れぬと。
言継は、その手の噂を信用しない。賢い子供の噂は、京に毎年三つは立つ。そのうち二つは母親の身贔屓で、残る一つは、大人の物真似がうまいだけだ。
だから、この日も、その程度のつもりだった。
「これはこれは。若ぎみか」
「河鰭千菊丸にございます」
子供は、手をついた。礼は、悪くない。習っているのだろう。
「幾つになられる」
「十一にございます」
「もう十一か。早いものよのう」
言継は、そこから世間話に入った。節会の話。炭の値の話。去年の秋の雨の話。
子供は、黙って聞いていた。口を挟まない。
行儀のいい子だ。言継は、そう思った。
そして、それが今日の最後の油断だった。
半刻ほど話して、言継は本題らしくない顔で、本題を出した。
「時に、内侍。故左中将殿の御記は、まだこちらに」
清子の肩が、わずかに動いた。
「……ございますが」
「拝借できまいか」
「どの、あたりを」
さすがに、そう聞くか。
言継は、少しだけ間を取った。この間の取り方は、二十年やっている。長すぎれば怪しまれ、短すぎれば用意していたと思われる。
「享禄より、天文の初めまで」
そう言った。
そして、それが今日、言継が言った中で唯一、本当のことだった。
清子は、答えを探している顔をした。
そこへ。
「山科さま」
子供が、口を開いた。
言継は、そちらを見た。子供は、まっすぐ言継を見ていた。
「今日は、何をしにお越しになりました」
言継の指が、扇の上で止まった。
何を言われたのか、一瞬、分からなかった。
羽林家の童が、権中納言に向かって、そう聞いた。無礼である。無礼なのだが、十一の口から出ると無礼にならない。
返す手は二つしかない。笑って流すか、答えるか。そして流せば、流したこと自体が答えになる。
こやつ、それを分かって言うたか。
いや、まさか。
言継は、扇を膝に置いた。そして、笑わなかった。
「……故左中将殿の御記を拝借したい。それだけじゃ」
言った瞬間に、失敗したと思った。
「それだけ」と言った。
聞かれていないことを、否定してしまった。
「御記の、どのあたりを」
子供が、続けた。
言継は、二度目の間を取ってしまった。今度は、取らざるを得なかった。
「……享禄より、天文の初めまで」
「享禄四年に、大物崩れがございました」
子供が言った。
「天文元年に、山科の御本願寺が焼けましてございます」
言継は、湯呑みに伸ばしかけた手を、止めた。
山科である。言継の家領のある土地だ。あの寺が焼けて、山科郷の縄がどう動いたか。それは山科家にとって、家の存亡そのものだ。
この童は、いま、それを言ったのか。偶然か。
「天文五年二月に、主上の御即位がございました」
子供は、淡々と続けた。
「十年、お待ちになりました。銭が、足りなんだと伺うております」
言継は、答えなかった。答えられなかった。
誰から聞いた。
あの一件を知っている者は、この世に数えるほどしかいない。
太政大臣であった三条実香。もう出家して、九年、誰にも会っていない。
河鰭季富。十年前に死んだ。
そして、受取を書いた自分。
あとは。
言継は、清子のほうへ目をやりかけて、やめた。
いや。この姉は、言わぬ。十年、一言も言っていない人だ。
「山科さま」
子供が、また言った。
「御譲位の、御沙汰がございますか」
清子が、扇を落とした。乾いた音がした。
言継は、そのとき初めて、この子供を人として見た。
違う。これは、賢い子供ではない。
賢い子供は、答えを言う。この子は、順番に置いていった。
享禄四年。天文元年。天文五年。
三つとも、言継が「享禄より天文の初めまで」と言った範囲に入る。三つとも、京の銭が動いた年だ。
そして、その三つを並べたうえで、こう聞いた。なぜ、いまさらその四年の記録が要るのか、と。
答えは一つしかない。次に、同じことをせねばならぬからだ。
御即位の記録とは、要するに入目の帳である。何にいくらかかり、誰がいくら出したか。それを見たがる者がいるとすれば、次の大礼を数えている者だ。
主上は、五十一にあらせられる。方仁の宮は、三十。立太子の礼すら、まだ挙がっていない。
譲位の話は、まだどこにも出ていない。
出ていないが、言継は数えている。十年前に十年待たされた式を、次はどうするか。それを考えている人間が、京に一人だけいる。
それが自分であることを、この童は、いま言い当てた。
「……誰に聞いた」
言継は、そう聞いた。声が、思ったより低く出た。
「どなたにも」
子供は、そう答えた。
嘘を言っている顔ではなかった。
嘘を言っている顔ではないから、恐ろしかった。
廊下の奥で、足音が止まった。女房の声がする。
「滋野井さまの、御使者にございます」
来たか。
言継は、扇を取った。そして、その一瞬で、今日ここへ来た本当の理由を、思い出した。
紙ではない。日記でもない。
自分が本当に知りたかったのは、こうだ。
この家は、埋まるのか。埋まるとしたら、誰で埋まるのか。
河鰭家には、十年、返っていない貸しがある。帳に載っていない貸しだ。載っていないから、返す道もない。
当主が立てば、いずれ誰かが気づく。気づいた者が、内蔵寮へ来る。
そのとき来るのが、他家から入った十七の若者なのか。
それとも。
言継は、扇を握り直した。そして、使者が入ってくる前に、早口で言った。
「千菊丸どの」
「はい」
「御記は、借りぬ。代わりに、一つだけ答えよ」
言継は、子供を見た。
「滋野井の次郎を、入れるか。入れぬか」
清子が、息を呑んだ。
当然である。十一の子供に、家督の話を、内蔵頭が正面から聞いた。
言継は、それを承知で聞いた。姉に聞けば、大人の答えが返る。
しばらく待ってほしい。考えさせてほしい。家中とも相談せねばならぬ。
時を稼ぐ答えだ。使える答えではない。
子供なら、本当のことを言う。そのはずだった。
千菊丸は、火桶から手を離した。そして、両手を膝に置いて、はっきりと言った。
「入れませぬ」
言継は、動かなかった。
言い切りおった。
根拠を言わない。言い訳もしない。
十一である。何の力もない。銭もない。加冠役もない。その状態で、言い切った。
言継は、四十年生きてきて、そういう者を三人しか見たことがない。
三人とも、後に恐ろしいことになった。
そして三人のうち一人が、河鰭季富だった。
襖が開いて、滋野井の使者が入ってきた。諸大夫である。
格を上げて寄越したか、と言継は思った。滋野井は本気だ。
使者は、部屋に入って、座ろうとした。そして、止まった。
言継を見ている。
諸大夫の身分の者が、権中納言と同座することは、まず、ない。男は、膝を折りかけた場所から、一膝、下がった。下がってから、改めて手をついた。
言継は、その一膝を見逃さなかった。
ほう。
内蔵頭がここにいることを、滋野井は知らなかった。知られたくなかった。
知られたくないということは、この話、三条家に通していない。通しておれば、内蔵頭の耳に入っていて当然じゃ。
先に諮れば、否と言われて終わると踏んだか。だから、決めてから持って行くつもりであったのだ。
言継は、立ち上がった。
帰る。ここから先は、大人が二人で話す場だ。自分がいれば、話が形になる。形にさせないほうがいい。
去り際に、使者にではなく、清子に向かって言った。
「河鰭の童は、故左中将殿に、ようお似申される」
十年前に死んだ男の名を、置いていった。滋野井の使者に聞かせるために。
そして、廊下へ出る前に、子供のほうを見ずに、一言だけ落とした。
「十日のうちに、山科へ参られよ。御記を持って」
外は、まだ明るかった。
言継は、渡り廊下を歩きながら、自分が「借りぬ」と言ってから「持って参れ」と言うまで、半刻もかからなかったことに気づいた。
四十にもなって、童に手順を崩された。
そして、それが不快でないことに、もっと驚いた。
言継は、二十年、一人で数えてきた。銭を数え、人を数え、いつ誰が何を出すかを数えて、それを誰にも言わずに帳につけてきた。
数えている、と気づかれたことは、一度もない。
今日、気づかれた。十一の童に。
言継は、少し笑った。
そして、笑ってから、背筋が寒くなった。




