第七話:港の水‐The Water
ルカの働く港をエドワードが初めて見たのは、よく晴れた風の強い日のことだった。
その日、エドワードは大学の用事で、ふだんは来ない港の近くまで足を運んでいた。
用は思いのほか早く片づき、午後の予定まではまだ間がある。帰ろうとして、ふと潮の匂いに気づいた。海が近い。そう思った瞬間、自然とルカのことが頭に浮かんだ。
そういえばルカの仕事場はこの港のどこかのはずだった。考えてみればエドワードは、ルカの働く姿を一度も見たことがない。話には聞いていた。荷役、フォークリフト、十年。だがそれがどういう場所で、ルカがそこでどんなふうにしているのかを彼は何ひとつ知らなかった。
エドワードの知るルカは、いつもエドワードの家にいるルカだった。本を読み、海を見て、火明かりのなかで笑う、あのルカ。だがこの男には、エドワードの知らない時間が十年分ある。その時間のなかのルカを見てみたい。そう思うともう足が止まらなかった。
午後の予定のことは頭から消えている。エドワードは潮の匂いをたどって港のほうへ歩きだしていた。
近づくにつれて音が変わっていった。
大学のあるあたりの、抑制された静けさとはまるで別の世界だった。金属が金属を打つ音。クレーンの軋み、エンジンの唸り、何かを怒鳴る声。それらが強い風に乗って混ざり合いながらエドワードの耳に押し寄せてくる。
大学でエドワードが慣れ親しんできた音は、もっとささやかなものだった。ページを繰る音。チョークが黒板を擦る音。学生たちの控えめな私語。図書館の、咳払い一つ憚られる静寂。エドワードの世界は、音を立てないことを美徳とする。声を潜め、足音を忍ばせ、思考は紙の上で静かに進む。
だがここは違った。ここでは音は大きいほどいい。怒鳴り声は合図であり、機械の唸りは仕事が回っている証。沈黙はここでは、停止を意味する。エドワードは、その剥き出しの生きた騒音のなかに立っていた。場違いな、静かな世界からの訪問者として。
港湾の敷地は立ち入りが制限されている。エドワードは仕方なく金網のフェンスの外からなかを覗いた。
巨大なクレーンが天空に反り立つように何本も突き立っている。色とりどりのコンテナが信じられない高さまで積み上げられ、その峡谷のような隙間をフォークリフトがせわしなく行き来していた。
その、すべてが大きかった。
コンテナの一つひとつが家ほどの大きさだった。それをクレーンが軽々と吊り上げ、運び、また降ろす。人間の力ではびくともしないはずの鉄の塊が、まるで玩具のように宙を舞っていた。エドワードはその光景に圧倒された。彼が生涯をかけて扱ってきたものは言葉だった。重さのない、形のない、紙の上の記号。だがここで扱われているのは本物の、重さのあるもの。何トンもの鉄と貨物。世界が実際に動いている場所。物が海を渡り、陸に上がり、またどこかへ運ばれていく、その結節点。
男たちがいた。
ヘルメットをかぶり蛍光色のベストを着た、たくさんの男たち。彼らは皆、何かを運び、何かを操り、何かを怒鳴り合っていた。その動きにはエドワードには読み取れない秩序がある。一見、混沌としているようで、その実すべてが噛み合っている。誰がどこで何をするか、言葉にされずとも決まっている。長年、同じ現場で体に叩き込まれた秩序。エドワードには入っていけない種類の秩序だった。
そのなかにルカがいた。
エドワードはすぐには彼を見つけられなかった。ヘルメットとベストの男たちは遠目には皆、同じに見える。だがやがて、その中の一人がルカだと分かった。
彼は重い何かを別の男と二人がかりで運んでいた。腰を落とし、声をかけ合い、タイミングを合わせて持ち上げる。その動作に無駄はない。長年の経験によって体に叩き込まれた動きなのだろう。
それはエドワードの知っているルカではなかった。
エドワードの家で、火明かりのなかでキーツを読む物静かな読書家。海を見ながらランボーを諳んじる、憂いを帯びた若者。エドワードの知るルカはそういう男だった。
だがここにいるルカは違った。同僚と軽口を叩き、大声で笑い、汗を流し、重いものを担ぐ一人の労働者。たくましく生き生きとして、そして——その世界に完全に属していた。
エドワードはフェンスの外に立ったまま、しばらくその光景を見ていた。
奇妙な感覚だった。自分はこの男のことをよく知っているつもりでいた。肌を合わせ、心を交わし、互いの孤独を分け合ってきたのだから。だがこうして見ると、自分の知っているルカは彼の一部にすぎなかったことが分かる。彼にはエドワードの知らない時間が十年分ある。エドワードの家の外に、エドワードとは無関係な彼自身の人生がこんなにも確かにあった。
その十年をエドワードは何も知らない。この男が何度ここで重いものを上げ下ろしし、何度汗をかき、何度あの傷を手に負ったのか。何も知らない。エドワードが大学で静かに論文を書いていた、その同じ時間に、この男はここでこうして生きていた。二つの人生はすぐ近くにありながら決して交わらなかった。あの雨の坂道でぶつかるまでは。
そしてもう一つ、エドワードが感じたのは、自分がここでは何の役にも立たないということだった。
大学では彼は教授だった。言葉を操り、学生を導き、知識を与える側。その世界では彼の言葉に重みがある。彼が何かを言えば学生はノートを取り、同僚は頷く。
だがここでは、彼はただの場違いな中年の男だった。フェンスの外に立ってなかを覗いているだけの部外者。
この場所で必要とされる力——重いものを運び、機械を操り、危険のなかで仲間と呼吸を合わせる力を、彼は何ひとつ持っていなかった。もしいまこのフェンスのなかに入れと言われても、彼には何もできないだろう。一つのコンテナも動かせない。一台のフォークリフトも操れない。仲間の合図一つ読み取れない。彼の知識も肩書きも、ここでは一切通用しない。
いつも与える側だった彼が、ここでは何も与えられるものがなかった。むしろこの現場に紛れ込めば足手まといになるだけだ。守られ、避けられ、邪魔にされる、何もできない年寄り。それがこの場所でのエドワードの価値だった。
その感覚はエドワードには新鮮で、そして少し怖かった。自分が何者でもないという感覚。肩書きを剥がされ、知識を無効にされ、ただの無力な一人の男として世界の前に立たされる感覚。彼は長いあいだそれを忘れていた。教授という鎧のなかで。
昼の休憩のとき、エドワードはルカに気づかれた。
ルカはフェンスの外のエドワードを見つけて驚いた顔をした。それから少し笑って近づいてくる。ヘルメットを脱ぐと、汗で濡れた黒髪が額に張りついていた。
「どうした。こんなところで」
「近くに用があってね」とエドワードは言った。「君がここで働いているんだと思ったら、つい」
ルカはフェンスの内側に立ち、エドワードは外側に立っていた。金網が二人のあいだにある。ルカはポケットから煙草を取り出し火をつける。二人はその金網越しに、しばらくたいしたことのない話をした。仕事のこと、午後の予定、今夜は来られるか、というようなことを。
金網が二人を隔てていた。その菱形の規則的な格子の向こうにルカがいる。手を伸ばせば触れられる距離なのに、あいだには金網がある。エドワードはその金網を奇妙な気持ちで見ていた。まるで、それが二人の関係の何かを象徴しているかのように。すぐ近くにいるのに別々の世界にいる二人。
そこへ一人の、ルカの同僚が通りかかった。
大柄な男だった。彼はフェンスの外のエドワードをちらりと見た。エドワードの上等なコートと場違いな佇まいを。それからルカに無造作に訊いた。
「知り合いか?」
「まあな」とルカは答えた。
それだけだった。
「そうか。じゃ、またな」と男は言って立ち去った。
エドワードは黙っていた。
その一瞬、自分でも思いがけないほど彼は身構えていた。ルカが自分をどう紹介するのか。何と呼ぶのか。友人、と言うのか。それとも、もっと別の何かを。彼は固唾を呑んでそれを待っていた。
いつもの癖だった。関係に名前をつけ、その名前のなかで自分の居場所を確かめたいという。
だがルカは「まあな」とだけ言った。そして同僚は「またな」と去る。それですべてが済んでしまった。
エドワードは複雑な思いでその場に立っていた。
傷ついた、と言えば傷ついたのかもしれない。自分はこの関係をこんなにも重く抱えている。眠れない夜があり、書けない論文があり、壊れかけた結婚があり、そのすべてを揺るがすほどの何かを、この若者とのあいだに感じている。それなのに、ルカにとっては、それは「まあな」の一言で足りる程度のことなのか、と。
だが、それだけではなかった。エドワードはその「まあな」の軽さに、どこか羨ましさのようなものも感じていた。
ルカの世界では関係に名前などつけなくてよかった。「知り合いか」と訊かれれば「まあな」で足りる。誰もその先を詮索しない。男同士が、年も身分も違う相手とどういう関係なのか——そんなことをここでは誰も気にしない。
エドワードが書類上の身上欄や、世間体や、娘にどう説明するかや、そういったものすべてに縛られて身動きが取れずにいるのに、ルカとこの港の男たちは自分と違い、自由に見えた。
名前をつけないことはごまかしではなく自由なのかもしれない。エドワードはそのとき初めてそう思った。だが彼自身は、その自由をついに手に入れることができなかった。最後まで。書類の「友人」というたった六文字にすべてを押し込めることになるのは、もっとずっと後のことだ。
ルカが煙草を足元で揉み消した。
「もう行く」と彼は言った。「午後の分が待ってる」
「ああ」とエドワードは言った。「邪魔したな」
「夜、行く」とルカは言って背を向けた。ヘルメットをかぶり直し、コンテナの峡谷のほうへ戻っていく。その背中はすぐに、たくさんの同じような背中のなかに紛れて見分けがつかなくなった。
エドワードはしばらくフェンスの外に立っていた。
風が強い。海のほうから絶え間なく吹きつけてくる潮風。コンテナの隙間を抜けるとき、その風が低く唸るような音を立てる。
エドワードはコートの襟を立て、その音を聞いている。ルカは毎日この音のなかで働いているのだ。
この風とこの騒音のなかで十年。来る日も来る日も重いものを上げて、下ろして。エドワードが書斎で一行も書けずにペンを置いていた、その十年をこの男はここで過ごした。そしてその帰り道に、橋の上から海を見て——。
ふと、エドワードはいつかルカが漏らした言葉を思い出した。荷役の帰りに橋の上から海を見るときの気分、と。あのときルカはそれをナイチンゲールの詩と重ねていた。消えてしまいたい、と。
エドワードはその意味を深くは考えなかった。あのときも、いまも。ただ漠然と、この男はときどきひどく遠くを見る、と思っただけだった。橋の上から海を見るルカ。その光景をエドワードは想像する。仕事を終え、疲れ果てた体で欄干にもたれ、暮れていく海を見ているルカを。何を思って。何を見て。エドワードには分からなかった。
分からないことばかりだ、と彼は思った。この男のことを自分はまだ何も分かっていないのかもしれない。
港の水が風に煽られ、フェンスの向こうで暗く波立っている。その水はどこまでも続いていて、やがてあの夕日の海へと繋がっているはずだった。同じ海だった。ルカが、消えてしまいたいと思いながら見る海と、二人でランボーを諳んじた海は、同じ一つの海だった。




