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書かねば、残らぬ  作者: とんこつしょうゆ
第二部『帳』

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動かぬ

天文十七年(1548年) 七月  京  山科邸  山科言継


 七月である。


 言継は、その月を、生涯覚えることになった。


 朝に、家司が来た。


「殿。山科郷より、使いが」


「うむ」


「年貢を、納めてはならぬ、と」


「誰がじゃ」


 家司は、言い淀んだ。


「……幕府にございます」


 山科家の家領である。代々の、である。家の名が、そこから来ている。


 山科という家が、山科荘を失えば、何が残る。


 言継は、そう思って、そのまま座っていた。


 押領である。言葉を選べば、そうなる。


 言葉を選ばねば。


 盗まれた、である。それも幕府に。


 言継は二十年、銭を数えてきた。山科荘の年貢は家の収入の柱で、止まれば笙も故実も薬も回らなくなる。


 内蔵頭の役目も回らなくなる。そこが、いちばんまずい。


 朝廷の銭を集めるのは、言継の仕事である。集めるためには諸国へ行かねばならず、行くには銭が要る。


 自分の家の銭で、朝廷の銭を集めに行っている。二十年、そうである。


 そして、訴えるか。


 どこへ。


 押領したのは、幕府である。幕府の裁定で、幕府の押領を覆せるはずがない。


 最後に、上様に願うか。


 上様は坂本におられ、押領の書付にはその御名がある。


 そこで考えが行き止まった。


 手がない。


 その日、言継は誰にも言わず、家司にも口止めをした。


 知られれば、値が下がる。


 内蔵頭が土地を失った、と知れれば、諸家は「あの家も終わりじゃ」と言う。言われれば、次に銭を集めに行ったとき、誰も出さない。


 痩せた者から銭を集められる者は、いない。


 河鰭実初が来た。


 いつもどおり、月に一度の話をしに来た。十三である。侍従になって、半年になる。


 言継は、いつもどおり薬研を挽いた。挽きながら、いつもどおりの話をした。甲斐がどう。小田原がどう。堺の唐薬がどう。


 半刻ほどして、実初が黙った。


 言継は、それに気づいた。


 気づかれたか。


 いや、気づかれるはずがない。顔には出していない。声にも出していない。薬研の手も、いつもと同じ速さで動かしている。


 実初は、それきり何も言わなかった。用件を済ませて、頭を下げて、帰った。


 何も、聞かなんだ。


 また来た。


 いつもは月に一度である。五日で来た。


 言継は、少し身構えた。


 聞きに来たか。


 実初は、聞かなかった。代わりに、こう言った。


「山科さま。当家の家領に、葛野の三か村がございます」


「うむ」


「十年、年貢が入っておりませぬ」


「取り返す気か」


「はい」


 言継は、薬研を挽きながら、聞いた。


「どうやってじゃ」


「まだ、分かりませぬ」


 実初は、正直に言った。


「ですが、二つに分かれると存じます」


「ほう」


「一つは、誰も取りに来ぬから、その場の者が食うておるだけの村」


「もう一つは、現に押さえておる者がおる村」


 実初は、続けた。


「前者は、こちらが行けば戻ります」


「後者は、」


 少し、間を置いた。


「押さえておる者より強い者が、後ろにおらねば、動きませぬ」


 言継の手が止まった。


 この子は知っておる。山科荘のことを知りながら一言も出さず、同じ形の話をしに来たのだ。


 「あなたの土地は、後者ですね」とは言わない。


 「押さえている者より強い者が要ります」とだけ言う。


 言継は、湯を汲もうとして、やめた。


 礼を言えば、この子は帰る。礼を言われれば、この子は「何もしておりませぬ」と言う。そのやりとりが、余計である。


 だから、言継は、こう言った。


「侍従どの。今日は、銭の話はせぬぞ」


「は」


「今日は、せぬ」


 実初は、うなずいた。うなずいて、それ以上聞かなかった。


 実初が帰ってから、言継は薬研を挽き続けた。挽く必要のない量を、挽き続けた。


 二十年である。


 二十年、朝廷の銭を回してきた。即位式を挙げさせた。帳外の受取を自分の手で書いた。諸国を回って、頭を下げて、銭を貰ってきた。


 そして、自分の土地を、幕府に取られた。


 言継は、手を止めた。止めて、しばらく、薬研を見ていた。


 日記を取った。


 書くかどうかで、筆が止まった。


 書けば、残る。幕府に土地を取られたことも、残る。


 だが、書かなければ、いつか山科荘が戻ったとしても、なぜ一度失ったのかが消える。


 言継は、筆を取った。


  山科郷、幕府より年貢納入停止の由。


 それだけ書いて、筆を置いた。


 理由は書かぬ。書けば恨みになる。恨みは帳に載せてはならぬ。


 季富も、そうであった。「不記」と書いた男である。


 書かないことを、書いた。


 わしは、書いた。理由だけ、書かなんだ。


 どちらが正しいのかは、分からない。分からないが、書いたものは、残る。


天文十七年(1548年) 八月  京  河鰭邸  河鰭実初


 実初は、書庫に座って、動かなかった。


 手が、ある。思いついている。思いついていて、打たないと決めた。


 決めるまでに、三日かかった。


 山科荘は、幕府に押さえられた。訴訟では、戻らない。押領したのが幕府だからである。


 幕府の外から届く道は二本ある。


 一方は、上様の伯父で坂本にいる近衛稙家へ、公頼を通して働きかける道。清華家の当主である公頼なら近衛と話せ、幕府の内側から命令そのものを取り消させられる。


 もう一方は奥を介し、禁裏から「山科家領の年貢を阻むな」と女房奉書を出させる道だった。姉が触れられる、十二年前に帳外の裁可を通した道である。


 実初は、そこまで道筋を確かめて筆を置いた。


 両方とも届くが、打たない。


 この人は貸しを作られるのを嫌う。恩を売れば、対等でなくなる。いま、実初と言継は、同じ帳を読んでいる者同士である。恩を売れば、それが上下になる。上下になった相手とは、十年は付き合えない。


 実初が動いたと知れれば、幕府方から見て、こうなる。


 「河鰭が、幕府の押領を潰した」


 十三である。十三で幕府に喧嘩を売ったことになる。


 そして、いちばん大きいもの。


 姉の名を表に出せない。奥を使えば、いつか誰かが「誰が通したか」を辿り、十二年前に行き着く。


 実初は、紙に二行だけ書いた。


  動かない。

  だが、結果として動く。


 三日考えた末、公頼には近衛の大殿が坂本におられるという事実を雑談として置き、姉には山科荘の押領と、山科が天文五年の帳外を知るもう一家であることだけを渡すと決めた。


 どちらにも頼まない。


 公頼は自分の判断として近衛へ書き、九年薬を送り続けた姉は借りを返すために動く。そうなれば、誰にも「頼まれた」と言わせず、自分は何もしない形になる。


 山科邸へは、いつもどおり通う。土地の話は、一度もしない。


 実初は、それを書いてから、しばらく紙を見ていた。


 上手い。自分でも、そう思った。


 思って、そこで少し、嫌な気持ちになった。


 姉に、頼んでいない。頼んでいないが、動くと分かっている。分かっていて、事実だけ渡す。


 それは、頼むより悪いのではないか。


 頼めば、姉は断ることができる。事実だけ渡せば、断る形がない。


 実初は、その紙を火にくべた。


 くべてから、こう思った。


 燃やしても、やることは変わらぬ。燃やしたのは、書いたものが残るのが怖かったからだ。


 朽木への一行と、同じである。


 八月。実初は三条邸へ行った。いつもの故実の用である。甲斐からの問いが、また来ていた。


 その帰り際に、一つだけ置いた。


「近衛の大殿は、坂本におられると伺いました」


 公頼は、扇を止めた。


「……うむ」


 それだけである。実初は頭を下げて帰った。


 通じなければ、また別の日に置く。


 同じ月、局でも事実だけを言った。


 姉は黙って聞き、やがて尋ねた。


「……実初」


「はい」


「私に、何かせよと仰せですか」


 実初は、答えに詰まった。


 見抜かれた。いや、見抜かれるに決まっている。この人は、三十一である。弟が事実だけを持ってくる意味を、知らないはずがない。


 実初は、正直に言うことにした。嘘をつけば、この人には分かる。


「申し上げれば、姉上は断れませぬ」


「はい」


「申し上げねば、姉上が御自分でお決めになります」


「ですから、申し上げませぬ」


 姉は、しばらく実初を見ていた。それから、こう言った。


「実初。それは、頼むより、たちが悪うございます」


 実初は、頭を下げた。


「存じております」


「存じておって、なさるのですか」


「はい」


 姉は、それきり何も言わなかった。湯を注いで、置いた。


 昔なら、そこで弟の顔を見ただろう。いまは、見なかった。


 そして、実初が帰るとき、こう言った。


「……動きます」


「姉上」


「あなたのためではありませぬ」


 姉は、そう言った。


「九年、薬を送りました。あの御方は、受け取ってくださいました」


「山科さまは、十七度、断られました」


「断られ続けた人の家が、潰れるのを、見とうございませぬ」


 実初は、頭を下げた。


 断る形を残さなかったつもりだった。姉は、その中に自分の理由を一つ立てた。


 近衛稙家が動いた。押領の命令が、取り消された。言継は、坂本へ礼に行った。薬を持って。


 実初は、その報せを、公頼から聞いた。


 公頼は、こう言った。


「近衛の大殿が、間に入られたそうな」


「さようでございますか」


「わしが、文を書いた」


 公頼は、そう言って、扇を開いた。


「あの日、そなたが妙なことを申したのでな。坂本におられる、と」


 そして、公頼は、こう続けた。


「妙なこともあるものよ」


「は」


「わしの文が届く前に、奥からも同じ話が上がっておったそうじゃ。誰が上げたかは、聞いておらぬ」


 公頼は、扇を閉じた。


「聞かぬほうがよい話も、ある」


 実初は頭を下げた。


 動いた。姉は公頼より先に動き、その名は出ていない。


 実初は何も言わなかった。


 言継は坂本から戻り、いつもの薬の部屋にいた。挽きながら、顔を上げずに言った。


「侍従どの。……近衛の大殿に、取り消していただいた」


「さようでございますか」


 それだけ言った。


 言継は、しばらく薬研を挽いてから、続けた。


「三条どのが、動いてくださったらしい」


「存じませぬ」


「そうか」


 薬研の音が、少し止まった。


「……侍従どの」


「はい」


「わしは、算用が得意でな」


「存じております」


 言継は、顔を上げなかった。


「わしは、借りを寝かせておけぬ性分でな」


 そう言って、また挽き始めた。


 実初は頭を下げた。


 礼は言われず、それがいちばん重かった。


 貸しを作らぬようにした。作らぬように、三日かけて筋を引いた。それでも、この人は借りにした。


 自分が動かなくても、動いたことは伝わる。伝わったものは、こちらの意図では消せない。


 だが翌年、実初はもう一つ知ることになる。


 年貢は、戻らなかった。


 取り消しの書付は、出た。出たが、現に押さえている者が、それで手を離すわけではない。


 紙の上では、勝った。


 田は、動かなかった。


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