九冊
弘治二年(1556年) 九月 京 三条邸 三条実香(諦空)
戸を開けさせたのは、実香のほうである。
取次が来た。河鰭の少将が参っている、と言う。
実香は、うむ、とだけ言った。言ってから、自分の声が思ったより出たので、少し驚いた。
八十八になる。この十年、声を出す用がなかった。
入ってきた男は、背が高かった。
前に来たときは、渡り廊下の外に二刻立たせた童である。あのとき実香は戸の内で数えていた。あの子が敷石を数えているのが、なぜか分かった。
「大殿」
「遅いわ」
実香は、それを先に言った。
「十年じゃぞ。わしは、待っておった」
河鰭は、頭を下げた。下げたまま、上げなかった。
実香は、それを見ていた。
河鰭にも、奥に一人いる。八十を過ぎて、十年、表に出ない。実初はその人のことを、この屋敷で一度も口にしたことがない。
公頼は、周防で死んだ。死ぬ前の九年、この屋敷に一度も来ていない。来ぬまま死んで、遺書が河鰭に届いた。届いたことを、実香は人づてに聞いた。
「顔を上げよ」
河鰭が、顔を上げた。
「今度は、何を取る」
実香は、そう聞いた。
前もそう聞いた。前は「父がなぜ字を返したのか」と答えた。それだけを聞いて、山科の用件は出さなかった。あの日、実香はそれで戸を開けた。
今度は、こう返ってきた。
「御即位の、やり方にございます」
実香は、しばらく黙っていた。
黙っていたのは、驚いたからではない。十年、誰も聞かなかったことを、いま聞かれたからである。
「口に出したな」
「はい」
「不敬じゃ」
「存じております」
「主上は、御存命じゃ」
「御存命のうちに支度をせねば、御譲位は挙がりませぬ」
実香は、笑った。笑ったのは、たぶん七年ぶりである。
「そなた、それを禁裏で言うたら、首が飛ぶぞ」
「禁裏では申しませぬ」
「わしのところで申すか」
「大殿のところでしか、申せませぬ」
実香は、手を叩いた。取次が来た。
「奥の、桐の箱を持て」
取次が困った顔をした。奥に桐の箱がいくつあるのか、この屋敷の者は誰も知らない。
実香は舌打ちをした。
「北の押入の、下じゃ。九つある。全部持て」
運ばれてきたのは、冊子だった。
九冊。表紙は焼けたように黄ばんでいる。
実香は、いちばん上の一冊を取り、河鰭のほうへ押した。
表に、こうあった。
天文五年御即位実録
——省きたる儀、ならびに省きたる次第
河鰭は、その表紙を見たまま動かなかった。
「読め」
「……大殿。これは」
「読めと申しておる」
河鰭が、開いた。開いて、一枚めくって、それから顔を上げた。
「十九年、書いておった」
実香は、そう言った。
「あの御即位はな、挙がった。挙がったが、挙がった通りに挙げたわけではない」
「はい」
「銭がなかった。物もなかった。役の家が半分いなかった。じゃから、省いた。省いて、代わりのもので埋めた。埋めて、挙げた」
実香は、そこで少し息を継いだ。八十八の息である。
「挙げたあと、誰も、何を省いたかを書かなんだ。書けばな、省いたことが残る。残れば、あの御即位は正しくなかったことになる」
「……大殿は、書かれました」
「書いた」
「なぜ、にございます」
実香は、河鰭を見た。
「次があるからじゃ」
九冊が、畳の上に並んでいる。実香は、そのうちの一冊を指した。
「次に挙げる者は、また銭がない。また省く。そのとき、前に何をどう省いて、それでも挙がったかが分かっておれば、二十一年も十年も待たずに済む」
「はい」
「わしは、それを十九年書いた。書いて、渡す相手がおらなんだ」
実香は、指を折った。
「山科の小せがれは、三年に一度来た。銭の巻だけ写して、帰りよる」
「近衛からも人が来た。あれは、格しか見ぬ」
そこで、一度、息を継いだ。
「わしの息子は、見に来なんだ」
河鰭は、答えなかった。
実香は、それでよいと思った。ここで気の利いたことを言う男なら、九冊はやらぬ。
「持って帰れ」
「大殿」
「持って帰れと申しておる。わしは九十に手が届く。次はない」
河鰭が、九冊を包み始めた。手が、少し遅い。
実香は、それを見ながら、聞いた。
「そなた、いくつになった」
「二十一にございます」
「父御が死んだ歳まで、あと十四年じゃな」
河鰭の手が、止まった。止まって、また動いた。
実香は、それ以上何も言わなかった。
言うことは、九冊に全部書いてある。十九年かけて書いた。読む者が現れるまで、十九年かかった。
河鰭が去ったあと、実香は北の押入を見に行かせた。何も残っていない、と取次が言った。
「そうか」
実香は、久しぶりに膳を全部食べた。
弘治二年(1556年) 九月〜十月 京 河鰭邸 河鰭実初
九冊を読み終えるのに、十九日かかった。
一の巻から三の巻まで、省いた儀。二十七ある。
二十七のうち、十一は代わりのもので埋めてある。埋め方まで書いてある。屏風を新調できなかったので、内蔵寮の古いものを裏返して立てた。舞人の装束が揃わなかったので、舞を一つ省いた。省いた舞の名まで、書いてある。
実初は、そこを二度読んだ。
「省いた」とだけ書けば、後から同じ舞を省く者が出る。だが、なぜ省いたかまで分かれば、同じ理由でなければ省かないという選び方ができる。
実香は、欠けたものだけを書いたのではない。欠けたとき、何で埋めれば儀が立つのかを書いていた。
四の巻と五の巻が、費目。何に幾ら要ったか。要ったが出せなかったものが、どこへ回されたか。
六の巻が、役と家。この家でなければならぬ役が、十一。
七の巻が、日程。践祚から即位まで、最短で六十日。実香は、そこに小さく註を入れていた。
六十日は、物が揃うておる場合なり。
物なくば、揃うるに要する日を足すべし。
実初は、その註をしばらく見ていた。
六十日。数字だけなら、短い。
だが、その六十日は、物も人もすでに揃っていることを前提にした日数だった。物がなければ、作る日を足す。人がいなければ、呼ぶ日を足す。
前の御即位が十年遅れたのは、式そのものに十年かかったのではない。
六十日を始めるところまで、行けなかった。
八の巻は、順である。何を先にして何を後にするか。実初は、この巻をいちばん長く読んだ。
物も人も足りないなら、全部を同時には揃えられない。先に揃えるものを決め、後へ回せるものを分ける。それだけで、待つ日数が変わる。
順は、故実ではない。時間である。
去年、作り手の時間に値がつくことを知った。ここでは、順そのものに日がついていた。
九の巻に、表題がなかった。
開いて、実初は手を止めた。
帳外である。
天文五年の御即位で、どこから幾ら出て、それが帳のどこにも載っていないか。名前が並んでいる。出した側の名と、受けた側の名と、額。載せなかった理由まで書いてある。
二枚目に、河鰭季富とあった。額と、日付と、載せなかった理由が並んでいる。
実初は、九の巻を閉じた。閉じてから、また開いた。
額は、十年前に自分で足した。足して、写しには書かなかった。
書かなかったものが、他人の筆で書いてある。
二十年、誰にも読まれずに、押入の下にあった。
三条実香は、これを十九年、押入の下に置いていた。
読みながら、実初は何度か、あの日の言葉に戻った。
わしの息子は、見に来なんだ。
実初は、そこで筆を置いた。置いて、しばらく置いたままにした。
公頼は、周防で死んだ。死ぬ前の九年、父の屋敷へ行っていない。行かなかった理由を、実初は知っている。「外された九年」が、あの人の帳に載っていたからである。
載っていた項目のせいで、公頼は九冊を見なかった。
見なかったから、いま実初がここにいる。
それを都合がいいと思ってはならない、と実初は思った。
思ったが、思っただけでは足りない気がして、九の巻の裏に日付を書いた。弘治二年九月二十九日。読み終えた日である。
いつ手に入れたかを残しておかねば、後から、初めから自分のものだったような顔ができてしまう。
十月に入って、実初は扱いを決めた。三つに分けた。
六の巻と七の巻と八の巻——役と、日程と、順。これは写す。
堂々と写して、家の書庫に置く。故実の書として、誰に見られても構わない。むしろ見られたほうがいい。河鰭が有職の家であることの、これが証しになる。
一から五の巻は、写さない。頭に入れる。
省いた儀の一覧は、書き写した瞬間から危険物になる。「前の御即位は、これだけ省いて挙げた」という紙が河鰭邸から出れば、当代の御即位を軽んじたことになる。持っているだけで足りる。持っていることを、誰にも知られなければよい。
九の巻は、姉に預けた。
姉が中を見れば、自分の名を見る。見ないでほしいと言えば、見ない人である。
それを承知で、預ける。
その晩、実初は母屋へ行った。清子は、まだ起きていた。
「姉上。これを」
清子は、包みを受け取ってから、聞いた。
「中を、見てもよろしいのですか」
「見ないでいただきとうございます」
「では、なぜわたくしに」
「私が持っておりますと、私が使いとうなります」
清子は、包みを膝に置いた。置いたまま、しばらく動かさなかった。
「実初」
「はい」
「これは、預かるのですか。隠すのですか」
実初は、答えるのに時間をかけた。かけたが、うまい言い方は出てこなかった。
「……隠します」
「そうですか」
「申し訳ございませぬ」
「詫びなくてよろしい」
清子は、包みを引き寄せた。
「詫びられると、わたくしが、悪いものを預かった気になります」
実初は、頭を下げた。
「一つだけ、聞きます」
姉が言った。
「あなたは、いま何の支度をしているのですか」
実初は、顔を上げなかった。
「主上が、お待ちになっているものにございます」
「口に出さぬのですね」
「はい」
「では、わたくしも聞きませぬ」
清子は、包みを抱えて立ち上がった。立ち上がってから、思い出したように振り返った。
「実初。備えていると知られれば、不敬です」
「存じております」
「知られぬまま挙がらなければ、あなたは十九年、押入の下に紙を置いた人になります」
実初は、そのとき初めて姉を見た。
清子は、それ以上何も言わずに出ていった。
書庫に戻って、実初は六の巻を開いた。
役が十一。名を書き出し始めて、四つ目で手が止まった。
この家でなければならぬ役のうち、四つの家が、いま京にいない。
弘治二年(1556年) 十二月 安芸 吉田郡山 毛利元就
京からの荷が着いたのは、防長の始末で忙殺されている最中のことであった。
元就は開けさせずに三日置いた。
急ぎの荷でないものを急いで開けると、こちらが待っていたと相手に知れる。相手は京にいて荷の開いた日など知りようがないが、元就は五十年そうやってきたのでいまさら変えなかった。
四日目の夜に開けた。
中身は写しである。天文五年の御即位に関する条を、大内家の分だけ抜いてある。額が入っている。日付も入っている。誰が受け取ったかも入っている。
元就は端から終いまで読んだ。読み終えて、もう一度初めから読んだ。
二度目に読んだのは、探しものが見つからなかったからである。
註がない。
一行もない。この条はこういう趣旨であるとか、大内家はかくのごとく勤めたとか、貴家におかれては何々を継がるべきであるとか、そういうものが一つも書かれていない。
数字と名と日付だけが並んでいる。
元就は写しを膝に置いた。
文を出したのは四月である。額を聞いた。
あのときは値踏みのつもりであった。京の公家が銭に困っているのは知れきったことで、額さえ分かれば、払うか払わぬかを決めればよいと思っていた。
返ってきたのは、額ではなかった。額を書かぬ返事が来た。
あれで元就は考えを変えた。
額を書かぬ者は、額を欲しがっていない。ならば何を欲しがっているのかと考えて、半年かかって、こちらの欲しいものが額ではないことに気づいた。
欲しいのは根拠である。
大内を討った。討った家が、大内の勤めを継ぐ。それを簒奪と呼ぶか継承と呼ぶかは、どこかに書いてあるかどうかで決まる。
書いてあるものが要る。京にしかない。
だから二度目の文で写しを求めた。
求めた側は、教えを乞うたことになる。乞われた側は、たいてい教えたがる。教えるついでに、こう継ぐべきである、当家がお取次いたす、と書いてくる。書いてくれば、こちらは京の一家に首を預けることになる。
そう来ると思っていた。
来なかった。
元就は写しの最後の一行を、指で押さえた。
他に写し取り申さず候。
これが値である、と元就は思った。
額はどこにも書いていないが、この一行が額である。
他に渡していない。すなわちこの根拠は当家だけのものである。だが渡さぬとも書いていない。今後も渡さぬという約束はしていない。
約束していないから、こちらは繋いでおかねばならぬ。
うまい、と元就は思った。うまいと思ってから、それを認めた自分に少し腹が立った。
翌朝、隆元を呼んだ。三十四になる嫡男である。
「読め」
隆元は座り直して読んだ。読み終えるまで四半刻かかった。元就は待った。
「父上。これは」
「京じゃ」
「額が、書いてございませぬ」
「うむ」
「では、いかほどお出しになります」
元就は答えなかった。答えずに、写しを指した。
「隆元。註がないのが分かるか」
「註、にございますか」
「一行もない。この条はこう読め、と書いておらぬ」
隆元は、しばらく写しを見ていた。それから、こう言った。
「不親切にございますな」
元就は、そこで初めて笑った。
「そう思うか」
「思います。せめて、当家はこう勤めよ、と添えてくれてもよろしゅうございましょう」
「添えられたら、そなたはどう思う」
隆元は、口を開いて、閉じた。それから、もう一度開いた。
「……当家の勤め方を、京に決められることになります」
「そうじゃ」
元就は写しを巻き、紐をかけた。
「教えようとせぬ者は、信じてよい」
そう言ってから、それだけでは足りぬと思って、足した。
「正しくはな、教えようとせぬ者は、こちらを子供扱いしておらぬということじゃ。子供扱いせぬ者は、あとで裏切っても筋を立ててくる。筋の立つ相手は、読める。読める相手は、こわくない」
隆元は、うなずいた。うなずいてから、聞いた。
「では、お出しになりますか」
「出す。じゃが、まだ出さぬ」
「なぜにございます」
「防長が静まっておらぬ」
元就は立ち上がった。
「静まらぬうちに京へ銭を送れば、当家は防長を取る前に大内の跡目を名乗ったことになる。名乗ってから取れば、取り損ねたときに恥が残る」
隆元が、また何か言いかけた。元就は手を上げて止めた。
この息子は真面目で、真面目な者は、聞かれてもいないことまで確かめたがる。元就は書状で説くほうが早いと知っている。あとで書くことにした。
その日の返書は、三行にした。
貴札、ならびに御記の写し、慥かに拝受仕り候。
防長、いまだ静まり申さず候。
平らぎ候はば、あらためて申し入るべく候。
額は書かなかった。時日も書かなかった。
書かずに出せば、向こうは待つ。待たせている間、こちらは京に借りがある。借りのある側が、次に何を言われるかは分かっている。
分かっていて、元就はそれでよいと思った。
二十年ぶりに、京の話を面倒だと思わなかった。




