載せた
天文十九年(1550年) 二月 京 山科邸 山科言継
冬のあいだ、河鰭は来なかった。
堺と、摂津じゃな。
言継は、そう見当をつけていた。薬の出入りを見れば、誰が京を出たかは分かる。あの子は、十二月に堺の薬種問屋から二度、物を取り寄せている。
来た。いつもどおり、薬の部屋に座った。そして、いつもどおりでない顔をしていた。
押さえておる。嬉しそうな顔をしないように、力を使っている顔である。
「山科さま。禁裏の御料所、三か所、戻りましてございます」
言継の手が、止まった。薬研が、止まった。聞き違えたか。
「……もう一度、申されよ」
「三か所にございます」
「どこじゃ」
実初は、名を挙げた。言継は、立ち上がった。薬の部屋を出て、奥へ行き、帳を取ってきた。内蔵寮の帳である。
手が、少し震えておる。自分でそう思った。思って、恥ずかしいとは思わなかった。
指で追った。三か所。全部ある。全部、入っていないと記された所である。一つは、享禄。一つは、天文元年。一つは、去年。
言継は、座ったまま、しばらく何も言わなかった。
「若ぎみ」
言い間違えた。いまは侍従である。だが、言い直さなかった。
「……わしは、二十年、内蔵頭をやっておる」
「存じております」
「御料所が戻ったのは、」
言継は、顔を上げた。
「初めてじゃ」
言継は、感傷をそこで止めた。止めて、数え始めた。それが、わしの役目じゃ。
「侍従どの。三か所で、年に幾らじゃ」
実初が、額を言った。言継は、それを帳に書き入れて、算木を並べた。しばらく並べて、静かに言った。
「御所の築地が、直る」
「……は」
「二年で、東側が直る。三年で、南も」
言継は、算木を戻した。
「十年、直せなんだ」
言継は、顔を上げた。問題は、ここからじゃ。
「侍従どの。誰が戻したことになる」
実初は、答えた。
「三好にございます」
「それは、まずい」
言継は、指を三本立てた。
「三好は、いま細川右京大夫氏綱を立てておる。上様は、坂本じゃ」
「禁裏が三好の功を賞せば、上様を差し置いて三好を認めたことになる」
「六角の大殿が、黙っておられぬ」
「あの御方は、和睦の仲立ちを官位で払うてもろうておる。同じ値で三好が買えると知れれば、値が崩れる」
言継は、実初を見た。
「そして、侍従どの」
「はい」
「そなたが、三好方と数えられる」
実初は、しばらく黙っていた。黙ってから、こう言った。
「山科さま。三好の功にせねば、よろしいのではございませぬか」
言継は、目を細めた。
「……と、申すと」
「戻したのは、三好にございます」
「さよう」
「ですが、」
実初は、まっすぐ言った。
「押さえておった者が、返したのでございます」
言継は、その一言で分かった。そういう形にしておるのか。
三好は、押領していた者から取り上げたのではない。配らなかっただけである。配られなかった者は、押さえているだけの者になる。
ならば、返上する形が作れる。
「侍従どの。押領しておった者に、褒美をやると申すか」
「さようにございます」
「筋が通らぬぞ」
「通りませぬ」
実初は、はっきり言った。
「ですが、これが本則にございます」
「天文五年、大内左京大夫さまは、御即位に献ぜられて大宰大弐を得られました」
「……さよう」
「銭を献じた者に、位を出す」
実初は言った。
「地を献じた者に、出さぬ理由がございませぬ」
言継は、少し、唸った。理屈は、通る。通るが、腹の底が納得しない。
押領していた者に位をやる。十年、取り返せなんだのは、こちらじゃ。取り返せなかった側が、取っていた側に褒美を出す。
「そして、返上と申せば、」
実初が、続けた。
「幕府も、六角さまも、文句のつけようがございませぬ」
「押領していた在地の者が、恐れ入って返した。それだけの話にございます」
言継は、笑った。うまい。うますぎて、少し腹が立った。
言継は、算木の筒を撫でながら、言った。
「侍従どの。それでは、そなたに何も残らぬぞ」
実初が、顔を上げた。
「残りまする」
「どこにじゃ」
「山科さまの、御筆に」
言継は、動きを止めた。
「三名に、位が出まする」
実初は、続けた。
「その口宣案には、取次の者の名が、載りまする」
言継は、声を出して笑った。笑って、笑いながら、少し目のあたりが熱くなった。
季富の子じゃな。あの男も、そうやって銭を捨てた。取り返したのは、この子じゃがな。
「……侍従どの」
「はい」
「取次は、二名載せる」
実初が、顔を上げた。
「二名」
「河鰭侍従と、内蔵頭じゃ」
「山科さま――」
「約定であろう」
言継は、そう言った。
「どちらが取ったかを、必ず言う。取った額も、言う」
「わしは、何も取っておらぬ。じゃが、奏すのはわしじゃ」
言継は、筆を取った。
「載せねば、帳が嘘になる」
その場で形を組んだ。押領していた三名には返上させ、文書を伊勢政所の帳と突き合わせる。三好は表に出さない。
内蔵寮から返上の旨を奏すのは、言継の職務として自然である。
三名には従五位下か受領名を出し、口宣案に取次の名を載せる。在地の土豪には、これ以上ない褒美だった。
言継は帳を閉じず、しばらく見ていた。初めて戻った。
二十年、減る一方だった。減るのを遅くするのが仕事じゃと思うており、増えることがあるとは思わなかった。
そのとき、季富の言葉が浮かんだ。
あの子は、十五じゃ。
自分が十五のとき、何をしていたか。父の脇で、帳を写していた。写すのが、精一杯じゃった。
言継は、筆を取った。そして、奏文の下書きを書き始めた。
書きながら、こう思った。
わしは、この子より速く動いたことが、一度もない。
天文十九年(1550年) 四月〜五月 京 河鰭邸 河鰭実初
四月に、沙汰が下りた。在地の三名に、位が出た。従五位下が二人。受領名が一人。
三人とも、土豪である。田を持ち、下人を置き、腰に差している者たち。位など、生涯縁のない者たちであった。
一人は、四十過ぎ。位記を受け取って、その場で泣いたという。清六が、そう言って帰ってきた。
「若君。あの者、こう申しておりました」
「なんと」
「『孫の代まで、名が残る』と」
実初は、それを聞いて、しばらく黙った。田を返し、毎年の実入りを手放して、食えない位を取った。それでも割に合うと男は判断したのだ。
実初は、自分の勘定を疑った。割に合うのか。
合わないかもしれない。あの男は、来年になって「損をした」と思うかもしれない。
だが、思っても、返せない。位は、返せないからだ。返す仕組みが、ない。
実初は、少し、嫌な気持ちになった。返せないものを渡した。それは、優しさではない。
三通の口宣案が出た。その末に、二つの名が載った。
取次 河鰭侍従実初
同 内蔵頭山科言継
実初は、その写しを、書庫に置いた。置いて、しばらく見ていた。
父の名は、載っていない。当然である。十四年前に死んだ人だ。
だが。十四年前、同じことをして、載らなかった。
実初は、筆を取って、一行だけ書いた。
載せた。
誰に見せる紙でもない。書いてから火にくべた。
言継から叙位の沙汰が来た。
河鰭実初、従五位上。十五歳。侍従に任じられて二年三か月。平時なら三年から五年だから、早い。
越えた。
名目は、こうであった。
禁裏御料所回復の御功、取次に依る。
実初は、その一行を、三度読んだ。
「御功」と書いてある。
功である。功で、位が動いた。言継が言ったとおりだった。
禁裏に銭はない。じゃが、位はある。
位は、出しても減らぬ。
実初は、その夜、書庫で数え直した。四年前、私はこの家に何も持っていなかった。
天文十五年正月には、家督も加冠役も装束も銭もなかった。
いまは従五位上の侍従で、葛野の三か村から年貢が入り、甲斐、小田原、京の武家、堺に客がいる。山科、三条、伊勢、三好、姉、小山へ届く道もできた。
乙訓の三村と、父の帳だけが戻っていない。
実初は、手を止めた。言継は「載せられぬ」と言った。九月十一日の一件は、帳に載らない。
四年やって、そこは一寸も動いていない。
その報せが来たのは、叙位の少し前である。
近江・穴太。前将軍・足利義晴、四十で死去。
上様は実初と同じ十五で父を失い、京にもいない。
十五で継いだ上様に対し、実初は十一で家を継いだ。ただし、表の座が空いた河鰭には、奪いに来るほどのものもなかった。
あの家は、空ではない。名も、格も、由緒も、三百年の先例も、全部ある。あるのに、動かない。
言継から、報せが来た。河鰭邸へ使いが来て、山科邸へ参れとだけ告げた。
実初が出向くと、言継は薬研の脇に座っていた。
「侍従どの。上様が、お一人になられた」
「さようにございますか」
言継は、それきり何も言わなかった。しばらく座って、湯を飲んで、帰った。
帰り際に、一つだけ言った。
「……同い年じゃな」
「はい」
言継は、うなずいて出ていった。
実初は庭に出た。五月の南天は白い花をつけ、実はまだない。
同い年である。
四年前にも、そう思ったことがあった。
あのとき、義藤という名だった。元服した翌日に、将軍になった。十一である。
そして、京にいる年のほうが短い。いま、坂本にいる。
父が死んだ。十五で、一人になった。
実初は、自分に聞いた。会いに行くか。
行けば、どうなる。
行く名目がない。従五位上の侍従が、坂本の将軍に会いに行く。用がない。用のない訪問は、必ず何かの意味に読まれる。
実初は、家に入った。入って、書庫の灯をつけた。
まだ、売る物がない。あの人に売れるものが、一つもない。銭も兵も土地も、こちらにはない。
では、何がある。
実初は、空いた棚を見た。十一箱があった場所である。あれは、渡した。渡して、言継が読んでいる。読む者ができたから、あの十一箱はまだ生きている。
だが、あの人にはそれがない。
幕府の記録は京の政所、伊勢の家にある。手元には、ない。
そして、いま何をしているかを、書いている者もいない。
実初は、灯を消した。消してから、暗闇の中で、こう思った。
いつか、会う。
今日ではない。売る物ができてからだ。
そして、売れるものが、一つだけ思い当たった。
思い当たって、実初は少し、それが売り物になるのかどうか、自信が持てなかった。




