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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第二部『帳』

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執奏

天文二十三年(1554年) 十月  近江高島郡 朽木谷  近衛稙家


 朽木谷に来て一年二月。前関白・近衛稙家は五十三になった。上様の伯父として随ったが、五十を越えた身には谷が寒い。


 十九の嫡男・晴嗣は京に残らせ、この三月に関白となった。近衛家を、上様のそばと京の関白職の両方に置く。五百年、そうして家を残してきた。


 そのことを恥じてはいない。ただ、自分は上様のために来たのか、子を京へ残すために出たのか。両方であることが、居心地悪く残った。


 十月、京から三好の使いが来た。断ろうとして名を聞くと、「河鰭侍従実初」と言う。六年前、天文十七年の山科荘で覚えた名だった。


 幕府に家領を押さえられた言継が坂本まで来たため、稙家は取り消させた。そのとき三条公頼と奥の内侍からも同じ話が上がり、両方に口が利く者がいると知った。


 当時十三だった河鰭家の当主を疑い、まさかと思って忘れた。


「通せ」


 稙家は、そう言った。


 入ってきたのは正五位下・侍従、十九の男だった。まだ若いが童ではない。座り方は、いまどきの者が使わぬ古い型である。稙家は、用件より先に山科荘のことを出した。


「三条どのが動かれたが、動かしたのは貴殿じゃな」


 河鰭の指が止まった。


「……恐れ入りまする」


 とだけ答えた。


「なにゆえ分かる、という顔をしておられる。当時、貴殿は十三じゃ。三条どのが、あのような細かい筋を思いつく御方ではない。それだけじゃ」


 河鰭は頭を下げた。


「恐れ入りまする」


 稙家は待った。「あのとき私が動きました」と言えば貸しになり、六年言わなかった貸しならなお重い。


 河鰭は言わなかった。


「して、用は」


「除目にございます」


「動いておろう。関白の晴嗣も京におる。何が困る」


 河鰭は頭を下げた。


「当家の名が、載りませぬ」


 当然だった。河鰭は表の座が十年空いて列から落ち、烏帽子親の三条公頼は周防で死んだ。三好と取引し、三年前にはこの谷で将軍にも会うておる。


 だから、誰も推さぬ。


「侍従殿。わしに推せと申されるか」


 河鰭は首を振った。


「いいえ」


 推せと言わぬのか。


「では、何じゃ」


 河鰭が出したのは、『位官相当沿革』巻三の写しだった。稙家は頁を繰り、一箇所で手を止めた。


  是正されたる例には、いづれも執奏の者あり。

  放置されたる例には、これを見ず。


 稙家は三度読んだ。「執奏の者がいた」「いなかった」と、事実を並べただけで、何も書いておらぬ。


 だが、顔を上げて言った。


「侍従殿。これは、わしを責めておるな」


「五百年、除目の順を支えてきたのは摂関家じゃ。執奏の者がおる者は上がり、おらぬ者は上がらぬ。わしも、それを決めてきた一人じゃ」


 河鰭は、しばらく黙った。


「近衛さま。責めてはおりませぬ」


「では、何じゃ」


「お報せに参りました」


 稙家は少し笑った。


「報せ、か」


「はい」


「報せて、どうする」


 河鰭は顔を上げた。


「近衛さま。執奏の者を、要らなくしとうございます」


 いま、何と言うた。


「要らなく、とな」


「はい」


「執奏の者がおらねば、上がらぬのが道理じゃ」


「その道理を、変えとうございます」


「変えて、どうする」


「滞った年数で順を定め、長く止まっておる者から進めまする」


 稙家は背中が冷えるのを感じた。順を年数で決めれば摂関家が選ぶ余地はなくなり、近衛に頼む者が減る。近衛の値を下げる話だった。


「侍従殿。それは、わしの家の値を下げる話じゃ」


「さようにございます」


 河鰭は即座に答えた。認めるか。


「認めて、なぜ言いに来る」


 河鰭は頭を下げた。


「言わずにやれば、後で近衛さまが知られます。知られたときに、隠したことになりまする」


 山科荘では自分の名を出さず、今度は近衛家の値を下げる話を、その本人へ先に言いに来た。稙家は朽木の庭を見た。


 自分が京へ戻れば息子の沙汰へ口を挟み、河鰭は上がらない。戻らなければ、この形が通るかもしれない。近衛家のためなら、答えは戻ることだった。


 そこへ、疲れた顔の谷主・朽木稙綱が入ってきた。


「河鰭侍従殿。よう参られた」


「お世話になっております」


「いや」


 稙綱は座った。


「七年前の御文に、『父の代よりの御縁』とござった。伺いたいことがある」


 稙家は河鰭を見た。顔は動かぬが、膝の上で指が一度だけ動いた。


「どの縁でござったか」


 長い沈黙のあと、河鰭が少し低い声で言った。


「ございませぬ」


「ほう」


「父の記に朽木の御名は一度も出ておりませぬ。三年かけて全部読みました。偽りにございます」


 河鰭は頭を下げた。


「存じておりました。四年、あの文を懐に入れ、返事を出さなんだ。縁が無いからでござる。じゃが、捨てればそれきりじゃ。懐に入れておけば、いつか要るときが来るかもしれぬ」


 河鰭が顔を上げた。稙綱は続けた。


「そして、その時が来た。三年前、上様がこの谷に入られたとき、儀を知る者が一人もおらなんだ。そこで思い出したのが、あの文でござる」


 稙綱は笑わず、河鰭を見た。


「わしも、書いたものに助けられた口でな。無い縁を書かれ、その無い縁がいま役に立っておる」


「ゆえに、無かったことにはいたさぬ。縁が無かったことも、貴殿があったと書いたことも、覚えておく」


 河鰭が頭を下げると、稙家は筆を取った。


「推す、とは書かぬ」


「……は」


「わしが推せば、それは執奏じゃ。執奏を要らなくする話に執奏を出しては、話が合わぬ」


 河鰭が顔を上げると、稙家は続けた。


「代わりに、こう書く」


  滞任是正の儀、先例を勘へて奏せらるべし。

  順の儀、関白の沙汰に委ぬべし。


 稙家は紙を河鰭へ押した。


「誰を奏せとは書かず、順は関白へ委ねた」


 河鰭は読み、しばらく動かなかった。


「近衛さま。『関白の沙汰に委ぬべし』にございます」


「さよう」


「大殿御自身は、決められませぬか」


「決めぬ。いまの関白は晴嗣じゃ。わしが決めれば、あれは関白ではなく、わしの子になる」


 稙家は続けた。


「京に決められる者は一人おる。十九の関白じゃ。あれが、わしの息子としてではなく関白として決めねばならぬ」


「あれの前に空白を置いた。空いておるところには力か先例が入る。京の力は三好にあるが、三好は公家の席次を決められぬ。晴嗣が、どちらを関白の拠り所にするかじゃ」


 稙家は筆を置いた。


 河鰭が立ち上がると、稙家は呼び止めた。


「侍従殿。わしが京に戻れば、この一筆を引っ込めるかもしれぬぞ」


 河鰭は頭を下げた。


「存じております」


「知っておって、やるか」


「はい」


「なにゆえじゃ」


 河鰭は一度だけ顔を上げた。


「消される前に書いてしまえば、消すには誰かが『消せ』と言わねばなりませぬ」


 稙家は声を出して笑った。


「……侍従殿。貴殿、恐ろしいのう」


 河鰭は答えず、頭を下げて出ていった。稙家は二行を読み返した。順は決めていない。決める者だけを書いた。


 五十三。あと何年あるかは分からない。死ねば、この一筆は近衛稙家の筆として残る。


 稙家は、朽木の庭を見た。


天文二十三年(1554年) 十月  近江高島郡 朽木谷  足利義輝


 二月、義藤から義輝へ名を変えた。理由はいくつもあるが、義輝にとっては、負けた名を捨てるためである。


 義藤の名で二度京を追われ、二度目には霊山城が焼けるのを山道から見た。


 朽木の朝は寒い。明け六つに起き、庭で木刀を千回振る。身体が覚えているから、もう数えない。後ろには、誰もいない。


 三年前、書く者を寄越せと命じた。寄越されぬまま、三年になる。


 最初の一年は腹が立った。木刀も飯も文も、何でも書かれる。二年目に聞いた。


「何を書いておる」


「上様が、なさったことにございます」


「それだけか」


「はい」


「思うたことは」


「書きませぬ」


 義輝は、筆を取り上げた。読んだ。


  十月三日。晴。

  朝、庭にて木刀。

  越後長尾へ、御書。

  昼、朽木蔵人と、若狭の道の話。

  夕、御書一通。宛先、聞かず。


 何も書いておらぬと思い、返した。三年目の春、一年ぶんを通して読むと半日かかった。


 越後、甲斐、相模、豊後、安芸へ二百通を超える文を出し、諸国の争いを取り持っている。成らなかったものほど忘れ、何もしていないと思っていた。


 判は京から出て、訴えも京へ行き、銭は六角が出す。それでも帳には、この谷で義輝がしたことが並んでいた。自分のことを、いちばん知らなかった。


 十月、河鰭が三年ぶりに来た。背が伸び、三年前の子供の顔ではない。十九。同い年である。


「河鰭。そなた、位と官は」


「正五位下・侍従にございます」


 義輝は少し目を細めた。三年で位は上がり、官は動いていない。


「追い越しておるな」


 河鰭は答えず、頭を下げた。


「御改名、恐悦にございまする。義輝さま、と」


「さよう」


 義輝は尋ねた。


「河鰭。名を変えれば、前の名は消えるか」


 河鰭は少し間を置いた。


「消えませぬ」


「なにゆえじゃ」


「義藤さまの御名で出された御書が諸国にございます。あれは残りまする」


 義輝は顔を上げた。


「……では、義藤も残るか」


「残りまする」


 負けた名も残るのか。義輝はしばらく黙り、三年胸に置いてきたことを出した。


「河鰭。伊勢は、そなたのおかげと申したそうじゃ」


 河鰭は動かなかった。知っておるな。知っていて、言い訳をしない。


「三年前、伊勢が三好方へ移った。『河鰭侍従のおかげじゃ』と申しておったそうな。それを聞いてから二年、そなたに文を出さなんだ」


 義輝は長い沈黙を待った。「そのつもりはございませんでした」と言うこともできる。


 河鰭は言わなかった。


「繋いだのは、私にございます」


「渡ったのは伊勢じゃ。そなたが渡らせたのではない」


「渡れる形に、いたしました」


 義輝は、いつでも取れるよう部屋の隅に立てた木刀を見た。


「河鰭。二年、腹が立っておった。三年前、この谷でそなたは『書かねば、残りませぬ』と申した。書く者を寄越せと命じたな。寄越さなんだ。その同じ年に、伊勢を持って行かれた」


 義輝は河鰭を見た。


「この男は、両方に置いておる。そう思うた」


 河鰭はしばらく黙り、頭を下げた。


「そのとおりにございます。当家は有職の家ゆえ、勝つ側にも負ける側にも儀を売り、両方に置いております」


「それが伊勢さまを渡らせました。言い訳はございませぬ」


 義輝は短く笑った。自分の耳にも乾いて聞こえた。


「河鰭。そなた、二年、それを抱えておったな」


 河鰭は答えなかった。


「わしも二年、腹を立てておった。だが、そなたの申したことは捨てなんだ。書く者は、まだ来ぬ。来るまで待つ。それが、わしの返事じゃ」


 河鰭が除目と近衛の大殿の一筆について話し終えると、義輝は聞いた。


「河鰭。わしは、いつ帰れる。言え。嘘は、要らぬ」


 河鰭は一度頭を下げ、顔を上げた。


「当分は帰れませぬ」


「なにゆえじゃ」


「三好は上様を追い出したまま京を治めております。それでは叛臣ゆえ、いずれ必ずお迎えに参ります」


「では、なぜ当分は帰れぬ」


 河鰭ははっきり言った。


「迎えに来られる形を、まだ作っておらぬからにございます」


「形、とな」


「はい」


「三好は上様を軽んじてはおりませぬ。それを伝える作法を持たぬだけにございます。去年七月の風流納めにも、上様をお誘い申し上げました」


 義輝は顔を上げた。霊山城へ「共に踊りを見ましょう」と来た、あの文か。返事は出さなんだ。


「あれは、そなたか」


「私が、そう申し上げました」


「なぜじゃ」


「誘ったことが残りまするゆえ」


 あの文を、わしは捨てた。向こうの帳には「誘った。返事なし」と残っている。


「河鰭。そなたの作る形は腹が立つ。わしが動けぬあいだに、道だけ先に書いておる。褒めてはおらぬぞ」


「存じております」


 夕刻、義輝は立ち上がった。


「河鰭。そなたは京へ帰れ。今日中に発て」


「上様――」


「明日おれば随伴じゃ。三好は、随伴した者の知行を没収すると申しておる。そなたは御料所を三か所戻した男じゃ。あれを失うわけにはいかぬ」


 義輝は河鰭を見た。


「わしを迎えに来い」


「……はい」


「いつでもよい。じゃが、わしが死ぬ前にしてくれ」


 河鰭は頭を下げ、しばらく上げなかった。


 夕刻、義輝は庭で木刀を振った。後ろで筆の音がする。振り返らなかった。


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