決めてから
天文十五年(1546年) 正月 京 内裏 河鰭清子
香を、焚いた。
朝から迷って、結局焚いた。滋野井家の御使者が来るのは午を過ぎてからだと聞いている。それまでに支度をしておかねばならない。何を支度するのかと言われれば、香を焚くこと以外に、この局にできることは何もない。
三年前まで、清子は香を焚かなかった。焚けば減る。減れば買わねばならない。買う銭が、河鰭家にはない。
それでも今日は焚いた。これから、家を渡す話をするからである。
河鰭家は、表の当主が立たぬまま十年になる。
人がいないわけではない。屋敷のいちばん奥には、祖父・実治がいる。八十一。正二位、権中納言まで進んだ人である。朝夕の膳だけが敷居を越え、空の器だけが戻ってくる。父の葬の日にも、実治は奥から出なかった。それから十年、孫の家督にも元服にも、よいとも悪いとも言わない。
生きている。だが、河鰭の当主として表に座る者は、いない。
父・季富が死んだのは天文五年の冬。享年三十五。正四位下、左近衛中将。その年に生まれた子が、いま十一になった。
元服していない。加冠役がいない。装束もない。銭もない。家督を継ぐという話に、返事をする人もいない。
父の記は、十一箱ある。書庫に、そのまま積んである。誰も読んでいない。父が死んでから、誰も。
いや。
清子は、思い出した。去年の冬、あの子が書庫から出てきたとき、指が墨で汚れていた。
伯母が、去年の冬に亡くなった。父亡きあと、滋野井からの話を止め続けていた人である。
止める人が、いなくなった。
だから今日、清子は返事をする。
「姉上」
声がした。廊下である。清子は、思わず息を止めた。まだ午にもなっていない。今日は呼んでいない。
「……千菊丸ですか」
「はい」
「入りなさい」
弟が入ってきた。童形のままの、痩せた子である。頬が赤い。外を歩いてきたのだろう。手に、小さな包みを抱えていた。
「炭を、預かってまいりました」
「まあ。誰から」
「台盤所の、名は聞いておりませぬ」
「聞かなかったのですか」
「聞けば、礼を言わねばなりませぬ」
清子は、笑いかけた。
「礼を言えばよいでしょう」
「礼を言うと、次から下さらなくなります」
笑いが、止まった。
「……それは、誰に教わったのです」
「誰にも」
弟は、こちらを見ていなかった。火桶の脇に座って、手をかざしている。指が赤い。
いま言ったことを、当たり前のこととして言った。人から物を貰ったら礼を言う、その礼が相手に「もう済んだ」と思わせる、だから言わない。
十一歳が、そこまで考える。
清子は、火桶に炭を足す手が、少し遅れた。
この子は、四つの年から御所の裏を歩いている。母は下級の女房だった。清子とは腹が違う。だから千菊丸は、幼い頃から台盤所や主殿の裏に出入りして、下働きの女たちに可愛がられて育った。
可愛がられた、という言い方が、正しいのかどうか。
そういえば、と清子は思う。この子に物をやった者は、また物をやる。一度きりで終わった者を、清子は知らない。いつだったか、炭を運ぶ老女がこう言っていた。
「河鰭の童は、一度聞いた名を、忘れぬそうな」
あのとき、清子は誇らしく思った。いまは、少し違うことを思う。
この子は、名を覚えているのではない。数えているのだ。誰が、誰に、いつ、何をしたか。
公卿は台所を見ない。台所は、公卿の全部を見ている。そして、この子は両方を見ている。
「姉上。香を、焚いておられますね」
清子の袖が、動いた。自分でも、動いたのが分かった。
「……よく気がつきますね」
「姉上は、香を焚かれませぬ」
弟は、火桶を見たまま言った。
「去年は、二度きりにございました。八月と、十月に」
覚えている。
「十月のときは、翌日、姉上が半日、お泣きになりました」
清子は、答えられなかった。
あの日のことは、誰にも言っていない。泣いたことも、知られていないと思っていた。この子は、あの日、局にいなかった。いなかったのに、知っている。
「……千菊丸」
「はい」
「あなた、いつからそれを」
弟が、初めて顔を上げた。十一歳の顔だった。まだ髪も切っていない、丸い頬の。
その顔で、こう言った。
「数えているだけにございます」
しばらく、二人とも黙っていた。
清子は、そこで一つ気づいた。
この子は、午より前に来た。今日は呼んでいない。炭を持ってきた。香に触れた。去年の月まで言った。
並べれば、偶然が四つ続いたことになる。この子に、偶然は四つも続かない。
外を、女房が二人、話しながら通り過ぎていく。正月の、御所らしい音である。
もっとも、その正月も年々痩せていた。元日の節会は、去年も一昨年も、削られたまま挙がった。
主上は五十一にあらせられる。御所の修理は、十年止まっている。方仁の宮は、三十。いまだ、立太子の礼が挙がっていない。挙げる銭が、ないからである。
この局の灯も、去年から一つ減っている。
六年前、疫病が流行ったとき、主上は御自ら般若心経を書写された。諸国の一宮へ、奉納するためである。
銭は、出せなかった。兵も、出せなかった。書くことしか、できることがなかった。
清子は、あのとき紙を運んだ。運びながら、これで疫病が止むとは、どうしても思えなかった。
それでも、主上は書かれた。他にできることが、なかったからである。
それを思い出して、少し息を吸った。
言わねばならない。午が来る前に、この子に言っておかねばならない。
「千菊丸。あなた、今年で十一ですね」
「はい」
「元服は」
弟は、答えなかった。
答えられないのだ、と清子は思った。答えられないのは、この子のせいではない。
だから、清子は続けた。文机の上の紙を、指で押さえて。押さえたまま、動かさずに。
「滋野井から、話が来ています」
弟は、顔を上げなかった。火桶を見たままだった。
そして、こう言った。
「……次郎君を、こちらへ、ですか」
清子の指が、止まった。
「なぜ、それを」
「昨年の秋にも、同じ話がございました」
「あのときは、伯母上が」
「はい」
弟が、顔を上げた。
「伯母上は、冬に亡くなられました」
局が、静かになった。香が、細く上がっている。
清子は、そのとき初めて、はっきりと恐ろしくなった。
この子は、伯母の死を悼んだのではない。止める者がいなくなった、と見たのだ。
葬儀の日、千菊丸は泣かなかった。子供らしくないと、女房たちが囁いていた。
泣かずに、あの子は何を見ていたのか。誰が来て、誰が来なかったか。誰が最後まで残って、誰が真っ先に帰ったか。
そして、伯母がいなくなれば、次は誰が動くか。
そういうものを、見ていたのだろう。
「姉上」
弟が、言った。声は、静かだった。
「その話は。まだ、お受けにならないでください」
清子は、弟を見た。
「千菊丸。受けねば、家が消えます」
「受けても、消えます」
即座だった。考えて答えたのではない。もう、考え終わっている。
「次郎君は、今年で十七。御元服は、とうにお済みにございましょう」
「……そうです」
「入られれば、すぐに家督にございます」
弟は、少しだけ間を置いた。そして、言った。
「私は、出されます」
「……決まったわけでは、ありません」
「決まってはおりませぬ」
弟は、そう言った。それから、こう続けた。
「決めるのが、私ではないだけにございます」
清子は、袖を口に当てた。
そのことを、考えなかったわけではない。考えて、考えないことにしていた。
滋野井の次郎君が入れば、河鰭の家は残る。名は残る。この局も残る。
残らないのは、この子だけだ。
だから清子は、そこを見ないようにしていた。見ていないことを、この子は知っている。
「……あなたは」
清子は、やっと声を出した。
「あなたは、何を考えているのです」
弟は、答えなかった。
答えずに、火桶の中を見ている。
清子は、待った。
炭が一つ、赤く崩れた。
「父上は」
弟が、言った。
清子の肩が、わずかに強張った。
「お家を、残されました」
「……そうですね」
「何も、お取りになりませなんだ」
清子は、答えなかった。
父・季富は、そういう人だった。誰かに勝ったという話を、清子は知らない。官位を争わず、所領を争わず、御所の中で誰かを押しのけることもなかった。
ただ、負けるたびに何かを一つ減らし、次の年まで家を持たせた。それを、死ぬまで続けた。
「千菊丸」
「はい」
「父上が、間違っていたと申すのですか」
弟は、首を横に振った。
「いいえ」
それだけだった。
清子は、続きを待った。弟は、言わない。
言わないので、清子も聞かなかった。
聞けば、答えを持った姉になる。この子が自分で決める前に、姉の言葉が一つ増える。
それがよいことなのか、清子には分からなかった。
そのとき、弟が顔を横に向けた。廊下のほうへ。
清子には何も聞こえなかったが、少し遅れて足音が届いた。
「御使者にございますね」
弟が言った。
「まだ、午には早うございます」
清子には、まだ何も見えない。廊下は、空である。
「二人ぶんにございます」
弟は、そちらを見たまま言った。そして、こう続けた。
「この家に用があって来た者の足では、ございませぬ」
清子は、弟の横顔を見た。
十一歳だった。髪も切っていない、童形の。その子が、まだ姿も見ていない客の身分を、足音だけで測っている。
この子は、何なのだろう。
父が生きていたら、何と言っただろうか。
いや、と清子は思い直した。父も、こういう人だった。三十五年を、この家を延ばすことだけに使って、何一つ勝たずに死んだ人。
この子は、その続きなのだ。
ただ一つ、違うことがある。
父は、勝とうとしなかった。
足音が、局の前で止まった。




