二千貫
永禄二年(1559年) 三月 安芸 吉田郡山 毛利元就
四通目が着いたのは、二月の末である。
中身は節会の記であった。当年正月、京にて節会が旧儀のまま調ったという、それだけの報せである。
同じものが諸国へ回っているらしいことは、堺の者から聞いて知っていた。
末に一行、他の分にはない文が足してあった。
御服の儀、いまだ調ひ申さず候。
元就はその一行を読んで、四年前を思い出した。
あのとき京の少将は額を書かずに寄越し、こちらが額を尋ねると、やはり額を書かずに返してきた。註も付けてこなかった。
あれで元就はこの男を信じることにしたのだが、信じたきり三年、何もしていない。
していないのは、こちらの都合である。
元就は六十三になる。防長は一昨年に静まった。静まったが、静めた分だけ抱えるものが増えた。
大内の旧臣、大内の寺社、大内が握っていた博多との筋。どれも大内のやり方で回っていたものを、毛利のやり方に替えねばならぬ。
替えるたびに、旧臣が「大内の御代はこうではなかった」と言う。
言われるのは構わぬ。困るのは、こちらに言い返す言葉がないことである。
毛利は大内を討った。討った家が、討たれた家のやり方を継ぐ理由は、力のほかにない。
力は、いつか衰える。
石見のことも、ある。銀山は、いま尼子が握っている。元就がかつて持っていたころに貯めた銀は、蔵にまだある。使う当てを、五年決めかねていた。
兵に使えば、いくらでも溶ける。溶けて、取り返せるかどうかは分からぬ。
三月の初め、元就は隆元を呼んだ。
三十七になる嫡男である。真面目で、細かく、父に気を遣いすぎる。元就はこの息子を、能はあるが胆が足りぬと見ていた。
「京へ、銀を出そうと思う」
元就は、そう切り出した。
切り出してから、隆元がどう言うかは分かっていた。いまは防長の始末に銭が要る、尼子との境も定まっておらぬ、京の話は後になさいませ——そう言うだろう。
元就は、言い返す用意をしていた。
「――いかほど、御出しになりまする」
隆元は、そう言った。
元就は、扇を止めた。
「そなた、止めぬのか」
「止めませぬ」
「なぜじゃ」
隆元は、少し考えてから答えた。
「父上。旧臣どもが、大内の御代はこうではなかったと申します」
「申すな」
「あれに、当方は何も返せておりませぬ。討ったゆえ継ぐ、では、次に討たれたときも同じ理屈になります」
元就は、息子の顔を見た。
「大内が果たしておった勤めのうち、当方が継いだものは一つもございませぬ。継いだのは、領と、人と、湊だけにございます」
「……うむ」
「勤めを継げば、旧臣に返す言葉ができます」
元就は、しばらく黙っていた。
黙っていたのは、隆元の言うとおりだったからではない。この息子が、自分より先にそこへ行っていたからである。
元就は、この子を胆が足りぬと見ていた。三十七になるまで、そう見ていた。
見誤っていた。
「隆元」
「はい」
「いつから、そう思うておった」
「防長が静まってから、ずっとにございます」
「なぜ、申さなんだ」
隆元は、そこで初めて言い淀んだ。
「父上が、京の話をお嫌いだと思うておりました」
元就は、扇で膝を叩いた。
叩いたのは、腹が立ったからではない。三十七年、この息子に何を伝えてきたのかと思ったからである。
書状で説いてきた。何十通も書いた。書いて、伝わっていた気になっていた。
――わしも、註を付けすぎておったな。
元就は、そう思った。思ったが、口には出さなかった。
額は、その日のうちに決めた。
即位料と、御服の費用である。御服は、大内が代々調えていた。天文五年の御即位でも、大内義隆が調えた。三年前に京から来た写しに、そう書いてある。額も、書いてある。
元就は、その額を上回る数を言った。
上回らせたのは、勤めを継ぐという以上、前より下では継いだことにならぬからである。下で継げば、旧臣がまた大内の御代はと言う。
隆元が、その額を聞いて、二度確かめた。
「よろしいので」
「銀は、使わねばただの石じゃ」
元就はそう言い、それから、この言い方が気に入らなかったので、言い直した。
「隆元。これはな、京に貸すのではない。当方が、大内の跡目であることを、京に書かせるのじゃ」
「書かせる」
「銭は消える。書いたものは残る。残ったものは、二十年後に旧臣の孫が読む」
文は、三月半ばに出した。
防長、ようやく静まり候。
御服の儀、当方にて調へ申すべく候。
額は、別紙に入れた。
返書は、四月の末に着いた。
元就は、封を切って、一行しかないのを見た。
時日、賜り候。
元就は、それをしばらく見ていた。
急かしていない。いつまでに寄越せとも、いつ挙げるとも書いていない。時日はこちらに委ねる、とだけ書いてある。
四年待った男が、こちらが出すと言った途端に、日を切らなかった。
元就は、返書を巻き、紐をかけた。
――こやつ、まだ何か待っておるな。
そう思った。
思ったが、今度は腹が立たなかった。腹が立たないのは、こちらが出すと決めたあとだからである。
決めたあとで待たされるのは、決める前に待たされるのとは違う。
元就は、隆元を呼んで、銀の運び方を相談した。相談しながら、この息子に一つ聞いておこうと思った。
「隆元。京の少将は、幾つになる」
「二十四か、五にございましょう」
「そうか」
元就は、それだけ言った。
六十三と、二十四である。三十九の差がある。
三十九年前、元就は安芸の一領主で、京のことなど考えたこともなかった。
永禄二年(1559年) 二月〜九月 京 山科邸 山科言継
銀が着いたのは、五月である。
言継は、内蔵頭として受けた。受けて、その場で算木を出した。
出したのは癖であって、数えるまでもなく足りることは、荷を見た瞬間に分かっていた。
即位料と、御服の費用。合わせて銭二千五十九貫四百文。
言継は、五十三になる。三十年、内蔵寮の帳をつけてきた。
二千貫を超える数を、この帳に書いたことはない。書いた者もいない。
言継は、その日、三度算木を置き直した。三度目に、自分の手が少し震えていることに気づいた。
震えているのは嬉しいからだろうと思い、それから、そうでもないと思った。
三十年、足りない額ばかり数えてきた。足りる額の数え方を、体が知らない。
六月には、本願寺からも入った。
こちらは額が判然としない。判然としないのは、一度に来なかったからである。三月から月ごとに入り、六月に大きいのが入り、そのあとも続いている。
続いているのが、値である。
言継は、そのことに七月になってから気づいた。気づいて、河鰭に聞いた。
「本願寺は、いつまで出す」
「存じませぬ」
「そなた、二年前に町の質屋を通したな」
「通しました」
「なんと申した」
河鰭は、少し考えてから答えた。
「一度きりでは献金、続けば勤め、と」
言継は、うなずいた。
うなずいて、帳を繰った。三月からの本願寺の分を、月ごとに並べ直した。
並べると、これは献金ではなく、年ごとに続く勤めの、初年度に見える。
見えるように、向こうが出している。
「少将どの」
「はい」
「これは、いずれ格を申し立ててくるぞ」
「参りましょう」
「そなた、二年前にそれを申したか」
「申しました」
言継は、筆を置いた。
この男は、二年前に町衆に一言だけ言って、そのまま何もしていない。何もしていないうちに、向こうが勝手に形を作ってきた。
――いや。
言継は、思い直した。
勝手ではない。作らせたのである。作らせておいて、こちらは何も約束していない。約束していないから、格を出すかどうかは、そのとき決められる。
厄介な男になった、と言継は思った。十一のときから厄介であったが、種類が変わった。
帳に載せたのは、八月である。
永禄二年五月 安芸国 毛利元就・隆元
即位料ならびに御服費用 銭二千五十九貫四百文
取次 河鰭少将実初
言継は、取次の欄を書くとき、少し迷った。
迷ったのは、この男の名を書いてよいかどうかではない。書けば、この二千貫は河鰭が持ってきたことになる。
持ってきたのではない。
毛利は、毛利の都合で出した。防長を取り、大内の跡目を継ぐ筋が要った。要ったから、京へ出した。出す気のない相手なら、誰が取り次いでも出さぬ。
だが、出す気のある相手に、出す先と、出してよい時期を示した者はいる。
河鰭がしたのは、四年前に額を書かずに文を出したことと、正月の節会の記を十七通送ったことである。
動機は安芸にあった。経路と時機は、京で作られた。
言継は、そこまで考えて、結局「取次 河鰭少将実初」と書いた。
書いたのは、事実だからである。取り次いだ。それ以上でも以下でもない。
取り次いだ者が持ってきたと後の世が読むなら、それは後の世の読み違いであって、帳の落ち度ではない。
沙汰が出たのは、九月である。
毛利元就に、従四位下・陸奥守。菊と桐の紋を、家紋に添えることを許す。
言継は、その口宣案の控えを繰りながら、河鰭に見せた。
「少将どの。銭が、位になったな」
「はい」
「そなたが十一のとき、わしが申したことがある」
「禁裏に銭はない、じゃが位はある。位は、出しても減らぬ」
河鰭は、そう暗誦した。
言継は、暗誦されて、あまりよい気持ちがしなかった。
十三年前、あれは強がりであった。減らぬと言うほかに、言うことがなかった。
いま、減らないものが、二千貫を超える銭に換わっている。
言継は、控えを仕舞った。
仕舞いながら、この筋がこれから何度も使われるだろうと思った。使われるたびに、位は少しずつ安くなる。
安くなることまでは、十三年前に数えていない。
三条実香が没したのは、その年の二月である。
九十一。
銀の着くより、三月早い。
言継は、報せを昼に聞いた。聞いて、その日の午後は何もしなかった。
あの老人には、十七度行った。九年こもっているあいだに十七度、断られた。中へ入れたのは、そのあとの五度である。
五度とも、銭の巻だけを見せられた。
見せられたのではない。銭の巻しか、こちらが見なかったのである。
河鰭は、九冊を全部貰った。
貰って、二年で使い切った。省いた儀も、代用も、日程も、役も、全部あの九冊に書いてあった。
書いてあるものを、書いてあるとおりにやった。それだけで、二十三年ぶりの御大礼が組み上がりつつある。
言継は、自分が何を見落としたかを、はっきり数えられた。
数えられるのが、いちばんこたえた。
夕方、河鰭が来た。
呼んでいない。この男は、呼ばぬときに来る。
「山科さま」
「聞いたか」
「はい」
河鰭は、それから何も言わなかった。座って、しばらく座っていた。
「少将どの」
「はい」
「安芸から、返事は」
「まだにございます」
言継は、指を折った。折って、途中でやめた。
正月十五日に十七通が出た。あの老人が没したのは二月二十五日である。四十日である。
届いたことは、知っている。届いたものに返事が来たかどうかは、知らずに死んだ。
「間に合わなんだな」
「はい」
河鰭は、それだけ言った。
言継は、この男が慰めを言わないことを知っている。慰めを言わないのは、優しいからではない。言えば、間に合わなかったことを言い直すことになるからである。
「少将どの。大殿は、そなたに何ぞ申されたか。最後に」
「践祚の日に、真っ先にせねばならぬことを、教わりました」
「なんじゃ」
「新帝に、お会いすることにございます」
言継は、そこで少し笑った。
「あの御方らしゅうもない」
「大殿は、天文五年の御即位を、十年支度して、その十年、主上に一度もお目にかかっておられませぬ」
言継は、笑うのをやめた。
知らなかった。十七度通って、五度中へ入って、九年見ていて、知らなかった。
「……そなたは、会うたか」
「践祚の日に」
「そうか」
言継は、それ以上聞かなかった。
その夜、言継は帳に二月の条を書いた。
前太政大臣従一位三条実香卿、薨ず。九十一。
法名諦空。天文五年御即位の折、奥を差配せられし人なり。
書いてから、一行足そうとして、やめた。
足そうとしたのは、九冊のことである。九冊があったから御大礼が組めた、と書けば、後の世は実香を正しく数える。
書かなかったのは、九冊の存在を帳に載せると、あの中身まで辿られるからである。省いた儀二十七の一覧は、いま世に出てはならぬ。
言継は、筆を置いた。
この二年で、二度目である。
書かねば残らぬと言い続けてきた男の弟子のようになって、書かない選択を二度した。
二度目のほうが、早かった。




