禁色
天文二十一年(1552年) 正月〜三月 京 三好邸ほか 松永久秀
正月二日に、六角の大殿が亡くなった。跡を継がれたのは、義賢さまじゃ。
久秀は、その報せを聞いて、すぐに主のところへ行った。行く前に、結論だけを固めた。
和睦じゃ。
六角定頼は、二十年、上様を支えてきた。あの御方が生きておられるうちは、和睦は成らぬ。自分の二十年を、自分で否定することになるからである。
跡を継いだ者なら、できる。継いだばかりの者は、前の代の方針を変えることで、自分の代を始める。それが、いちばん安い始め方である。
果たして正月のうちに、六角義賢が間に立つと話が来た。
条件は上様の入京、細川氏綱を京兆家の家督と認めること、細川晴元の出家。
久秀は帳に書き、三つ目で手を止めた。
右京大夫さまは主の元の主君である。その人に出家せよという条件を、上様は呑まれた。
正月二十八日。上様が、京へ戻られた。
五年ぶりである。いや、正しくは、二年半じゃ。途中で幾度か戻られている。だが、腰を据えて戻られたのは、五年ぶりであった。
二月。主が、御供衆に列せられた。
三好孫次郎長慶。去年、名を改められた。
久秀はその沙汰を聞き、帳をつける手を止めた。
御供衆は陪臣が列するものではなく、将軍の直臣である。細川家の被官であった者が、将軍の直臣になった。
主は、もう細川の被官ではない。主君を選び直したことが、公に認められた。
それなら、江口もまた、叛逆ではなくなる。
「叛臣は、一代で終わる」と、主は申された。三年前、摂津への道で聞いた。
一代で終わらぬ形になった。
その夜、久秀は主に呼ばれた。
「弾正」
また、そう呼ばれた。久秀は、その官を持っていない。
「はっ」
「御供衆じゃ」
「恐悦にございまする」
「うむ」
主は、それきり黙られた。しばらくして、こう言われた。
「弾正。わしは、いま何になった」
久秀は、答えに詰まった。
将軍の直臣にございます。そう答えれば、済む。だが、主が聞いておられるのは、そういうことではない。
「……畿内を治める者にございまする」
「それは、去年もそうじゃ。今年は、何が変わった」
久秀は答えを選んだ。
「書かれ方が、変わりましてございまする」
主は、笑われた。
「……弾正」
「はっ」
「そなた、誰に習うた」
久秀は、正直に言うことにした。
「京の、公家にございまする」
「ほう」
「五年前、堺で会いましてございまする。当時、十二にございました」
主は、しばらく黙って、それからこう言われた。
「その者に、会うてみたい」
三月に入って、久秀は河鰭を訪ねた。
昼である。今度は、隠れずともよい。主が御供衆になった。京を治めているのは、幕府の枠の内である。
河鰭は、十七になっていた。従五位上。侍従。
まだ、少将ではないか。
久秀は、そこに目を止めた。位が上がっても、官が動いていない。
「侍従さま」
「松永どの」
「御祝いを、申し上げまする」
「こちらこそ」
河鰭は、頭を下げた。
「御主人の、御供衆」
「恐れ入りまする」
用件を済ませたあと、久秀は切り出した。
「侍従さま。手前ごとにございまするが」
「はい」
「先に、御相談申し上げておきとうございまする」
河鰭が、うなずいた。
分かっておられる。
久秀は、わずかに腹の底が軽くなった。この人は、こちらが言いにくいことを、先に呑む。
「主が、御供衆に列せられました」
「はい」
「主君が将軍の直臣であれば、その家臣の任官も、筋が通りまする」
「さようにございます」
「幕府の御執奏を経て、朝廷が任じられる」
「本則にございます」
久秀は、頭を下げた。
「先例は、要らなくなりましてございまする」
「松永どの。先に申し上げます」
「はい」
「先例は、要らなくなりました」
河鰭は、そう言った。
「私が申し上げるべきことでした。松永どのに、先に言わせました」
久秀は、顔を上げた。
そこを、詫びるか。
「侍従さま、それは」
「いえ」
河鰭は、頭を下げた。
「四年前、探すと申し上げました」
「探して、大内さまの例が出ました」
「出ましたが、」
「要らなくなりました」
久秀は、しばらく答えられなかった。
この人は、売れなかったことを詫びておる。売れなかったのは、こちらの都合である。主が御供衆になったからだ。詫びる筋合いは、ない。
「侍従さま。手前は、抜け道を望んでおったのではございませぬ」
久秀は、そう言った。
「道が、無いと思うておりました」
河鰭は、最後に足した。
「松永どの。受領名を、お選びくださいませ」
「……選ぶ、と申されますると」
「空いておる国と、塞がっておる国がございます」
久秀は、初めて、その考えに触れた。
空いておる、塞がっておる。
「同じ受領名を、格の高い御家が現に名乗っておられれば、」
河鰭は、続けた。
「後から名乗ると、軽く見えまする」
「逆に、絶えて久しい名を取れば、由緒だけが残って、」
「誰とも、競合いたしませぬ」
河鰭は、十ほど並べた。国の名と、いま誰が名乗っているかと、いつから絶えているか。全部、頭に入っておる。
久秀は、それを見ながら、二十年帳を見てきた自分と比べた。比べて、負けた。
最後に、河鰭がこう言った。
「弾正の官は、いかがにございます」
久秀は、手を止めた。
弾正。主が、そう呼ぶ。持ってもいない官を、先に呼ばれてきた。
「弾正台にございます」
河鰭は、続けた。
「風紀を糺し、非違を弾劾する官にございます」
「畿内を治められる御家の、実務を執られる御方に」
河鰭は、言葉を選んだ。
「『糺す』の字が付く官は、名乗るだけで、仕事の中身を語りまする」
主は、五年前からそう呼んでおられる。なぜ呼ばれるのか、聞いたことがない。
深い意味は、あるまい。そう思っていた。思っていたが。
「侍従さま。主が、手前をそう呼んでおられまする」
「……ほう」
「五年ほど、前からにございまする」
河鰭は、それを聞いて、少し黙った。黙ってから、こう言った。
「では、御主人は、既に選んでおられます」
久秀は、河鰭邸を出て、しばらく歩いた。
五年である。
初めて会ったのは、天文十六年の冬。堺の薬種問屋の奥座敷である。十二の童であった。
あのとき、こちらは下座に座った。位が分からなかったからである。
いま、十七になった。
変わっておらぬ。久秀は、そう思った。思って、すぐに訂正した。
いや。
あの子は、今日、詫びた。「売れなかった」ことを詫びた。
五年前なら詫びなんだ。あのころなら、「先例は要らなくなりましたな」とだけ言った。
詫びるのは、こちらが何かを失ったと知ったからである。
去年、何かあったな。
顔ではない。目の置きどころが変わった。いまは、自分が失わせたものを見る。
久秀はそれ以上追わなかった。聞くことではない。
ただ、帳の隅に一行だけ書いた。
河鰭。去年、何かあり。
天文二十二年(1553年) 七月 京 河鰭邸・町 河鰭実初
三月に、正五位下に叙された。十八である。従五位上から、三年。
名目は、元日と白馬、両節会の復興であった。
そして、同じ月。上様が、和約を破棄された。細川晴元と手を結び、東山に霊山城を築かれた。
戻られて、一年である。一年で、割れた。
京中が、踊っている。
風流である。町ごとに組を作り、囃子を立て、揃いの装束で辻を練る。去年からである。
去年は、これほどではなかった。今年は止まらない。
実初は、最初それを政の兆しと見た。戦の前は人が外に出て、集まり、踊る。恐ろしいときに、人は集まる。
実初がそれに気づいたのは、上久世の織手の使いが来たときである。
「若君。秋の御用の分にございますが」
言いにくそうにしている。実初は、待った。
「申せ」
「……売れましてございます」
二年前から、上久世の織手に札を出している。「河鰭の目を通した」という札である。
銭は、払わない。代わりに、年に一度、行事に要る分を無償で納めさせる。それが、約定である。
その絹が、いま、売れている。
「幾らで」
織手が、額を言った。
実初は、手を止めた。四倍である。
責めれば、札の型が壊れる。この型は、銭を払わないことで成り立っている。払わないものに、強制力はない。約定を守れと言えば、次から誰も札を取らない。
「買い手は」
「町の、組にございます」
「何組」
「……数えきれませぬ」
実初はその足で辻へ出て、半刻見た。
組は幾つもあり、町ごとに色も文様も違い、互いに競っている。そのなかに、赤に近い緋が出ていた。文様は菱と亀甲。
組の頭が、位を越えた色を着ている。
位階によって、着てよい色が決まっている。飾りではない。律である。
いま、京中の町衆が、揃いの絹で、色を競っている。誰も、咎めていない。
咎める者がいない。検非違使庁は機能せず、幕府は割れ、上様は霊山城、三好は摂津にいる。去年、京を焼かずに入った三好も町衆を敵には回せない。
実初は、家に帰って、しばらく考えた。
禁じるか。
禁じれば、町衆を敵に回す。そして、禁じる力もない。力のない禁令は、出せば力の無さが露見する。
では、放っておくか。
放っておけば、律が死ぬ。律が死ねば、色に意味がなくなる。色に意味がなくなれば、位にも意味がなくなる。
実初は、筆を止めた。
位が、この家の商品である。
二日、考えた。二日目の夜に、思いついた。
祭礼である。
実初は、文箱の三つ目を開けた。祖父・実治の図である。そして、古い記録を当たった。
祭礼では、常の禁色を緩める例がある。賀茂の祭。祇園の会。神事の場では、常の律を一時緩める。
先例が、ある。
実初は、一枚、書いた。
風流の装ひ、祭礼の儀に准ずべく候。
祭礼にては、常の禁色、これを緩む例あり。
ただし、左の色目に限る。
そして、十二の色目を並べた。
緋に近いが、緋ではない色。菱に似て、菱ではない文様。全部、実際に古い祭礼の先例にある。
探せば、出る。当家は、探す家である。
書付は、三日で町に回った。
回すつもりはなかった。最初に渡したのは、上久世の織手である。織手が、買い手に見せた。買い手が、他の組に見せた。
五日目に、河鰭邸に人が来た。町の頭である。
「河鰭さまの色目を、頂戴しとうございます」
咎められぬためではない。咎める者は、もともといない。
この人は、格好をつけに来ている。「河鰭の色目」を着ている組のほうが、上に見えるからである。
実初は、上久世へ使いを出した。
「秋の御用の分は、」
実初は、そう書いた。
「値の高いうちに、他所へ売られませ」
織手は、驚いたという。そして、二日後に返事が来た。
「よろしゅうございますか」
実初は、返した。
「その代わり、銭で納めていただきまする」
実初は帳を作った。
現物で納めさせれば行事の絹は手に入るが、いまなら平時の四倍で売れる。そこで織手には高値で売らせ、銭で納めさせた。値が戻ってから絹を買えば、差額が残る。
十年、絹を買えずに挙がらなかった行事の原資が、町衆の踊りから出た。
風流の組は、町ごとに立つ。町ごとに、頭がいる。頭が、書付を貰いに来る。
七月のひと月で、河鰭邸に来た町の頭は、四十を超えた。
実初は、その全部を書き留めた。どの町の、誰が、何人動かせるか。
書き終えて、実初は少し、手が止まった。
これは。
京の町組の名簿である。幕府も、三好も、正確には持っていない。
その夜、実初は姉に会った。名簿の話は、しなかった。
代わりに、こう聞いた。
「姉上。奥は、いま何が足りませぬ」
姉は、少し考えて、こう答えた。
「紙にございます」
絹ではない。
去年、灯が二つ増えた。今年は、紙が足りない。足りないものが、毎年変わる。
「姉上。足りぬものは、毎年変わりまするか」
「変わります」
姉は、そう答えた。
「足りたものから、忘れられてゆきますゆえ」
家に帰って、実初は帳を作った。足りぬものの帳である。
年ごとに、奥で何が足りなかったか。去年は、灯。今年は、紙。来年は何か。
書きながら、実初は筆を止めた。
これは姉上の記憶にしかなく、書かなければ、いつか一緒に消える。
姉上は三十六、自分は十八だった。
筆先がその差を追いかける前に、実初は帳を閉じた。
外では、風流の鉦がまだ鳴っていた。




