列におらぬ
天文二十二年(1553年) 八月 京 伊勢邸 伊勢貞孝
八月一日。三好の兵が、京に入った。二万五千と聞いた。
貞孝は、その数を聞いて、すぐに思った。多すぎる。
霊山城を落とすだけなら、その半分で足りる。見せに来ておる。誰に。
京にである。
東山霊山城は、その日のうちに落ちた。上様は、城を出られた。細川右京大夫と、近衛の大殿と共に。
貞孝は、その報せを、政所で聞いた。聞いて、判を据える手を止めなかった。止めれば、周りが見る。
夕刻、詳しい話が入った。近衛稙家さまが、御同道なされた。
貞孝は、筆を置いた。前関白が、京を出た。
だが、貞孝は、すぐに別の面を見た。
朝廷は、止まらぬ。
当年の関白、一条兼冬さまは京におられる。近衛の家も空にはならぬ。御嫡男の晴嗣さまが、京に残られた。
父は将軍方、子は京。あの家は、両方に置いた。
つまり、除目は行われる。例年どおり、正月に。
貞孝は、少し、感心した。うまい。近衛は、どちらに転んでも残る形にした。摂関家は、五百年、そうやって残ってきた。
そして、そこで貞孝は、別のことに気づいた。
では、困るのは誰じゃ。
除目は動く。動くが、誰が誰を推すかは、変わる。上様に随うた者は、推されぬ。三好に近い者は、幕臣に推されぬ。
そして、どちらとも言えぬ者は。
貞孝は、筆を置いた。
誰にも、推されぬ。
三日後。三好から、触れが出た。
将軍に随伴する者は、武家・公家に関はらず、知行を没収する。
貞孝は、それを読んで、しばらく動かなかった。うまい。
斬るのではない。追うのでもない。土地を取る、と言っただけである。
そして、これは選ばせる触れである。上様に随うか、京に残るか。どちらかを、選ばせる。選ばなかった者は、随ったと数えられる。
その日から、諸家は三つに分かれた。
上様に随った者。近衛稙家。細川晴元。上野信孝ら、反三好の幕臣。知行は、没収される。
京に残った者。大半である。公家は、動けない。動く先がない。武家も、京に土地がある者は動けない。
そして、どちらとも言えない者。
河鰭じゃな。貞孝は、その名を、しばらく考えた。
あの子は、どちらへ行く。
三好の右筆とは、六年の付き合いがある。御料所を三か所、戻させた。あれは、三好が動いた。
だが、去年は朽木へ行っている。上様に、会うておる。貞孝は、それを知っている。帳に通行の記録が残るからである。
そして烏帽子親の三条公頼どのは周防で死に、あの家との縁は細くなった。
あの子には、どちらを選ぶ理由もある。
八月の半ばに、河鰭が来た。来るか。
貞孝は、そう思った。思って、身構えた。
一昨年の十二月以来である。あの日、こちらは「貴殿のおかげにござる」と言った。それきり、来なかった。
一年八か月、来なかった。
河鰭は、いつもどおりに座った。いつもどおりの座り方である。古い型じゃ。書物にしか残っていない型。変わっていない。
「伊勢さま」
「侍従殿」
「御無沙汰を、いたしました」
貞孝は、少し、拍子抜けした。恨みごとを、言いに来たのではないのか。八月、来なかった。来なかったのは、こちらを避けたからだと思っていた。
「侍従殿。なぜ、一年八か月も来なんだ」
河鰭は、正直に答えた。
「何を申し上げればよいか、分かりませんでした」
河鰭の用件は、意外なものだった。
「伊勢さま。除目のことにございます」
「うむ」
「近衛の大殿が、京を出られました」
「さよう」
「来春の除目は、いかがなりまする」
貞孝は、顔を上げた。そこを聞くか。
この子は、いま自分の身の置き所を聞きに来たのではない。官の話を聞きに来ている。
「行われる」
貞孝は、そう答えた。
河鰭が、顔を上げた。
「……行われまするか」
「当年の関白は、一条兼冬さまじゃ。京におられる」
「近衛の家も、御嫡男の晴嗣さまが京に残られた」
貞孝は、そう言った。
「父は将軍方、子は京。あの家は、両方に置いた」
「除目は、例年どおり動く」
長い沈黙があった。貞孝はそれを見ていた。この子はいま何を考え、何に気づいた。
やがて河鰭が、少し低い声で言った。
「伊勢さま。では、当家は」
貞孝は、答えなかった。答える代わりに、こちらから聞いた。
「侍従殿。そなたを推す者は、誰じゃ」
貞孝は、待った。
三条公頼どのは、周防で死んだ。烏帽子親が、いない。内蔵頭は、勘例を並べる者である。選ぶ者では、ない。摂関家は。この子に、縁がない。
そして、この子は三好と取引し、朽木にも行った。幕臣は推さぬ。三好方も、公家の席次には口を出せぬ。
貞孝は、筆を置いた。誰も、この子だけは推さぬ。
河鰭は、ようやく、こう言った。
「おりませぬ」
「伊勢さま。位は、出まする」
「さよう」
「位は、除目を経ませぬゆえ」
「さよう」
河鰭は、うなずいた。
「では、当家は、位だけが上がってまいります」
貞孝は、少し、寒くなった。この子は、いま自分の形を見た。位が上がる。官は来ない。それが、五年続いている。そして、これから何年でも続く。
言えば、この子は動く。動けば、危ない。まだ十八である。
だが、河鰭は、こちらが言わなくても先を見ていた。
「伊勢さま。位だけを重ねてゆけば、官の値が下がりまする」
「違う」
貞孝が遮ると、河鰭は顔を上げた。
貞孝は、はっきり言った。
「官の値は下がらぬ。除目は動く。誰かが少将になり、誰かが中将になる」
「官は、値を失わぬ」
「下がるのは、官を伴わぬ、そなたの位じゃ」
貞孝は、それを見ながら、続けた。この子は、いま制度の話に逃げた。「官の値が下がる」と言った。朝廷全体の話にすれば、自分の話でなくなる。
逃がさぬ。
「侍従殿。そなたは、いま朝廷の心配をしておられるな。しておらぬ」
貞孝は、そう言った。
「そなたが困っておるだけじゃ」
河鰭は、しばらく答えなかった。やがて、頭を下げた。
「さようにございます」
「よい」
貞孝は、そう言った。
「困っておる者は、動く」
「朝廷の心配をしておる者は、動かぬ」
この子に、言うておこう。言うべきかどうか、迷った。迷って、言うことにした。
一昨年、わしはこの子から何かを奪った。返せるものが、あるなら返す。
「侍従殿。推す者は、作れる」
河鰭が、顔を上げた。
「……作れる、と申されますると」
「一人を、口説く」
貞孝は、そう言った。
「摂関家の誰ぞに、『河鰭を推せ』と言わせる」
「それが、いちばん早い」
河鰭は、しばらく黙って、こう聞いた。
「その一人は、どこにおられます」
「近衛の大殿なら、そなたに縁がある。山科荘の折じゃ」
貞孝は、そう言った。
「あれは、そなたが動かしたな」
河鰭は、答えなかった。
「五年、誰にも言わなんだ。言わなんだ者の頼みは、重い」
「伊勢さま。近衛の大殿は、いずこに」
「上様と、御同道じゃ」
「いずこへ」
「……分からぬ」
貞孝は、正直に言った。
「霊山を出られて、山中を落ちておられる」
「朽木へ入られるという話もあるが、まだ着いてはおるまい」
河鰭は、しばらく黙った。それから、頭を下げた。
「ありがとうございました」
貞孝は、判を据える仕事に戻った。据えながら、こう思った。わしは、いま何を渡した。
「一人を口説け」と教えた。その一人は、いま将軍と共に山中を落ちている。訪ねれば、随伴じゃ。随伴すれば、知行が没収される。
貞孝は、判を置いた。渡してよかったのか。考えて、答えが出なかった。
だが、一つだけ、はっきりしている。
あの子は行く。いますぐではない。この子は急がぬが、官を得るにはいつか渡らねばならない。
一昨年に橋を渡ったわしが、こんどはあの子へ橋を見せた。
渡るのは、あの子じゃ。
天文二十二年(1553年) 九月 京 山科邸 山科言継
除目は動く。
動けば、誰かが上がる。誰が上がるかも、もう見えていた。
九月、正五位下の侍従が来た。言継は、いつもの薬の部屋に通した。
「山科さま。来春の除目に、当家の名はございますか」
言継は薬研を止めた。そこを聞くか。
「……ない」
「存じております」
実初は先を待ったが、言継は口を開かなかった。
「山科さま。私は、いつ少将になれまするか」
言継は、手を止めた。初めて、聞きおったな。
六年、この子は一度も自分の官の話をしなかった。位が上がっても、官が動かなくても、何も言わなかった。
「そろそろ、聞くと思うておった」
「……は」
「侍従に任じられて五年。その間に位は二つ上がったが、官は動いておらぬ。五年前に申したな」
「はい」
「位は一人上げても誰の席も減らぬが、官には員数がある。近衛府の少将は左右で四人ずつ。権官を立てれば多少は融通が利くが、無限ではない」
「では、員数の内で、誰が先かは」
「勘例じゃ」
「それも、五年前に伺いました」
覚えておるか。言継は少し笑い、二十年ぶんの控えを出した。見せれば、この子は自分で分かってしまう。
少将の欄を繰り、左四人、右四人、権少将と、誰がいつからいて、どの家がどの順で回してきたかを指で追う。
河鰭の名を探してもう一度繰り、手を止めた。
「……侍従どの。河鰭は、列におらぬ」
実初が動かなかった。言継は控えから顔を上げずに続けた。
「表の座が十年空いた間に、後ろの家が前へ詰めた。そなたが復したときには、列は既に埋まっておった」
「位は功があれば出るが、官はそうではない。列に入っておらねば、席は回ってこぬ」
実初の視線が、控えへ落ちた。
「列は、どこに書かれておりまする」
言継は息を吐いた。やはり、そこか。この子はいつもそこへ来る。「どこに書いてあるか」を聞く。
「どこにも書いておらぬ。控えを繰って読むものじゃ」
「読む者は」
「わしのような者が読んで、勘例に出す」
「選ぶのは」
「摂関家じゃ」
言継は控えを閉じ、しばらく手を置いた。二十年、誰にも言っていない。言えば愚痴になるし、愚痴は帳に載らぬ。
だが、この子はいま、自分と同じ「列にいない」という場所に立っている。
「侍従どの。わしも、列におらぬ」
「……山科さまは、権中納言にあらせられます」
「さよう」
「羽林の極官にございます」
「そこが、問題じゃ」
言継は、控えを開いた。自分の欄を、指で示した。
山科言継 権中納言
「父も、祖父の言国も、その前の顕言も、教興も教言も権中納言であった。山科の者で、権大納言に昇った者は一人もおらぬ」
言継は控えを閉じた。
「侍従どの。わしは諸家の次を書ける。どの家の誰が次に何になるか、控えを繰ればたいてい当たる。二十年そうしてきた」
「じゃが、自分の次だけは書けぬ」
実初は、控えの山科の欄を見た。
「他家の例なら、引けるのではございませぬか。権大納言に昇った家はいくらもございます。その例を引けばよろしゅうございます」
言継は顔を上げた。
「引ける。じゃが、『山科にも当てはめよ』と言う者が要る。勘例を並べるわしが、自分のために並べれば自薦じゃ。自薦は通らぬ」
実初が動きを止めた。
「では、誰が」
「おらぬ。二十年、おらなんだ。進めぬのではない。進めと言う者がいないだけじゃ」
薬研の音が止まったまま、長い沈黙があった。やがて、実初が言った。
「山科さま。当家と同じにございます」
「同じか」
言継は少し笑った。
「はい」
「当家は表の座が十年空いて列から落ちました。山科さまは列のいちばん先まで来て、その先がございませぬ」
「どちらも、次を言う者がおりませぬ」
言継は答えず、控えを引き寄せた。
「侍従どの。そなたと、わしと、二人か」
「位が上がって官が止まっておる者、あるいは家の先まで来て止まっておる者を、ほかにも見た覚えがある」
実初は乗り出しかけて、止めた。この子は乗り出さない。言継は、その動きを見た。
「山科さま。幾人おられまする」
「数えたことがない」
「数えていただけませぬか」
言継は筆を取り、しばらく持ったままでいた。数えれば「席のない者」の名簿になる。外へ出れば徒党と見なされる。
だが、数えねば無いのと同じだと、二十年そう思って帳を書いてきた。自分のことだけを数えなかった。
言継は控えを開いた。
「三日、くれ」




