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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第三部・第二章『崩御』

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二つの年号

弘治四年〜永禄元年(1558年) 正月〜十二月  京  三好邸 ほか  松永久秀


 書付を持ってきたのは、伊勢貞孝であった。


 久秀は、それを見て、まず紙を確かめた。政所の紙である。判も貞孝の判である。文言も、政所の書札礼を踏んでいる。


 どこにも不備がない。


 不備がないのが、引っかかった。


 中身は、御大礼の役についてである。即位の礼に、この家でなければ勤まらぬ役が十一ある。うち一つを、近衛家の当主が勤める。当主はいま朽木にある。京へ召し返されたい。


 それだけである。


「伊勢どの」


「なんじゃ」


「これは、どなたが書かれた」


「政所じゃ」


 久秀は、うなずいた。うなずいて、書付を裏返した。裏は白い。


「河鰭の少将は、なんと申しておられます」


 貞孝の顔が、動かなかった。動かなかったのを、久秀は見た。


「河鰭は、関わっておらぬ」


「さようで」


「政所の判が据わっておる」


「据わっておりますな」


 久秀は、それ以上聞かなかった。


 この老人は、七年前に幕府を捨てて三好に来た。来た理由は、帳を見に来る者が京にいたからである。理屈としては筋が通っており、久秀はそれを気に入っていた。


 その男が、いま幕府の紙を持ってきている。


 政所の判で、幕府の役の話をしに来た。三好へ移った者が、三好へ幕府の紙を運んでいる。


 その紙を書ける者は、京に一人しかいない。一人しかいないから、誰が書かせたかが見える。


 河鰭が三好邸へ来たのは、二日あとである。


 用は別のことであった。禁裏の修理の名目の話で、四半刻で済んだ。済んで、帰ろうとしたところを、久秀が呼び止めた。


「少将どの。政所から、書付が参っております」


 河鰭は、座り直した。


「御大礼の役にございますか」


「近衛の大殿を、京へ召し返されたい、とござる」


「役の一覧は、当家が調べました」


「少将どの。それは、上様をお迎えせよと申されておりまする」


「申しておりませぬ」


「ほう」


「近衛の大殿を、とだけにございます」


 久秀は、扇を開いた。開いて、閉じた。


 この男の筋は、読める。


 大殿が戻れば除目が京で動く。動けば、上様が朽木におられることのほうが不都合になる。不都合になれば、上様は御自分の都合で京へ戻られる。


 紙で、人を動かす。


 悪くない、と久秀は思った。思って、それから、この男が一つ数え落としていることに気づいた。


 ――近衛の大殿は、上様の伯父御じゃ。


 久秀は、それを言わなかった。


 言えば、この男は考え直す。考え直されると、こちらの手が読みにくくなる。読みにくい相手より、読める相手のほうが扱いやすい。


 二月二十八日、改元があった。


 弘治から、永禄になった。


 久秀は、その沙汰を聞いて、まず日を数えた。践祚から四か月である。


 早い。御大喪の直後に改元というのは、間が詰まっている。


 詰まっているのは、詰めた者がいるからである。


 改元は、本来、武家が執奏する。銭も武家が出す。前の弘治の改元のとき、上様は執奏も費用の負担もなさらなかった。


 今度は、なさらなかったのではない。


 知らされていない。


 朝廷は、朽木へ諮らずに改元した。銭は三好が出した。上様は、御自分の代の年号が変わったことを、人づてにお聞きになった。


 三月に入って、河鰭が来た。


 顔色が、悪い。


「松永さま」


「うむ」


「改元の執奏は、どちらから」


「関白殿下じゃ。当方は、銭を出しただけにござる」


「上様へは」


「聞いておらぬ」


 河鰭は、そこで黙った。


「少将どの。改元の銭は、内侍所の御修理と同じ筋で出しており申す」


 河鰭が、顔を上げた。


「同じ筋、と申されますと」


「そちらが二年かけて作られた筋にござる。名目を書いた札が回れば物が動く。物が動けば帳に載る。当方は、その帳の空いておるところへ銭を入れただけにござるよ」


 久秀は、扇を開いた。


「よい仕組みじゃ。誰が何に使うかは、そのとき決めればよい」


 久秀は、この男が黙るのを二度見ている。一度目は四年前で、伊勢貞孝の名を出したときであった。


「少将どの。何を数えておられる」


「……役の書付にございます」


「うむ」


「正月に出しました。改元は、二月にございます」


 久秀は、そこで初めて、この男が何を恐れているかを知った。


 書付は、御大礼の役を出せと言っている。御大礼とは、朝廷の儀である。


 その朝廷が、上様に諮らずに年号を変えた。


 同じ朝廷から、役を出せと言われる。


 順が、悪い。


「少将どの。あれは、当方が握り潰してもよろしいか」


 河鰭は、顔を上げた。


「潰していただきとうございます」


 久秀は、笑った。


 笑ったのは、この男が自分の紙を捨ててくれと言ったからである。十一年見てきて、初めてであった。


「惜しゅうないか」


「惜しゅうございます」


 返事も、早かった。


「ならば、なおさら潰すか」


「惜しいことと、残してよいことは別にございます」


 河鰭は、そこで頭を下げた。


 久秀は、書付を手元へ引いた。


 遅かった。


 上様は、三月のうちに動かれた。


 細川晴元と結び、坂本で兵を挙げられた。六角義賢が付いた。合わせて三千あまりである。


 久秀は、それを聞いたとき、河鰭の書付のことを思い出さなかった。思い出す必要がなかったからである。


 上様が動かれたのは、改元であった。年号を変えられて、諮られなかった。武家の棟梁がそれを黙って受ければ、棟梁ではなくなる。


 朽木から出る書付は、その後も弘治四年、弘治五年と書かれ続けた。


 京では永禄。朽木では弘治。


 同じ年に、二つの年号がある。


 どちらも、書いた者には正しい。


 だから厄介だった。


 五月三日、幕府方が坂本に着いた。


 六月二日、三好長逸と久秀が、一万五千で将軍山城を押さえた。二日おいて、幕府方が如意ヶ嶽に上がった。鹿ヶ谷で、戦になった。


 久秀は、その夏を東山で過ごした。


 紙のことは、一度も考えなかった。


 考えるのは、兵糧と、水と、六角の腰の据わり方である。六角義賢は、父の定頼ほど腹が読めぬ。読めぬ相手が、三千のうち二千を出している。


 夏のあいだ、京の町は静かであった。


 棟別を出したばかりの町である。出した先の三好が、今度は東山で戦をしている。町衆は、どちらが勝っても銭を出すことになると分かっていた。分かっているので、誰も何も言わなかった。


 五年前、この町は踊っていた。四十を超える組が出て、主が四条の辻で半刻立って見物した。


 今年は、鉦の音がしない。


 止めさせたのではない。誰も出てこないだけである。


 和議が成ったのは、十一月である。


 六角義賢の仲介であった。三好は上様の還京を認め、上様は三好を幕府に入れることを認められた。


 どちらも、勝ってはいない。


 十二月、上様が京へ入られた。五年ぶりである。


 近衛稙家も、同じ月に戻った。


 久秀は、四条の辻で行列を見た。行列といっても、上様のほうは百に足りぬ。稙家の一行は、二十人ほどであった。


 その月のうちに、上様は稙家の娘を正室に迎えられた。


 久秀は、それを聞いて、扇を落としそうになった。


 ――伯父御と、婿じゃ。


 河鰭が正月に出した書付は、役の家として大殿を出させようとしていた。


 実際に戻ったのは、役の家としてではない。将軍の外戚として、将軍と一緒に戻った。


 紙は、何もしていない。


 久秀は、二十年帳を書いてきた。書けば残ると思うてきた。


 今日、残ったのは紙ではない。年号を変えられた男の怒りである。


 怒りは、帳に載らぬ。


 久秀は、辻に立ったまま、行列が見えなくなるまで見ていた。


 河鰭が三好邸へ来たのは、年の暮れである。


「松永さま」


「少将どの。御大礼の役は、揃いましたな」


 河鰭は、答えなかった。


「あの書付は、握り潰した」


「……はい」


「潰さんでも、同じであったろう」


 河鰭は、しばらく黙っていた。


「同じにございました」


「では、そなたは何をした」


「何も、いたしておりませぬ」


 久秀は、その答えを聞いて、少し面白くなくなった。


 この男は、七年前に伊勢貞孝を三好へ渡した。あのときは、渡すつもりがなくて渡してしまった。


 今度は、渡そうとして、何も渡らなかった。


 どちらも、こちらの利になっている。


「少将どの。落ち込んでおられるか」


「落ち込んでおりませぬ」


「嘘じゃな」


「……はい」


「よい心がけにござる」


 久秀は、扇を膝に置いた。


「兵で決まったものを紙で決まったことにする者は、いずれ紙を信じすぎる」


 河鰭は、頭を下げた。


 久秀は、この男が下げた頭のまま何かを数えているのを見ていた。数えているのは、たぶん役の残りである。


 十一のうち、いちばん動かぬ一つが動いた。


 動かしたのは、六角義賢と、一万八千の兵と、年号を変えられた男の怒りである。


 だが、除目を差配する家は、京に戻った。


第三部第二章『崩御』 了


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