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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第二部『帳』

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22/41

あの日の冠

天文二十年(1551年) 正月  京  河鰭邸・三条邸  河鰭実初


 朽木から、四年ぶりに返事が来た。天文十六年正月に出し、返事のないものとして忘れていた文への返書は、短かった。


  御芳書、久しく懐に候。

  当家、京の儀に暗く候。

  上様、当地に御座候。

  御教示、賜はりたく候。


 実初は、それを三度読んだ。「久しく懐に候」。四年、持っていた。捨てていない。


 去年の十一月、上様は中尾城に火を放って退かれた。堅田を経て朽木谷へ入り、その月にこの文が出た。


  当地に、儀を弁ずる者、なし。


 将軍が朽木にいる。年中の行事も、正月の作法も、任官の執奏も、全部そこでやることになる。作法を知っている者が、一人もいない。


 腹の底が冷えた。四年前の一行が、いま効いた。


  当家、有職の儀、旧に復し候。


 あのとき、返事は来ないと見切った。紙と墨と飛脚代だけの賭けが、四年寝ていた。


 そして、もう一行。実初は、その一行のことを四年ぶりに思い出した。


  父季富が代よりの御縁


 嘘である。あの家は、それを四年、懐に入れていた。読み返しているはずである。


 正月。下調べが、上がった。三条公頼の依頼である。「大内が、この三年で誰に何を配ったか」。


 まだ、名までは分からぬ。誰に何を配ったかの一覧は、これからである。分かったのは、大まかな形だけだ。


 入口は、堺の小山、京に家族を残して周防へ下った公家、そして大内との交渉記録を持つ伊勢家。


 三か月かかって、ようやく形が見えた。実初は紙にまとめ、三条邸へ持って行った。公頼は、待っていた。


「洗い上がったか」


「はい」


 実初は、前置きをしなかった。


「三条さま。周防は、割れまする」


 公頼が、扇を止めた。


「……いつじゃ」


「わかりませぬ」


「では、なぜ言い切る」


 実初は、指を四本立てた。


「大内さまは月山富田より御自ら出陣なさっておられませぬ。九年、戦がなければ恩賞もございませぬ」


「入る銭も細っております。四年前に渡唐船の法度を定められ、同じ年に最後の船が出た。勘合の商いはそこで終わりにございます」


「それでも出る銭は、京と文物に向いております。山口には京から下った公卿が幾人もおり、書物を集め、寺社へ寄進し、位を買うておられます。天文五年に大宰大弐、十年に従三位、十四年に正三位。十五年、買い続けておられます」


 実初は、四本目を立てた。


「兵を握っておる者が、何も貰うておりませぬ」


 公頼は、扇を膝に置いた。


「実初。わしが行けば、どうなる」


 実初は答えなかった。分からないことを、いま考えても仕方がない。


「わかりませぬ」


「正直じゃな」


「ですが、割れるとき、京から下った公家は必ず文治の側に数えられまする。兵を握っておる者が挙がるならば、まず斬られるのは、御当主に文物を売った側にございます」


 公頼の手が止まった。


 長い沈黙が、あった。公頼は、庭を見ていた。正月である。楓が、裸である。


 やがて、公頼は言った。


「……やめておこう」


 実初が、顔を上げた。


「三条さま――」


「そなたが正しいかどうかは知らぬ。じゃが、四つ数えられて、四つとも返せなんだ。返せぬ盤には乗らぬ」


 公頼は扇を閉じた。実初は頭を下げ、四年前に冠を置いてくれた人を死なせずに済むと思った。


 そのとき、公頼が呼んだ。


「実初。わしが、なぜ周防へ行きたいか、申したことがあったか」


「……ございませぬ」


「銭ではない」


 公頼は庭を見たまま言った。


「娘が三人おる。一人は細川、一人は甲斐、末は本願寺へやることになっておる。わしは娘を配って歩いた男じゃ」


 実初は、何も言わなかった。


「そして父は、天文五年のあの座からわしを外した。九年、理由も知らなんだ。知ったのは五年前、十一の童に教えられてからじゃ」


 公頼は、実初を見た。


「実初。わしは何かを一つ、自分で成したい。京を欲しがっておる周防なら成せる。わしが行けば、禁裏に銭が来る」


 実初が並べたのは、銭と恩賞と兵、それに家中の割れ目である。公頼の九年は、そのどこにも載っていない。


 実初は、しばらく黙って、それから言った。


「三条さま」


「なんじゃ」


「もう、成しておられます。当家は表の座が十年空いておりました。そこへ冠を置いてくださったのは、三条さまにございます」


 実初は、頭を下げた。


「あれは御父上の御名代ではございませぬ。三条公頼さまが、まっすぐに置かれました」


 長く、庭を見ていた。やがて、こう言った。


「……実初」


「はい」


「行かぬとは言わぬ。じゃが、急がぬ。そなたの申す通り、周防の帳を先に見よう。大内が、この三年で誰に何を配ったか」


 公頼は、扇を取った。


「名まで洗うてから決める。幾月かかる」


「二か月か、三か月かと存じます」


「では、それまで待つ」


 実初は三条邸を出て、しばらく歩いた。「やめておこう」のあとに、「行かぬとは言わぬ」が続いた。


 止めたのではない。遅らせただけである。


 銭と恩賞と兵なら、こちらにも測れる。公頼の九年は測れない。


 風が出た。実初は足を止め、また歩き出した。周防の帳を、さらに調べる。数が増えれば止められると、まだ思っていた。


天文二十年(1551年) 八月  周防 山口  三条公頼


 山口は、京に似ている。似せて作ってある。大内の御当主が、そうなさった。碁盤の目に区切って、通りに名をつけて、京から公家を招いた。


 似ているが、京ではない。空が、広い。


 公頼は、五十七になった。正月、実初に四つの理由を突きつけられ、一つも返せなかった。「名まで洗うてから決める」と答えたが、実初が名簿を持ってきた三月には、それを読んで山口へ発った。


 稼いだのは二か月だけである。


 銭なら京にいても入る。禁裏に銭を、というのも半分は本当だった。だが、残る半分は実初にも言えなかった。


 五十七になり、三人の娘を嫁がせ、父から「外したのではない。残したのじゃ」と聞かされてなお、自分は何も成していない。


 残された者は、いつまでも残されている。


 山口では、御当主の側近に相良武任がいた。文治の側である。


 兵を握る周防守護代・陶隆房は、その反対側にいる。九年、戦がなく、恩賞も出ていない。


 その九年、御当主は書物を集め、公家を招き、位を買われた。


 公頼は、招かれた側である。斬られる側じゃ、と実初は言うた。言われたときは、それほどとは思わなかった。


 いまは、思う。


 大内義隆に、二度会った。四十五。京の言葉を話す。歌を詠む。上手じゃ。公頼は、そう思った。思って、そのあとで、こう思った。


 上手すぎる。


 武家の当主が、公家より上手に歌を詠む。それは、家中には何の役にも立たぬ。


 二度目に会ったとき、義隆はこう言われた。


「左府さま。京は、いかがにござる」


 左府。公頼は、去年、左大臣を辞している。それでも、そう呼ばれた。


「痩せております」


「さもあろう」


 義隆は、笑われた。


「わしが、支えねばならぬ」


 この御方は、本気で朝廷を支えるつもりでいる。家中は、それで一文も貰わない。


 八月の末、公頼は河鰭実初へ文を書いた。五十七の男が、十六の童に文を書いておる。少し可笑しかった。


 だが、書く相手が他に思いつかなかった。娘たちに書けば心配させる。言継に書けば、あの男は銭の話に変えてしまう。


 だから、実初に書いた。あの子は、返事を求めない。


  そなたの数えた四つ、いずれも違うておらぬ。


 そこから、書いた。


  一つも、返せなんだ。

  それでも、わしは来た。


 公頼は筆を止めた。「九年、残されたままであった」と書けば愚痴になり、「何かを成したかった」と書けば子供じみる。


 しばらく考えて、こう書いた。


  数えられぬものが、人にはある。


 公頼は読み返し、筆を置きかけた。その手が、もう一行だけ書いた。


  実初。あの日の冠は、まっすぐであったか。


 公頼は長くそれを見た。消さなかった。


 父は、あの日こう言った。


  公頼。冠は、まっすぐ置け。


 父に外されなかった日が、一日だけある。役目を与えられ、九年ぶりに渡り廊下を渡り、「上へ来い」と言われ、冠を置いた日である。


 公頼は文を封じ、山口から京へ発たせた。


*


 陶隆房が挙兵した。大内義隆は長門・大寧寺で自刃した。四十五。


 山口に下っていた公家が、幾人も巻き込まれた。三条公頼も、その一人である。


 文が、京に着いた。九月の半ばである。実初の手に渡ったのは、報せが届いた三日後であった。


 河鰭邸の書庫には、灯が一つだけ残っていた。


 実初は、それを開いて、読んだ。読んで、動かなかった。


  そなたの数えた四つ、いずれも違うておらぬ。

  一つも、返せなんだ。

  それでも、わしは来た。

  数えられぬものが、人にはある。


  実初。あの日の冠は、まっすぐであったか。


 実初は最後の一行を何度も読んだ。筆を取っては置いた。


 まっすぐでございました。書くことはできる。だが、読む者がいない。


 紙を文箱にしまい、灯を消さずに座っていた。外で、風が鳴った。九月である。


 実初は、十六になっていた。


天文二十年(1551年) 十一月  近江高島郡 朽木谷  河鰭実初


 書き始めることもできない返事を、二月、懐に入れたままにしている。


 十一月、雪の前に、清六とその子、もう一人を供に連れて谷へ入った。


 四年前に甲斐から来た馬で、大原から山道を北へ抜けた。朽木谷の御所は寺だった。築地はなく、門を守る者は四人。周りには、去年の冬に来た者が建てた粗末な小屋が並んでいる。


 実初は、足を止めた。将軍の御所に、警固が四人。京の三好の屋敷には、その二十倍いる。


 朽木稙綱は、疲れた顔をしていた。


「河鰭侍従殿。四年、御返事を差し上げず、面目もござらぬ」


「懐に入れておいてくださいましたゆえ」


 稙綱は、少し笑った。疲れた笑いである。


「当地には儀を知る者がおり申さぬ。年中の行事も正月の作法も、皆で覚えておるだけにござる。間違うておっても、誰も直せぬ」


 稙綱が会わせた足利義輝は、十六で痩せていた。座っているだけなのに、姿勢が異様に良い。実初が名乗ると、こう言われた。


「河鰭。表の座が十年、空いておった家じゃな」


 知っていた。


「……恐れ入りまする」


「復したそうな」


「はい」


「誰が、冠を置いた」


「三条公頼さまにございます」


 実初は、一度、息が詰まった。二月前に、死んだ。だが、言い直さなかった。置いたことは、変わらない。


 義輝は、しばらく黙って、それから聞いた。


「表の座が空いた家を、どうやって立てた」


 実初は、迷った。何を答えるか。


 「加冠役を探しました」でも、「位を頂きました」でもいい。どちらも本当である。


 だが、それでは答えていない。


 実初は、嘘をつかないことにした。


「紙にございます」


「紙」


「父の日記が十一箱ございました。銭も、地も、家業もなく、紙だけが残っておりました」


 義輝はしばらく動かず、脇の太刀へ目を落とした。


「わしには、それも無い。幕府の記録は京の政所にある。手元にあるのは、これだけじゃ」


 この人は、自分が空だと知っている。知っていて、口に出した。十六で。


 実初は、言った。言おうと思って来たわけではない。だが、二月近く、懐に文を入れていた。書けない返事を、持ったままである。


「上様。記録は京にございます。ですが、記録に残るのは京ではございませぬ」


 義輝がこちらを見た。


「……と、申すか」


「当家は表の座が十年空き、その十年は帳に空白として残りました。いまは『中絶を経て、旧に復す』と内蔵頭の筆で書かれております」


「上様がこの谷で何をなさっておられるかも、誰かが書けば残ります。書かねば、残りませぬ」


 義輝は、長く黙っていた。外で、風が鳴った。


 やがて、こう言った。


「……河鰭」


「はい」


「わしは、剣を習うておる」


「存じております」


「将軍らしからぬと、皆が申す」


 将軍らしからぬと言われていることを知りながら、義輝はやめていない。


「上様。それも、書かねば残りませぬ」


 義輝が、笑った。初めてであった。


「……書けと申すか」


「当家は、書く家にございます」


 義輝は、少し、身を乗り出した。


「河鰭。書けば、何になる」


 実初は答えに詰まった。持っていない答えを、いま思いついたふりで返すわけにはいかない。


「わかりませぬ」


 と言うと、義輝が眉を上げた。


「わからぬのか」


「はい」


「では、なぜ申した」


 実初は、懐に手をやった。文がある。二月、書けない返事を持っている。


「上様。二月前に、烏帽子親が死にました」


 義輝が、動きを止めた。


「周防、大寧寺の変にて。知り得た危うさを申し上げ、それでも止められませんでした」


 実初は懐の文を押さえた。


「死ぬ数日前に出された文が、報せの三日後に届きました。返事が書けませぬ。書いても、読む者がおりませぬゆえ」


 義輝はしばらく黙ってから、静かに聞いた。


「何と、書いてあった」


「『あの日の冠は、まっすぐであったか』と」


 また長い沈黙が落ちた。やがて義輝が言った。


「河鰭。そなたは、それを読んだ」


「……はい」


「ならば、残っておる」


 実初が顔を上げると、義輝は続けた。


「書いた者は死に、返事は届かぬ。じゃが、読んだ者がおる。それは、残っておることにならぬか」


 実初は頭を下げ、しばらく上げられなかった。懐の文は何も軽くなっていない。それでも、返事を書く以外のことを初めて考えた。


 義輝は急かさず待ち、やがて太刀へ目を戻した。


「河鰭。わしのことを書く者を寄越せ。残るかどうかは知らぬ。じゃが、読む者はいるらしい」


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