笙
天文二十二年(1553年) 九月 京 山科邸・河鰭邸 河鰭実初
三日で、出た。言継は、紙を三枚に分けていた。
位官の相当を離れて、滞る者
十一名。内訳は羽林家三名、名家五名、半家三名だった。実初の指が止まった。
「山科さま。清華家が、一人もおりませぬ」
言継は、うなずいた。
「当たり前じゃ」
「清華は、そもそも席が用意されておる」
「列に並ばずに、席に着ける家じゃ」
位が官を追い越すのは、席に着けない家でだけ起きる。着ける家では、起きない。着ける家は、追い越す前に着くからである。
越階の名目
十一名が位を上げた功は、御料所回復が二名、献金の取次が三名、御所修理が一名、笙・和歌・陰陽・医など家業の勤めが四名、有職の勤めが一名だった。
全部、実務である。戦の功でも家柄でもなく、朝廷が現に痩せていなければ生じなかった功だった。実初は紙から目を上げた。
「山科さま。この十一名は、」
実初は、言葉を選んだ。
「朝廷が痩せたゆえに、位が上がった者にございます」
言継が、筆を置いた。
「……さよう」
「そして、痩せておるゆえに、席が来ませぬ」
滞留の年数
実初は上から読んだ。最長は十九年、笙を家業とする名家。次いで十六年の半家、十四年と十二年の名家、十年の半家、九年の名家、八年の半家、六年の名家と続く。
最後が羽林家の三人で、五年の河鰭実初、四年、三年。実初は十一人のうち九番、下から三番目だった。
だが、言継の名はなかった。
「山科さま」
「うむ」
「山科さまの御名が、ございませぬ」
言継は少し笑った。
「わしは違う。この十一名は位が官を追い越した者じゃが、権中納言はわしの位に相当しておる。乖離はない。わしのは別の病じゃ」
十一名は位と官が合っていない。この人は合っており、そこが家の終点だった。
病が違う。
実初は三枚を並べ直した。
「山科さま。この十一名を、集めてはなりませぬな」
言継が、顔を上げた。
「分かっておるか」
「はい」
「なにゆえじゃ」
実初は、答えた。
「集まれば、徒党にございます」
「さよう」
「席のない者が集まって席を求めれば、それは訴えにございます」
「訴えは、潰されまする」
実初は、続けた。
「そして、いま訴える先がございませぬ。近衛の大殿が、京におられませぬゆえ」
言継が、聞いた。
「では、どうする」
集めない。集めずに動かす。実初はしばらく考え、答えを出した。
「問いを、配りまする」
「……問い」
「はい。答えは、こちらから出しませぬ」
実初は、それを紙に書いた。
御家の御先祖で、貴殿と同じ官位にあらせられた御方は、
いつ、何にお進みになりましたか。
言継は読み終えても紙から顔を上げなかった。
「……侍従どの」
「はい」
「これは、えげつないな」
実初は、頭を下げた。
「さようにございます」
「まず、当家は有職の家にございます。他家の家業を尋ねて回るのは家業そのもの、不自然ではございませぬ」
「また、この問いに答えるには、御自身の家の帳を繰らねばなりませぬ」
実初は、言継の前にある三枚を指した。
「繰れば必ず分かりまする。先祖は進んでおるのに、自分だけが止まっておる。しかも、誰もその理由を説明できませぬ」
「山科さま、人に言われたことは忘れても、自分で見つけたことは忘れませぬ。その者のほうが、遥かに強く動きまする」
言継は、実初を見た。
「……侍従どの」
「はい」
「わしは、そなたが恐ろしい」
実初は、答えなかった。答えられなかった。
九月から、十二月まで。実初は、残る十名を、一人ずつ回った。用件は、故実の問い合わせである。
「貴家の御家業について、伺いとうございます」
笙、和歌、陰陽、医、装束について本当に聞き、その帰り際に必ず同じ問いを置いた。
「御家の御先祖で、貴殿と同じ官位にあらせられた御方は、いつ、何にお進みになりましたか」
十名とも、その場では答えられなかった。自分の家の帳を繰ったことがないからだ。
三月経つと、四人が向こうから帳を持ってきた。
「河鰭殿。当家の帳を御覧いただけまいか。先祖は四十で権中納言になっておる。わしは五十三じゃ。なにゆえか分からぬ」
この四人は動いた。
三人は何も言ってこなかった。繰っていないのか、繰って黙ったのかは分からない。実初は催促しなかった。催促すれば、問いが命令になる。
二人は怒った。
一人は、その場で言った。
「河鰭殿。当家の家業を尋ねるふりをして、何を数えておられる」
実初は、答えなかった。答えられなかった。そのとおりである。
その家からは、以後、故実の問い合わせが来なくなった。客を一軒失ったうえ、誰かが外へ漏らした。
十一月に、別の羽林家から使いが来た。
「河鰭殿が、妙なことを聞いて回っておられると伺うたが」
回っている、と言われ、実初は背中が冷えた。十名のうちの誰かが外へ言った。誰かは分からないまま、置いておくしかない。
最後の一人が、いちばん厄介であった。
帳を持ってきて、こう言った。
「河鰭殿。繰り申した。先祖は進んでおる。わしは止まっておる。そこまでは分かった」
その人は、言葉を選んだ。
「して、貴殿は、これで何を得られる」
実初は答えに詰まった。この人はこちらを測っている。問いを配った者が、なぜ配ったかを聞いている。
実初は、正直に言うことにした。
「当家も、十一のうちにございます」
「やはりな」
その人は、そう言った。言って、帳を閉じた。
「河鰭殿。わしは、貴殿を信じておらぬ」
その人は、立ち上がった。
「信じておらずとも、載るなら、それでよい」
実初は、その夜、数え直した。
応じたのは、五人。帳を持ってきたのが四人。信じぬと言って、それでも乗るのが一人。
黙ったのが三人。怒ったのが二人。そして、そのうちの誰かが、外へ漏らした。
自分を入れて、六人。六人で、足りるか。分からない。
だが、一つだけ分かったことがある。
「自分だけではない」と知った者は、動く。
そして、動いた者が、こちらを信じるとは限らない。
十二月の夜。実初は、書庫で灯をつけた。六人が、動ける。だが、動いても、行き先がない。
除目は動く。動いて、この十一人だけが載らない。推す者が、おらぬからである。
実初は、筆を取った。動かす先を、作らねばならぬ。訴えではない。徒党でもない。
では、何か。考えて、答えが出た。
書物である。
当家は、有職の家である。書を編んで、献ずるのが、家業そのものだ。願いではない。勤めである。
実初は、紙に一行、書いた。
位官相当沿革
一行を見た。これは通るが、編むのに半年はかかる。
実初は灯を消した。その暗闇で、山科の名が浮かんだ。
あの人はこの中に入っておられぬ。十一人には、入っていない。病が、違うからである。
あの人の次は、誰が書く。
実初は、答えを持っていなかった。持っていないまま、寝た。
天文二十三年(1554年) 正月 京 河鰭邸・内裏 河鰭実初
四か月で、『位官相当沿革』四巻を編んだ。律令以来の位官相当、その相当を離れた例、処理の有無、応仁以後の推移を収めた。
最初に拾えた例は三十一。言継の家にある除目の写し、河鰭の家譜、借りた五家の官歴を重ねると六十まで増えた。
同じ人が実名、官名、唐名で別々に記されている。生年、叙位、任官の年を合わせ、同名の別人かもしれぬもの、任官年が二つあるもの、官の一字が読めぬものを外した。
残ったのは五十七である。
綴じる前に、一人が来た。十一人のうち、いちばん長く滞っている名家の当主だった。笙の家。十九年。
「河鰭殿。わしのことを、書いたな」
実初は否定しなかった。
「御名は、書いておりませぬ」
「名を書かずに、十九年と書けば、分かる」
その人は、細長い包みを膝の前に置いた。開くと、笙の竹管が一本、出た。根元の蜜蝋が、黒くなっている。
「止まった年の正月に替えた管じゃ。十九年で三度直した」
その人は管を指で転がした。
「初めのころはわしが吹いた。いまは倅が吹く。官だけが、あの年のままじゃ」
実初は、答えられなかった。紙には、十九年と書ける。十九年を、吹いた息では書けない。
「河鰭殿。わしの名を書けば、これはわしの恨みになる。名を書かねば、先例になる」
実初がうなずくのを見て、その人は竹管を包み直した。
「ならば、先例にせよ」
「よろしいのでございますか」
「よくはない。よくはないが、十九年をわし一人のままにしておくよりはよい」
立ち上がる前に、その人は尋ねた。
「河鰭殿。そなたは、五年であったな」
実初の手が止まった。
「……さようにございます」
「まだ、笙なら一度も直しておらぬ」
その人は、それだけ言って帰った。実初は巻四の「十一人」を消さず、名も足さなかった。
五十七の例を、是正されたものと放置されたものに分けると、違いは一つしかなかった。前者には必ず「この者を上げよ」と言う者がいた。摂関家、上卿、あるいは家の縁者。後者にはいない。
実初は、こう書いた。
是正の有無は、功の多寡に依らず。
言ふ者の有無に依る。
これでは非難になる。実初はすぐに消して、書き直した。
是正されたる例には、いづれも執奏の者あり。
放置されたる例には、これを見ず。
応仁以後を年ごとに並べると、除目が滞った年に放置が集まっていた。応仁、明応、永正、そしてこの十年。
巻末に一行を置いた。
今、位官の相当を離れて滞る者、十一人あり。
名を書けば、十一人の訴えになる。名のない現例として、有職の家が正月に故実の書を献ずる形を取った。出す前に言継へ見せると、四巻を三日かけて読んだ末に呼ばれた。
「侍従どの。巻三の、あの一行じゃ。書き直したな」
実初は少し驚いた。
「……なぜ、お分かりに」
「巻三だけ筆が違う。一度書いて、消して、書き直した筆じゃ。何と書いておった」
実初は答えた。
「『言ふ者の有無に依る』と」
言継はしばらく黙った。
「消してよかった。書けば通らぬ。消せば、読む者が自分で書く」
取次の者は巻四の末で手を止めた。
「河鰭殿。この十一人とは誰じゃ」
「書いてございませぬ」
「見れば分かる者には、分かる。では、名を書かぬ意味がないではないか」
実初は首を横に振った。
「分かることと、書いてあることは違いまする。御名が書いてあれば十一名の願い、書いてなければ十一の現例にございます」
取次の者は四巻を閉じた。
「……面倒なものを持ってきたな」
「恐れ入りまする」
「褒めておらぬ」
「存じております」
その日は、受け取られなかった。願いではないと、言い切れぬ。だが、願いであるとも、書いていない。
翌日、同じ四巻を、同じ表紙のまま持っていった。何も削らなかった。何も足さなかった。
「また来たか。昨日、受け取らなんだ」
「正月の勤めにございますゆえ。昨日も今日も、まだ正月にございます」
取次の者は、実初を見た。それから、四巻を見た。長く息を吐いて、手元へ引いた。
「預かるだけじゃ」
「恐れ入りまする」
四巻は門の外へ戻らず、家業の勤めとして献じられた。二月も三月も沙汰はない。願いとして出していない以上、答えがないのは当然だった。
三月の終わり、姉が「内侍所に写しが一部入りました」と報せてきた。
実初は顔を上げた。
「……写し」
「はい」
姉は、それだけ言った。誰が写させたかは聞かなかった。献じた一部から写しが作られ、内侍所へ入った。
沙汰はない。だが、読まれた。
実初は灯を消した。




