↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第二部『帳』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/41

一枚

天文二十三年(1554年) 四月  京  山科邸  河鰭実初


「山科さま。御譲位には、幾ら要りまする」


 言継は薬研を止め、しばらくして答えた。


「……誰も、数えたことがない」


 実初は聞き返した。


「……天文五年の御即位は」


「あれは即位じゃ。譲位ではない」


「では、御即位の額は」


「それも、正しくは残っておらぬ」


 言継は算木の筒を引き寄せた。


「帳に載った分はある。載らなかった分もある。そなたの家とうちの分じゃ」


 いちばん近い先例が不完全で、父がその原因だった。実初は三月かけ、天文五年の請取四通、九月十一日の置文、父の日記十一箱、奥にいた姉の記憶を突き合わせた。


 日記は八つの年から三年かけて読み、どこに何があるかも覚えている。だが、以前探したのは父が何を隠したかで、今度は幾ら使ったかだった。同じ二月の記が、違って見えた。


  白絹、いまだ来たらず。


 以前は遅れたとだけ読んだ。その脇に、小さな字がある。


  他家より借る。礼、別に遣はす。


 借りた物も、その礼も、返すときの仕立ても請取には載らない。帳の外に費えが三つ増えた。別の日には、こうあった。


  人数、旧例に及ばず。


 それだけで、何人足りず、何人なら旧例なのかは書いていない。実初は、その紙を言継のところへ持って行った。


「山科さま。旧例の人数を、教えていただきとうございます」


 言継はすぐには答えず、応仁より前と明応のころの儀式書を一冊ずつ出した。人数が違った。


「どちらが、旧例にございます」


「どちらもじゃ」


 実初は、初めて手を止めた。


「減った後の例も、旧例と呼びまするか」


「呼ぶ。一度省いたものを次も省けば、それが例になる。三度省けば、誰も省いたとは言わぬ」


 実初は二冊を並べ、古いほうとの差と明応のほうとの差を別々に足した。二通りの額が出た。どちらを採るかで、御即位の費えが変わる。


「山科さま。多いほうを採りまする」


「なにゆえじゃ」


「少ないほうで集めて足りなければ、省くよりなくなります。多いほうで集めて余れば、戻せまする」


 言継は何も言わず、古いほうの儀式書を実初の前へ押した。


*


 姉は、額ではなく物と身体の動きを覚えていた。


「白い裂が朝まで届きませなんだ。届いたものも、すべては使いませなんだ」


「なにゆえです」


「次の儀に、残すためです」


 実初は筆を止めた。


「足りなかったのではなく、使わなかった」


「足りぬと分かっておりましたゆえ」


 姉は、調度のことも覚えていた。運ぶはずの一具が届かず、女房二人で持つ品を一人で運んだ。列の間が空くため、歩みを遅くした。


「誰が、そう決めたのです」


「存じませぬ。記にも残っておりませぬ。残すことではなかったのでしょう」


 姉は少し考え、言い直した。


「いいえ。残せることでは、なかったのでしょう」


 実初は、調度一つの値、運ぶ女房一人の装束、列を旧例どおりにする人数まで書いた。請取に載った額、帳の外で払った額、足りずに省いた儀の額を足すと、帳に残る額の倍近くなった。


 言継はそれを長く見て、こう言った。


「……侍従どの」


「はい」


「これは御即位だけじゃな。御譲位は別に要り、院の御所も要る」


「存じております」


 言継は指を折った。


「そなた、それも数えたか」


 実初は二枚目を出した。


「院の御所は修理でよろしゅうございます。新造は要りませぬ。かつて修理で済ませた例がございました」


 言継は少し笑った。


「故実の家じゃな。『本来はこうあるべき』ではなく、『かつてこう済ませた』を探す」


 実初は、三枚目を出した。


  御譲位・御即位、合はせて要する額

  現在の禁裏の年入りにて、十九年。


 言継はそれを見て動かなくなった。


「……十九年。主上は、五十九にあらせられる」


「存じております」


 薬研も算木も音を立てない。実初が言った。


「それゆえ、数えたのでございます。幾らかを知らねば、集めようがございませぬ」


「十九年と分かって、どうする」


「集めまする」


「十九年ぶんを、か」


「はい」


 言継はしばらく実初を見た。


「わしは二十年集めてきた。それでも、年入りを元に戻すこともできなんだ」


 実初は頭を下げた。


「十九年は、年入りで割った数にございます。年入りで集めるつもりはございませぬ」


 言継が顔を上げると、実初は四枚目の白紙を出した。


「この額を一度に出せる者を探しまする」


「そのような者は、おらぬ」


「一人ではおりませぬ。何人かなら、おりまする」


 言継は算木を並べ直し、しばらくして言った。


「三好は出す。本願寺は桁が違うが、あそこは動かぬ。周防は死んだ。いちばん大きい客が、三年前になくなった」


 実初はうなずいた。


「大内さまは十五年買い続けられ、その銭が消えました。では、次に買う者が必ず出まする」


「なにゆえ、そう言える」


「先例を、大内さまが作られましたゆえ」


 実初は、まっすぐ言った。


「西国を獲った者は必ず京に買いに来まする。買わねば、大内より下に見えるからにございます」


 言継は少し笑った。


「死んだ客が、次の客を連れてくると申すか」


「さようにございます」


 言継は四枚目の白紙を、実初のほうへ押した。


「これに、名を書け」


「まだ、書けませぬ」


「書けるようになったら、見せよ」


 実初は白紙を受け取り、頭を下げた。


 十九年。主上は五十九。時が足りない。


 しかし沙汰の前に譲位の銭を集めれば、主上に退けと催促することになる。


 帰り道で足を止めた。


 別の名目が要る。


天文二十三年(1554年) 五月  京  河鰭邸  河鰭実初


 三日で、内侍所に行き着いた。神鏡を奉安し、即位にも譲位にも関わる場所である。修理は十年以上止まり、現に傷んでいる。


 「内侍所の御修理を募る」なら、譲位とも崩御とも言わず、いま始められる。


 ただし、修理料は修理にしか使わない。装束、調度、器、楽器を修理の名で作らず、一文も別の帳へ回さない。


 内侍所が直れば次の大礼で殿舎を一から直す費えが減り、修理料の帳と、応じた者へ次の募りを届ける道が残る。大礼の銭は別に集める。


 名目は出たが、修理は始まらなかった。禁裏に出入りする大工を二人呼ぶと、一人は話を聞いただけで首を横に振った。


「内侍所は、触れませぬ」


「なにゆえです」


「御修理の沙汰が、ございませぬ」


「傷みは、ございます」


「傷んでおることと、直してよいことは、別にございます」


 実初は、答えられなかった。そのとおりである。傷んでいるから直す、で通るなら、十年前に直っている。


 もう一人は、中を見る前に聞いた。


「前の御修理の分は、納まりましたか」


「前の分」


「屋根の差し板を替えた折の、残りにございます」


 言継の帳を繰った。残っていた。銭が、ではない。未払いが、残っていた。


 十一年前。雨の入った箇所だけを塞いだ。大工には、半分しか渡っていない。残りは「後日」と書かれ、その後日は来なかった。


「山科さま。新しい御修理を募る前に、古い御修理を納めねばなりませぬ」


 言継は、帳を見た。見て、苦い顔をした。


「これを払えば、募る前に銭が尽きるぞ」


「いまは、払いませぬ」


「では、どうする」


「新しい帳の、初めに載せまする」


 実初は、新しい紙を出した。


  内侍所御修理料、初めに旧債を納むべきこと。


「河鰭が、立て替えるのではないのじゃな」


「立て替えませぬ。立て替えれば、また帳外になりまする」


 大工に、その一行を見せた。銭は、まだない。だが、十一年ぶりに、未払いが帳の先頭へ戻った。


「初めに、でございますか」


「初めに、ございます」


 大工は、ようやくうなずいた。言継が、奥へ見分の許しを求めた。修理の沙汰ではない。どこが傷んでいるか、見るだけの許しである。


 それならば、下りた。三日後、大工が二人、入った。まだ直さない。


 屋根板、柱の根、金具、雨の走った跡を先に測った。外から六か所に見えた傷みは、中へ入ると十四あった。


 大工が柱の下を指で押すと、木がわずかに沈んだ。


「ここは、表だけ替えても持ちませぬ」


 実初は傷みを帳につけた。声を掛ける先は、久秀を通す三好、商人を介して非公式に伝える尼子、由緒の教示が続く北条、そして甲斐とその縁である。


 額は書かなかった。他家の額を気にする者ほど、自分で値を決める。代わりに、こう添えた。


  帳に、載せまする。


 誰が、いつ、幾ら出したかを。


  内蔵頭の筆にて。


 六月に久秀が来た。文を読み終えるなり、額のない箇所を指で押さえた。


「侍従さま。いかほど出せばよろしゅうございまする」


「御家の御心次第にございます」


 久秀はしばらく黙った。


「それは、いちばん高くつく言い方にございまする」


 実初は、頭を下げた。


「存じております」


 久秀は、声を出して笑った。初めてであった。


「忝く存じまする。手前どもは、多く出しまする。なにゆえか、申し上げましょうか」


「うかがいます」


「主はいま御供衆、すなわち幕臣にございまする。その幕臣が上様を京から追いました。このままでは叛臣にございます」


「これを覆すには、上様がおられぬ京でも朝廷を平常に回すほかございませぬ」


 久秀は、修理の文へ目を落とした。


「それでも節会は挙がり、内侍所は直り始める。それを誰が支えたか、帳に残りまする」


 実初は頭を下げた。


 尼子には商人を通し、文を出さなかった。幕府から八か国守護を得たばかりの家に、幕府を飛ばす証拠を残させるわけにはいかない。


 商人には、これだけ言わせた。


「周防の御家は、御即位に献じて大宰大弐を得られました。いま、内侍所の御修理を募っておられます。それだけにございます」


 返事は来なかった。聞いたという事実だけでよい。


 小田原へは六年来、鎌倉北条以来の左京大夫の任官例や、武家として朝廷に列する作法を送っている。その末に一行足した。


  なほ、内侍所の御修理、諸国に募られ候。


 募っていると知らせただけで、献金は頼んでいない。


 六月の末、実初は姉に会った。


「姉上。内侍所の御修理を、募っております」


 姉は筆を止め、しばらく実初を見た。


「実初。それは、何のためですか」


 実初は答えなかった。姉が知れば、いつか口から出て催促になる。


 姉はうなずいた。


「伺いませぬ。あなたが、そう言うのでしょう」


 実初は頭を下げた。八年前、自分が言った言葉を返された。


 姉は静かに続けた。


「主上は五十九にあらせられます。私が奥に上がって二十五年。そのあいだ、御修理は一度も終わっておりませぬ」


 実初は顔を上げた。


「姉上。終わらせまする」


 姉は何も言わず、湯を注いだ。


「それは、答えになっておりますよ」


*


 七月、三好から最初の分が入った。言継は受け取ったその日に、古い帳とは別の帳を開いた。


  内侍所御修理料


 その下に、初めて名が入った。初めに、十一年前の残りを納めた。


 同じ日、北の一間だけ、御修理の沙汰が下りた。


 翌日、大工が来た。内侍所の北の端で、傷んだ屋根板を一枚、外した。一枚だけである。


 下から、黒くなった木が出た。乾いたところは白い。雨を吸ったところは、墨を引いたように筋になっていた。


 新しい板が、脇に置かれた。まだ打たれていない。木の匂いだけが、古い建物の中に入った。


 実初は、離れたところからそれを見た。


 神鏡は、見えない。見てはならない。見えたのは、外された一枚と、新しい一枚だけである。


 始まった。


 大礼は、まだ口にしていない。御譲位も、口にしていない。


 だが、板は一枚、外れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。