橋
天文二十年(1551年) 十二月 京 伊勢邸 伊勢貞孝
決めたのは、上様が朽木へ入られた十一月である。
中尾城に火を放ち、堅田を経て、京から一日半の谷へ移られた。
中尾城を築く銭を出した六角は、三好と話し始めている。それでも訴えは京へ来て、貞孝が判を据えていた。
三好も、こちらの帳を見に来る。
乙訓の三か村を載せてから、右筆が御料所、西岡、摂津の田の帳まで突き合わせに来た。最初は一度きりのつもりだったが、終わらなかった。
二十年、書いてきた帳である。訴えに来る者はいても、帳そのものを見に来る者はいなかった。
見に来る者がおる帳は、まだ効いておる。
そのことが嬉しかったのだと、貞孝は認めた。言い訳であることも分かっていた。
十二月、貞孝は三好方に転じた。
書付も誓紙もない。三好の使いにはこれまでどおり帳を出し、朽木から来た使いには判を出さなかった。それだけである。
京では「伊勢が寝返った」と言う。貞孝は否定しなかった。
同じ月、河鰭が走ってきた。
十六になったこの子の、慌てた顔を見るのは初めてである。
「伊勢さま――」
「侍従殿」
貞孝は、先に言った。
「貴殿のおかげにござる」
河鰭は、動かなくなった。
貞孝は、それを見ながら、続けた。
「乙訓の三か村じゃ。あれから、三好は当方の帳を、幾度も見に参った」
「御料所、西岡、摂津まで」
貞孝は茶碗を置いた。
「どの帳も効いておる。当方の判も効いておる。二年、幕府は上様の御身体ではなく、帳と判にあると申してきた。それは本当じゃ」
表紙へ手を置き、続けた。
「じゃが、見に来る者がおらねば帳はただの紙じゃ」
「上様は朽木におられ、あちらには帳がない。当方の帳を見に来る者は京におる」
「京なら幕府は動く。朽木では動かぬ」
長い沈黙があった。貞孝は待った。
やがて、河鰭が小さな声で言った。
「私が、繋ぎました」
「さよう」
貞孝は答えた。
「貴殿が繋いだのは、事実じゃ」
「……はい」
「当方は二年考え、自分で渡った。どちらか一つにはできぬ」
河鰭は、頭を下げた。しばらく上げなかった。
「侍従殿。覚えておかれよ」
貞孝は、静かに言った。
「繋いだ橋は、どちらへも渡れる」
河鰭は立ち上がり、最後に聞いた。
「伊勢さま。上様は、御存じにございますか」
貞孝は、少し、間を置いた。
「……知っておられよう。朽木から、判を求めて参られた。出さなんだ」
「それが、返事じゃ」
河鰭が出ていったあと、貞孝は帳を出し、開かずに表紙を撫でた。
「武家の礼、朝廷の儀。まとめたほうが、値が張る」。去年の七月に交わした言葉は、いまも本気である。
組みは切れない。河鰭は疑いながら、これからも同じ紙を書くのだろう。
天文二十年(1551年) 十二月 京 河鰭邸 河鰭清子
同じ夜、弟が帰ってきた。
清子は、たまたま局から二日だけ里へ下がっていた。
弟は灯もつけず、書庫へ入った。
清子はしばらく待ってから、湯を持って行った。暗い書庫で、弟は十一箱の消えた棚の前に座っていた。
「……実初」
返事はなかった。
清子は灯を置いて弟の顔を見た。涙はない。四つの年に母を亡くしてから、この子が泣くところを一度も見ていない。
背は去年より伸びたのに、暗い棚の前の背中だけが小さく見えた。
何があったかと聞けば、この子は答えられる形へ整理してから答える。整理させてしまえば、それきりになる気がして、何も聞かず隣に座った。
やがて弟が言った。
「姉上。私が、繋ぎました」
「……はい」
「繋いだのは私で、渡ったのは御自身だと仰せられました」
弟は息を継いだ。
「そのほうが、悪うございます」
清子は慰めを返さず、自分が十九だった年のことを話した。
「父上が亡くなられた年、奥へ取り次いだのは私です。御即位が挙がる。主上が十年お待ちになったものが挙がる。あのときは、よいことをしたと思うておりました」
弟が顔を上げた。清子は灯を見たまま続けた。
「そして父上は、その年に亡くなりました。十五年、考えました」
「私が取り次がねば、父上は立て替えなかったかもしれませぬ。立て替えねば、死ななかったかもしれませぬ。そうかもしれませぬし、そうでないかもしれませぬ。十五年、答えは出ておりませぬ」
清子は弟を見た。
「出ないものは、出ないままにしておくよりございませぬ」
弟はしばらく黙った。
「姉上。それは、慰めにございますか」
清子はわずかに笑った。
「いいえ。同じ穴に落ちた者が二人おる、と申し上げただけです」
弟は湯を飲んでから聞いた。
「……姉上」
「はい」
「十五年、出ておりませぬか」
「出ておりませぬ」
「では、私も、出ませぬな」
清子は、うなずいた。
うなずいたとき、弟が初めて少しだけ息を吐いた。
清子は灯を残して書庫を出た。後ろで筆を取る音がしたが、振り返らなかった。
天文二十一年(1552年) 正月 京 内裏 河鰭清子
正月二日に、報せが来た。
六角の大殿が、亡くなられた。近江の六角定頼。管領代。五十八。二十年、畿内の和睦を仲立ちしてきた人である。
清子は、それを聞いて、奥の空気が変わるのを感じた。
女房は、政を知らない。知らないが、空気は分かる。誰が慌てているか。誰が黙ったか。誰が急に出入りし始めたか。
正月七日。白馬の節会である。
十二年、まともに挙がっていない。馬が、いないからである。
庭に馬を引いて、群臣に見せる。それだけの儀式なのに、その馬がいない。
今年は、挙がった。
清子は、几帳の内から見ていた。庭に、葦毛の馬が引かれた。
あれである。
五年前、甲斐から来た馬。弟が、乗り方を覚えるのに一年かかった馬。朽木谷まで、去年、乗って行った馬。
清子は、それを見ながら、少しだけ、可笑しかった。
厩を直したのは、清六です。十年ぶりに藁を入れ、あの老人は泣きかけていた。
その馬が、いま禁裏の庭にいる。
主上の御前の灯は去年より二灯多い。そこまでは二年続けて、一灯ずつ減っていた。十年、減り続けていた。
清子は、それを見て、袖で目のあたりを押さえた。
御料所である。三か所、戻った。去年、その入りが入り始めた。
入れば、灯が増える。当たり前のことである。
当たり前のことが、十年なかった。
節会のあと、清子は廊下で公卿の話を聞いた。
「……去年から、正月が正月らしゅうなったの」
「さよう」
「誰ぞ、銭を出しておるのか」
「知らぬ」
清子は、それを聞いて、通り過ぎた。
誰も、知らない。弟の名は、出ていない。出ないようにしてある。
その日の夕、清子は召された。主上の御前である。
内侍の役目として、御前に出ることはある。だが、召されるのは、珍しい。
主上は、五十七になられる。在位、二十六年。痩せておられる。この十年、ずっとそうである。
清子は、御前に伺候した。しばらく、何も仰せられなかった。
やがて、こう仰せられた。
「馬は、いずこより」
去年の白馬節会のあとにも同じことを聞かれ、清子は「存じませぬ」と答えた。嘘であった。
今年も問われたということは、忘れておられぬ。
清子は返事を決めた。嘘は、二度つけぬ。
「……甲斐より、参りましたものにございます」
「誰の馬じゃ」
「河鰭にございます」
主上は、しばらく黙っておられた。やがて、こう仰せられた。
「内蔵頭が、注に書いておった」
清子は、顔を上げそうになって、こらえた。
注。言継が、帳の隅に書いたものである。
表には「御料所回復により、節会旧に復す」とだけ書いた。馬の出所は、注に。弟が、そうさせた。
「主上は、注を」
清子は、言葉を止めた。問いかけるのは、無礼である。
だが、主上は答えられた。
「注は、読む」
「表は、皆が読む。皆が読むものは、皆に見せるために書いてある」
「注は、書いた者が、読ませたい者にだけ書く」
清子は、頭を下げた。
十年、こうであったのか。この御方は、十年、注を読んでこられた。誰にも言わずに。
主上は、もう一つ、仰せられた。声が、少し低くなった。
「内侍」
「はい」
「そなた、河鰭の」
「故左近衛中将季富が、娘にございます」
主上は、うなずかれた。うなずいて、しばらく黙っておられた。
やがて、こう仰せられた。
「天文五年の二月じゃ」
「朕は、十年待った」
主上は、庭を見ておられた。
「十年待って、挙がった」
「足りなんだ、と聞いておる。足りぬ分を、二家が立てたと」
「帳に、載せぬ形でな」
清子は、袖の中で手を握った。
御存じである。
十六年、誰にも言っていない。言継も、言っていない。実香も、言っていない。なのに、御存じである。
そして、清子は気づいた。
当たり前である。御自身の御即位のことである。当人が、忘れるはずがない。
「内侍」
「はい」
「あのとき、奥へ取り次いだのは、誰じゃ」
清子は、長く黙った。黙って、それから、答えた。
「私にございます」
主上は、うなずかれた。驚かれなかった。
驚かれないということは。御存じであった。
「十九であったか」
「はい」
「そうか」
それだけであった。咎められもせず、褒められもしなかった。
清子が下がろうとしたとき、主上がもう一度、仰せられた。
「内侍」
「はい」
「弟がおるな」
「はい」
「十七か」
「はい」
主上は、少し、間を置かれた。そして、こう仰せられた。
「注に、名がある」
清子は、頭を下げた。下げたまま、しばらく上げられなかった。
清子は、局に戻って、灯の前に座った。
言えぬ。弟には、言えない。
「主上が、あなたの名を御存じです」と言えば、この子はそれを使う。使えば、値が下がる。
弟は、いつもこう言う。
「申し上げれば、それは願いになります」
知られていることを知れば、次から知られるように書く。それは注ではなくなる。
清子は言わずに置くと決めた。
十六年、私はそうしてきた。もう十年くらいは、できる。
清子が灯を見ると、去年より二つ増えていた。十年、減り続けたものが、増えた。
あの子は去年の暮れ、書庫で泣いていた。
泣いてはいない。だが、そういうことである。
自分のしたことが、この灯二つになっていると、あの子は気づいていない。見ているのは、失ったもののほうだけである。
清子は、灯を消さずに、しばらく座っていた。




