一枚
天文二十三年(1554年) 四月 京 山科邸 河鰭実初
「山科さま。御譲位には、幾ら要りまする」
言継は薬研を止め、しばらくして答えた。
「……誰も、数えたことがない」
実初は聞き返した。
「……天文五年の御即位は」
「あれは即位じゃ。譲位ではない」
「では、御即位の額は」
「それも、正しくは残っておらぬ」
言継は算木の筒を引き寄せた。
「帳に載った分はある。載らなかった分もある。そなたの家とうちの分じゃ」
いちばん近い先例が不完全で、父がその原因だった。実初は三月かけ、天文五年の請取四通、九月十一日の置文、父の日記十一箱、奥にいた姉の記憶を突き合わせた。
日記は八つの年から三年かけて読み、どこに何があるかも覚えている。だが、以前探したのは父が何を隠したかで、今度は幾ら使ったかだった。同じ二月の記が、違って見えた。
白絹、いまだ来たらず。
以前は遅れたとだけ読んだ。その脇に、小さな字がある。
他家より借る。礼、別に遣はす。
借りた物も、その礼も、返すときの仕立ても請取には載らない。帳の外に費えが三つ増えた。別の日には、こうあった。
人数、旧例に及ばず。
それだけで、何人足りず、何人なら旧例なのかは書いていない。実初は、その紙を言継のところへ持って行った。
「山科さま。旧例の人数を、教えていただきとうございます」
言継はすぐには答えず、応仁より前と明応のころの儀式書を一冊ずつ出した。人数が違った。
「どちらが、旧例にございます」
「どちらもじゃ」
実初は、初めて手を止めた。
「減った後の例も、旧例と呼びまするか」
「呼ぶ。一度省いたものを次も省けば、それが例になる。三度省けば、誰も省いたとは言わぬ」
実初は二冊を並べ、古いほうとの差と明応のほうとの差を別々に足した。二通りの額が出た。どちらを採るかで、御即位の費えが変わる。
「山科さま。多いほうを採りまする」
「なにゆえじゃ」
「少ないほうで集めて足りなければ、省くよりなくなります。多いほうで集めて余れば、戻せまする」
言継は何も言わず、古いほうの儀式書を実初の前へ押した。
*
姉は、額ではなく物と身体の動きを覚えていた。
「白い裂が朝まで届きませなんだ。届いたものも、すべては使いませなんだ」
「なにゆえです」
「次の儀に、残すためです」
実初は筆を止めた。
「足りなかったのではなく、使わなかった」
「足りぬと分かっておりましたゆえ」
姉は、調度のことも覚えていた。運ぶはずの一具が届かず、女房二人で持つ品を一人で運んだ。列の間が空くため、歩みを遅くした。
「誰が、そう決めたのです」
「存じませぬ。記にも残っておりませぬ。残すことではなかったのでしょう」
姉は少し考え、言い直した。
「いいえ。残せることでは、なかったのでしょう」
実初は、調度一つの値、運ぶ女房一人の装束、列を旧例どおりにする人数まで書いた。請取に載った額、帳の外で払った額、足りずに省いた儀の額を足すと、帳に残る額の倍近くなった。
言継はそれを長く見て、こう言った。
「……侍従どの」
「はい」
「これは御即位だけじゃな。御譲位は別に要り、院の御所も要る」
「存じております」
言継は指を折った。
「そなた、それも数えたか」
実初は二枚目を出した。
「院の御所は修理でよろしゅうございます。新造は要りませぬ。かつて修理で済ませた例がございました」
言継は少し笑った。
「故実の家じゃな。『本来はこうあるべき』ではなく、『かつてこう済ませた』を探す」
実初は、三枚目を出した。
御譲位・御即位、合はせて要する額
現在の禁裏の年入りにて、十九年。
言継はそれを見て動かなくなった。
「……十九年。主上は、五十九にあらせられる」
「存じております」
薬研も算木も音を立てない。実初が言った。
「それゆえ、数えたのでございます。幾らかを知らねば、集めようがございませぬ」
「十九年と分かって、どうする」
「集めまする」
「十九年ぶんを、か」
「はい」
言継はしばらく実初を見た。
「わしは二十年集めてきた。それでも、年入りを元に戻すこともできなんだ」
実初は頭を下げた。
「十九年は、年入りで割った数にございます。年入りで集めるつもりはございませぬ」
言継が顔を上げると、実初は四枚目の白紙を出した。
「この額を一度に出せる者を探しまする」
「そのような者は、おらぬ」
「一人ではおりませぬ。何人かなら、おりまする」
言継は算木を並べ直し、しばらくして言った。
「三好は出す。本願寺は桁が違うが、あそこは動かぬ。周防は死んだ。いちばん大きい客が、三年前になくなった」
実初はうなずいた。
「大内さまは十五年買い続けられ、その銭が消えました。では、次に買う者が必ず出まする」
「なにゆえ、そう言える」
「先例を、大内さまが作られましたゆえ」
実初は、まっすぐ言った。
「西国を獲った者は必ず京に買いに来まする。買わねば、大内より下に見えるからにございます」
言継は少し笑った。
「死んだ客が、次の客を連れてくると申すか」
「さようにございます」
言継は四枚目の白紙を、実初のほうへ押した。
「これに、名を書け」
「まだ、書けませぬ」
「書けるようになったら、見せよ」
実初は白紙を受け取り、頭を下げた。
十九年。主上は五十九。時が足りない。
しかし沙汰の前に譲位の銭を集めれば、主上に退けと催促することになる。
帰り道で足を止めた。
別の名目が要る。
天文二十三年(1554年) 五月 京 河鰭邸 河鰭実初
三日で、内侍所に行き着いた。神鏡を奉安し、即位にも譲位にも関わる場所である。修理は十年以上止まり、現に傷んでいる。
「内侍所の御修理を募る」なら、譲位とも崩御とも言わず、いま始められる。
ただし、修理料は修理にしか使わない。装束、調度、器、楽器を修理の名で作らず、一文も別の帳へ回さない。
内侍所が直れば次の大礼で殿舎を一から直す費えが減り、修理料の帳と、応じた者へ次の募りを届ける道が残る。大礼の銭は別に集める。
名目は出たが、修理は始まらなかった。禁裏に出入りする大工を二人呼ぶと、一人は話を聞いただけで首を横に振った。
「内侍所は、触れませぬ」
「なにゆえです」
「御修理の沙汰が、ございませぬ」
「傷みは、ございます」
「傷んでおることと、直してよいことは、別にございます」
実初は、答えられなかった。そのとおりである。傷んでいるから直す、で通るなら、十年前に直っている。
もう一人は、中を見る前に聞いた。
「前の御修理の分は、納まりましたか」
「前の分」
「屋根の差し板を替えた折の、残りにございます」
言継の帳を繰った。残っていた。銭が、ではない。未払いが、残っていた。
十一年前。雨の入った箇所だけを塞いだ。大工には、半分しか渡っていない。残りは「後日」と書かれ、その後日は来なかった。
「山科さま。新しい御修理を募る前に、古い御修理を納めねばなりませぬ」
言継は、帳を見た。見て、苦い顔をした。
「これを払えば、募る前に銭が尽きるぞ」
「いまは、払いませぬ」
「では、どうする」
「新しい帳の、初めに載せまする」
実初は、新しい紙を出した。
内侍所御修理料、初めに旧債を納むべきこと。
「河鰭が、立て替えるのではないのじゃな」
「立て替えませぬ。立て替えれば、また帳外になりまする」
大工に、その一行を見せた。銭は、まだない。だが、十一年ぶりに、未払いが帳の先頭へ戻った。
「初めに、でございますか」
「初めに、ございます」
大工は、ようやくうなずいた。言継が、奥へ見分の許しを求めた。修理の沙汰ではない。どこが傷んでいるか、見るだけの許しである。
それならば、下りた。三日後、大工が二人、入った。まだ直さない。
屋根板、柱の根、金具、雨の走った跡を先に測った。外から六か所に見えた傷みは、中へ入ると十四あった。
大工が柱の下を指で押すと、木がわずかに沈んだ。
「ここは、表だけ替えても持ちませぬ」
実初は傷みを帳につけた。声を掛ける先は、久秀を通す三好、商人を介して非公式に伝える尼子、由緒の教示が続く北条、そして甲斐とその縁である。
額は書かなかった。他家の額を気にする者ほど、自分で値を決める。代わりに、こう添えた。
帳に、載せまする。
誰が、いつ、幾ら出したかを。
内蔵頭の筆にて。
六月に久秀が来た。文を読み終えるなり、額のない箇所を指で押さえた。
「侍従さま。いかほど出せばよろしゅうございまする」
「御家の御心次第にございます」
久秀はしばらく黙った。
「それは、いちばん高くつく言い方にございまする」
実初は、頭を下げた。
「存じております」
久秀は、声を出して笑った。初めてであった。
「忝く存じまする。手前どもは、多く出しまする。なにゆえか、申し上げましょうか」
「うかがいます」
「主はいま御供衆、すなわち幕臣にございまする。その幕臣が上様を京から追いました。このままでは叛臣にございます」
「これを覆すには、上様がおられぬ京でも朝廷を平常に回すほかございませぬ」
久秀は、修理の文へ目を落とした。
「それでも節会は挙がり、内侍所は直り始める。それを誰が支えたか、帳に残りまする」
実初は頭を下げた。
尼子には商人を通し、文を出さなかった。幕府から八か国守護を得たばかりの家に、幕府を飛ばす証拠を残させるわけにはいかない。
商人には、これだけ言わせた。
「周防の御家は、御即位に献じて大宰大弐を得られました。いま、内侍所の御修理を募っておられます。それだけにございます」
返事は来なかった。聞いたという事実だけでよい。
小田原へは六年来、鎌倉北条以来の左京大夫の任官例や、武家として朝廷に列する作法を送っている。その末に一行足した。
なほ、内侍所の御修理、諸国に募られ候。
募っていると知らせただけで、献金は頼んでいない。
六月の末、実初は姉に会った。
「姉上。内侍所の御修理を、募っております」
姉は筆を止め、しばらく実初を見た。
「実初。それは、何のためですか」
実初は答えなかった。姉が知れば、いつか口から出て催促になる。
姉はうなずいた。
「伺いませぬ。あなたが、そう言うのでしょう」
実初は頭を下げた。八年前、自分が言った言葉を返された。
姉は静かに続けた。
「主上は五十九にあらせられます。私が奥に上がって二十五年。そのあいだ、御修理は一度も終わっておりませぬ」
実初は顔を上げた。
「姉上。終わらせまする」
姉は何も言わず、湯を注いだ。
「それは、答えになっておりますよ」
*
七月、三好から最初の分が入った。言継は受け取ったその日に、古い帳とは別の帳を開いた。
内侍所御修理料
その下に、初めて名が入った。初めに、十一年前の残りを納めた。
同じ日、北の一間だけ、御修理の沙汰が下りた。
翌日、大工が来た。内侍所の北の端で、傷んだ屋根板を一枚、外した。一枚だけである。
下から、黒くなった木が出た。乾いたところは白い。雨を吸ったところは、墨を引いたように筋になっていた。
新しい板が、脇に置かれた。まだ打たれていない。木の匂いだけが、古い建物の中に入った。
実初は、離れたところからそれを見た。
神鏡は、見えない。見てはならない。見えたのは、外された一枚と、新しい一枚だけである。
始まった。
大礼は、まだ口にしていない。御譲位も、口にしていない。
だが、板は一枚、外れた。




