第八話:素晴らしき人生‐Wonderful Life
「一緒に来ないか」とルカは言った。
めったにない誘い方だった。いつもはルカのほうが誘われるのを待つ側。エドワードに何かを乞うことを、ルカは注意深く避けてきた。その彼が自分から、一緒に来てくれと言っている。それがどれほどのことかエドワードには分かった。自分の未来になりかけている場所を、この男に見てほしいのだ。一緒にその扉の前に立ってほしいのだ。
エドワードは、行く、と即座に言いたかった。
◇ ◇ ◇
ルカが夜間大学の下見に行くと言いだしたのは二月のはじめだった。
願書の締め切りまではまだ間がある。それでも彼は出願する前に一度、その校舎を自分の目で見ておきたいのだと言った。
その口ぶりにはこれまでにない張りがあった。何を言うにも半分は諦めをにじませる、あの癖が、その日は薄い。夜間課程の冊子を「見せるともなく」テーブルに置くのではなく、自分から開いてエドワードに見せた。ここの図書館は蔵書が多いらしい、ここの講義は土曜にもある、働きながらでも四年で出られる——そういうことを彼はひとつずつ確かめるように話した。十年、閉じていた扉の前で、ようやくその取っ手に手をかけようとしている男の顔。
エドワードはその顔を見ているのが好きだった。
隣のカウンティ(県)の、海から少し内陸へ入った街にある大学だった。車で二時間ほどの距離。ルカは「決めたわけじゃない」と相変わらず前置きしながら、しかしもう半分は決めている顔をしていた。
その顔で、一緒に来ないか、と彼は言ったのだ。
◇ ◇ ◇
行く、と言えなかったのは、その週末に学科の会議があったからだ。
くだらない会議だった。来年度のカリキュラムの、誰も本気で議論したくない調整。出席を取るわけでもない、欠席したところで誰も困らない、そういう類の会議。
欠席もできたはずだ。後になってエドワードは何度もそう思う。あの会議など欠席すればよかった。あの週末、自分がルカの隣に座って二時間の道を一緒に走り、あの校舎を一緒に見ていたら——その後の何かが少しでも違っていたかもしれないと。だがそのときの彼は長年の習性で大学の務めを優先した。役割がいつも彼の本心の前に立ちはだかる。
「すまない、その週末はどうしても外せない」と彼は言った。別の週末ではどうか、と。
「願書の前に見ておきたいんだ」とルカは言った。少し残念そうだった。だがすぐにいつもの淡白さで「いいよ。一人で行く」と言う。それから彼は何気ない調子でこう続けた。
「車、貸してくれないか」
エドワードは一瞬だけ間を置いた。
その一瞬が何だったのか、彼は長く、考えないようにしてきた。あの車を誰かに預けるなど、これまで一度もなかった。妻にも、娘にも。ハンドルを握らせたのは、あの海辺の日のルカが最初で、それきりだ。だがあのときは、自分が助手席にいた。手放したわけではない。あれは他人の手に委ねるものではなかった。自分の人生のいちばん良かった頃が、そのまま形になったものだったから。
だがその逡巡はほんの一瞬で溶けた。むしろ、自分が一緒に行けないことへの後ろめたさがその逡巡を押し流す。埋め合わせを何かしてやりたかった。一緒に行けない代わりに、せめて自分の最も大切なものを彼の下見に同行させたかった。
「いいよ」とエドワードは言った。「むしろ、しばらく使っていればいい。返すのは急がなくていい」
ルカは驚いた顔をする。本当にいいのか、と。あの車がエドワードにとって何なのか、ルカはもう知っていた。だからこそ驚いていた。
「君が乗ったほうが、あの車も喜ぶ」とエドワードは笑って言った。
その日の夕方、エドワードはルカをガレージへ連れていった。
深緑のアストンマーチンがいつものようにそこに眠っている。エドワードは埃よけのカバーを剥いだ。そして鍵を手のなかでしばらく見ていた。二十五年、自分の手を離れたことのない鍵。
彼はその鍵をルカに差し出した。
ルカはすぐには受け取らなかった。その傷のある手を一度、作業着の脇で拭ってから——まるで汚れた手で触れてはいけないものに触れるかのように——それから受け取った。鍵は小さく金属の音を立てる。
「俺が、これに乗っていいのか」とルカは言った。冗談めかしていたが、その声には本当の戸惑いがあった。
「いいんだ」とエドワードは言った。「君だから」
あの停電の前の、海辺のドライブで言ったのと同じ言葉だった。君だからだ、と。あのときは助手席にエドワードがいた。だが今度はルカが一人でこの車を運転していく。エドワードのいない二時間の道を。自分の未来へと続く道を。
ルカは運転席のドアを開けた。そしてシートに座り、両手をハンドルに置く。その姿をエドワードはガレージの薄明かりのなかで見ていた。深緑の車に収まった若い男。それは奇妙なほどしっくりと来ている。まるで最初から、この車はこの男のためにあったかのように。
エンジンをかけると、腹の底に響く低い唸りがガレージに満ちた。ルカはその音に少し驚いた顔をした。それから笑った。子供のような笑顔。
「すごい音だ」
「だろう」とエドワードは、なぜか自分のことのように誇らしかった。
あの車も喜ぶ、というのは嘘ではなかった。だがすべてでもない。彼は自分でもうまく言葉にできない何かを、その申し出のなかに混ぜていた。
ルカはいま、未来へ歩きだそうとしている。夜間大学、学位、この港町の外。それは喜ばしいことのはずだった。エドワードはそう思おうとしていた。だがその喜びの底に薄い、冷たい層がある。
ルカが本当に学びはじめ、本当にここを出ていったら、自分の手の届かないところへ行ってしまう。エドワードは五十二だった。ルカは二十七。どう数えてもルカには未来があり、自分にはもうそれほどない。いつかこの若者は当然のように自分を置いて先へ行く。そのことをエドワードはどこかで恐れていた。
だから、何か。何か、自分のものを彼に持たせておきたかった。深緑の、自分の人生がそのまま形になったあの車を彼の手元に置いておけば、ルカは完全には、遠くへ行けない。細い紐が一本だけ二人の間に残る。その紐の端を自分が握っていられる。
むろん、そんなふうにはっきり考えたわけではない。エドワードはただ好意で車を貸す、寛大な年上の男のつもりでいた。その底に何が沈んでいたかに彼が気づくのはずっと後のことだ。あの車が紐どころか鎖になってこの若者を縛り、そして——そこまでは、このとき考えもしなかった。
鍵を渡したあと、二人はしばらくそのまま話した。
「春になったら」とエドワードは言った。「下見じゃなく、ただ走ろう。海沿いを。君の運転で、どこか遠くまで」
「いいな」とルカは言った。その顔はめずらしく何の警戒もなくほどけていた。「夏になったら、もっといい。海で泳げる」
「冷たいぞ、ここの海は」
「俺は平気だ」とルカは笑った。「子供の頃から入ってる。あんたは足だけ浸けてればいい。学者先生はそれくらいがちょうどいい」
「失礼なことを言うな」
「本当のことだ」
二人はまだ来ていない夏のことを話した。
どの浜がいいか、何を持っていくか、泳いだあとに何を食べるか。ルカは、港のはずれに地元の人間しか知らない小さな入江があると言った。観光客は来ない、岩場だが水が驚くほど澄んでいる、と。そこへ連れていく、と彼は言った。あんたを。
「弁当を作っていこう」とルカは言った。「母さんの作る、あれを。あんたに食わせたい」
あの母国の菓子を作る母の、料理だろう。エドワードはまだそれを食べたことがなかった。母の部屋で菓子を持たされたことはあったが。
「楽しみにしている」とエドワードは言った。
「それから」とルカは続けた。話すうちに彼の声はだんだん弾んできていた。「夏が終わったら、もう夜間大学が始まってる。週に何回か、あの街に通うことになる。車があれば楽だ。仕事の後で急いでも間に合う。——いや、車は返すよ。さすがに、ずっと借りてるわけには」
「いいから」とエドワードは言った。「使えばいい。君が使ったほうが、あの車も走れて喜ぶ」
ルカはエドワードを見た。何か言いかけてやめた。ありがとう、とでも言おうとしたのかもしれない。だがこの男は礼を言うことを注意深く避ける男だった。恵まれることを恐れる男。だから彼はただ頷いた。その頷きのなかに、言葉にされないたくさんのものがある。
とりとめのない話だった。けれど、未来形でしか語れない話だった。
エドワードが誰かと未来形で話すのは何年ぶりだったろう。論文も結婚生活も、とうに過去形か、せいぜい現在形で停滞している。来年も再来年も自分の人生は今と同じようにただ続いていくだけだと思っていた。何も期待せず、何も待たず。
その彼が春の、夏の、これからの話をしている。次の季節に自分の身に何か良いことが起こると信じている。ルカという若者が彼の時制を未来へ向けて回しはじめていた。止まっていた時計の針がまた進みはじめている。
素晴らしい人生だ、とそのとき思ったわけではない。
人はいちばん幸福なときに、それを幸福と名指したりはしない。ただ当たり前のように次の季節の話をする。海の話を、車の話を、まだ食べていない食事の話を。それが幸福だったと分かるのはいつも、それが失われたあとだ。失ってから振り返って、ああ、あれが、と気づく。あのとき自分はたしかに幸福だったのだと。
ルカはその週末、一人でDB7に乗って下見に行った。
戻ってくると彼は少し興奮していた。いつも淡白なこの男がめずらしく言葉を継いだ。図書館が大きかった、と彼は言った。天井まで本が詰まっていた、開架で誰でも触れる、貸し出しも自由だと。講義の棟は古いがよく手入れされている。事務の人間が親切で、社会人の編入について丁寧に説明してくれた。食堂の飯が安くて旨かった、と、そんなことまで。
車もよく走った、とルカは言った。二時間の道を一度も止まらずに。高速に乗ったら、あの低い唸りがずっと腹に響いてた。気持ちよかった、と。あんたがこの車を手放さなかった理由が少し分かった気がする、と。
エドワードはそれを聞いている。ルカがこんなにも喋るのを初めて見た。この男の内側にこんなに多くの言葉がずっとしまわれていたのだ。出す場所がなかっただけで。その言葉がいま、未来という出口を見つけて溢れ出している。
「願書を出す」と彼は言った。
今度は「決めたわけじゃない」とは言わなかった。
「出すよ。決めた」
エドワードは頷いた。胸の奥が温かかった。この若者の未来がいま始まろうとしている。その始まりに自分が少しでも関われたことが誇らしかった。
その車はそれきりルカのところにあった。エドワードは返せとは言わなかった。返してほしくなかったからだ。あの車がルカの部屋の前に停まっている。そう思うだけで二人がまだ繋がっているように感じられる。細い紐はまだそこにあった。
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倉庫の鉄扉をエドワードは開けられずにいた。
病院から戻って数日が経っていた。深緑のアストンマーチン、その残骸はレッカーで運ばれ、いまはこの貸し倉庫の暗がりにブルーシートをかけて置かれている。
修理工場は廃車を勧めた。保険会社も警察もそれぞれの書類を片づけて去った。エドワードに残されたのは、潰れた鉄の塊をどうするか決めることだけ。
だが、彼は決められなかった。修理もできず、廃車にもできない。それを、潰された一個の物として処分してしまえば、何かが本当に終わってしまう気がした。あの細い紐の、最後の一本まで自分の手で断ち切ってしまう気がした。
彼は鉄扉の前に立ったまま、結局、扉を開けなかった。
春になったら、ただ走ろう、と言った。海沿いを、君の運転で、と。澄んだ入江に連れていってくれるはずだった。母の弁当を食べさせてくれるはずだった。足だけ浸けていればいい、と笑われるはずだった。
その春はもう近くまで来ていた。春の温もりが積もった雪を溶かし、その雪解け水が港のほうへ流れていく。約束した季節だけが、約束された相手のいないまま律儀に巡ってきていた。




