下座
天文十六年(1547年) 七月二十一日〜十一月 摂津・京・堺 松永久秀
右筆である。だから、戦の日は、後ろにいる。
筆を持って二十年になる。三好の家に入って、まだ長くはない。
手前は、揃える役にございます。兵の数、兵糧の数、道の数、日の数。主が動く前に、それを揃える。
この日、朝から動いた。相国寺に布陣したのが、九日前である。
主は、二十六。三好孫次郎範長。
若い。若いが、久秀の見るところ、この主は急がない。急がぬ者は長くもつ。
一刻ほどで、細川氏綱・遊佐長教の軍が崩れた。
応仁より畿内でこれほどの戦はない、と誰かが言った。
久秀が見ていたのは首の数ではない。この一日で、誰が主の名を覚えたか、である。
三日後、久秀は京に入った。
薬を買う用があった。陣中に要る。そして、聞き耳を立てる用もあった。京の噂を集めるのは、右筆の仕事である。
公家の口が、面白かった。
「細川右京大夫さまが、京を取り戻された」
みな、そう言っていた。
誰も、こう言わなかった。
「三好が勝った」
久秀は、それを聞いて、しばらく歩いた。
この京は、勝った者の名を口にせぬ。
なぜか。考えて、答えが出た。
口にすれば、認めたことになるからだ。三好は、細川の被官である。陪臣である。陪臣が勝ったと言えば、主従が逆だと認めることになる。
だから、言わない。言わねば、無かったことになると思うておる。
久秀は、その考えを腹の底に置いた。
主は、いずれこれで困る。兵で勝っても、名が残らない。名が残らなければ、次の代に何も渡らない。渡らぬものは、家にならぬ。
久秀は、それを主に申し上げるべきかどうか、迷った。迷って、その年は言わなかった。
言い方が、分からなかったのである。
薬種問屋の奥座敷である。久秀は、陣中に納める薬をまとめて買いに来ていた。
その帰り際に、主人が言った。
「松永さま。奥に、京の御方が」
「どなたじゃ」
「昨日から、唐薬の値を聞いておられます」
久秀は、少し、面白いと思った。
「商人か」
「いえ」
主人は、言いにくそうにした。
「公家さまの、お子でございます」
通されると、十二か十三の子供が座っていた。童形ではない。元服している。供は、家司が一人。
久秀は、まず座次を測った。
さて、どこへ座る。相手は公家である。だが、子供である。位は。分からぬ。
分からないので、久秀は下座に座った。分からぬときは、下がる。二十年、それでしくじったことがない。
「松永甚介久秀と申しまする」
子供が、頭を下げた。
「河鰭実初にございます」
河鰭。
久秀は、その名を頭の中で繰り返した。羽林家。十年、当主のいなかった家である。去年、童が立ったと聞いた。
「御元服、お済みにございますな」
「昨年の十一月にございます」
「して、御官は」
子供は、少し間を置いて、こう答えた。
「ございませぬ」
久秀は、初めて、この子を面白いと思った。
「では、御位は」
「従五位下にございます」
位はある。官はない。
久秀は、二十年、諸家の名簿を見ている。そういう者が、京に何人もいる。位だけ出て、席が来ない者が。
「河鰭さま」
久秀は、そう呼んだ。官がないので、名で呼ぶしかない。呼びにくい。
その呼びにくさが、そのままこの子の立場である。
半日、薬の話をした。
子供は、麝香の元値を知っていた。堺での中間の乗せ方も知っていた。
商人に習うたな、と久秀は見た。
河鰭は一つだけ聞いた。
「陣中では、何がいちばん要りまする」
「傷薬にございます」
「麝香は」
「主が、たしなみまする」
子供は、うなずいた。うなずいて、それきり薬の話をやめた。
久秀は、そこが分からなかった。半日、値を聞いていた者が、麝香の使い道を一つ聞いただけで止めた。
聞きに来たのは、値ではなかったのかもしれぬ。
帰り際に、子供がこう言った。
「松永どの。高雄の在は、今年から年貢が入りませぬ」
久秀は、顔を上げた。
そこか。
七月のことである。丹波から入った兵が、あのあたりを焼いた。戦である。焼くのは、珍しくもない。
「……戦にございまする」
「存じております」
子供は、うなずいた。うなずいて、こう続けた。
「そのことは、帳に残りまする」
久秀は、動きを止めた。
「帳、と申されますると」
「入るはずの物が、入らなかった年にございます」
子供は、静かに言った。
「入らなかった理由も、書かれます」
「書いた者は、忘れます」
「書かれた物は、忘れませぬ」
子供は、それだけ言って、頭を下げて、出ていった。
久秀は、しばらく座敷に座っていた。
脅されたのか。
いや、脅しではない。脅すなら、「三好が焼いた」と言う。この子は、そう言わなかった。「入らなかった理由も、書かれます」と言った。
書くのは、こちらではない。あちらである。
久秀は、初めて、背中が冷えた。
手前どもは、兵で勝っておる。舎利寺で勝った。畿内に名が轟いた。だが、京の公家は誰も「三好が勝った」と言わない。
言わないから、帳にも、そう載らぬ。
では、何が載る。
焼いた、ということだけが載る。
久秀は、立ち上がった。
二十年、筆を持ってきた。筆を持つ者が、いちばんよく知っていることが一つある。
書かれた物は、あとで読まれる。読むのは、いま生きている者ではない。五十年、百年あとの、まだ生まれておらぬ者である。
その者たちは、こちらの言い分を聞かない。残っている紙を、読むだけである。
主に、申し上げることが一つできた。
京を、焼いてはならぬ。焼けば、そこに住まう者を、二度と味方にできぬ。
そして紙の上には、焼いたことだけが、残る。
天文十六年(1547年) 十一月下旬 京 河鰭邸 河鰭実初
甲斐から、使者が来た。
公頼の娘が、武田大膳大夫の室である。あちらから、任官の作法を問うてくる。公頼が、そう言った。その問いが、三条家を経て、この家に回ってきた。
使者は、家老格であった。
格を上げて寄越した。
去年、滋野井は断られると思って諸大夫を出した。甲斐は、断られるとは思っていない。それでも家老を出した。
軽く見ていない、ということである。
礼状の書き止め、位記・口宣案を受けた後の家中への披露、朝廷へ出す進物目録の書式。三つの問いは、文箱の三つ目と頭に入れた十一箱で全部答えられた。
書き止めの型を三通り、披露の順と目録の書式をそれぞれ一通り示した。
使者は、書き取りながら時々手を止めた。知らなかった顔である。
ただ、実初は書かなかったことがある。
受領名と官職の、格の序列である。誰が何を名乗ると、誰と同格になるか。他家との比較。そして、次に何を望むべきか。
それは、書かない。書けば、一度で終わる。
代わりに、最後に一行だけ添えた。
なほ委しくは、御使者を賜はり候はば、口づから申し上ぐべく候。
続きは、人を寄越せば話す。
使者は、書付を受け取ってから、しばらく懐へ収めなかった。余白を見ている。
やがて、去り際に聞いた。
「御礼は、いかほど」
実初は、頭を下げた。
「書いておりませぬ」
「……は」
「当家は、値を書きませぬ」
公頼の条件である。値を書けば、商いになる。書かなければ、相手が決める。
そして、相手が決める額は、相手の格を映す。
甲斐は、安くは払えぬ。三条家の縁で問い合わせた話である。安く払えば、三条に対して安く見たことになる。
使者は、しばらく困った顔をして、帰った。
礼が、届いた。二つあった。
一つは、砂金である。実初は、それを見て、額を計算した。
多い。思っていたより、遥かに多い。甲斐は、金山を持っている。
もう一方を見て、実初はしばらく動かなかった。
葦毛の馬が一頭、四、五歳ほど。
河鰭邸には厩がない。牛を売ったときの跡が、そのままになっている。十年、空いている。
実初は、そこに立って、しばらく馬を見ていた。
清六が、後ろに来た。
「……若さま」
「うむ」
「牛を売りましてございます」
実初は、答えなかった。
清六が、続けた。
「十年前に、手前が」
「うむ」
「馬が、参りました」
実初は、清六の顔を見た。
六十を過ぎた家司が、厩の跡を見て、泣きそうな顔をしていた。
この男は、十年、ここを片づけなかった。片づければ、二度と戻らないと思ったのだろう。
実初は、何も言わなかった。言えば、この男は「申し訳ございませぬ」と言う。言わせても、仕方がない。
代わりに、こう言った。
「清六」
「へえ」
「藁を、買え」
「……へえ」
「厩を、直せ」
「へえ」
清六は頭を下げ、しばらく上げなかった。
その夜、実初は砂金を前に座った。
使い道は、いくつもある。
小山への反物の掛け。
葛野三か村の代官の立て直し。
官を取るための口宣案や、蔵人所への礼。
諸方の心付け。
砂金は多いが、できるのは一つだけだった。
小山への掛けを返す。
宗琢は「催促せぬ」と言った。「当たりが出るまで待つ」と。
まだ、当たっていない。いま返せば、この人の賭けは、そこで終わる。終われば、次は出さない。
返さぬほうが、繋がる。
実初は少し嫌な気持ちになった。返せるのに返さないのは、返せないのとは違う。
葛野の三か村に代官を立てれば、年に幾らか入る。だが毎年、少しずつである。
侍従の官なら違う。
位はあっても官がなければ、どこへ行っても「河鰭さま」と呼ばれ、相手は扱いに困る。堺で久秀という男が下座に座ったのも、そうだった。
分からぬから、下がった。
いつも下がってもらえるとは限らない。
実初は、決めた。三つ目にする。
家領は、来年でも入る。掛けは、繋げておく。官は、いま取らねば、来年も取れぬ。
砂金は、たぶん全部消える。実初は、そう見積もった。
一年で稼いだものが、一日で消える。だが、消えたあとに、呼び名が残る。
十日後、実初は山科邸へ行った。言継は、薬を挽いていた。
「侍従を、賜りとうございます」
「……ほう」
言継は、手を止めずに言った。
「銭は」
「甲斐より、砂金が参りました」
「いかほど」
実初は、額を言った。隠さなかった。隠す理由が、思いつかなかった。
言継は算木を弾き、やがて言った。
「足りる」
「は」
「足りるが、全部消えるぞ」
「構いませぬ」
「なぜじゃ」
実初は、答えた。
「官のない者は、どこへ参っても童にございます」
言継が、初めて手を止めた。
「童の話は、」
実初は言った。
「聞き流されます」




