第六話:献身‐Devotion
雪が本格的に降りはじめたのは、出会いから二か月あまりが過ぎたある夜のことだった。
その日、ルカは夕方からエドワードの家に来ていた。二人で簡単な夕食をとりエドワードがワインを開け、たいしたことのない話をしているうちに外で風が出はじめた。
窓を打つ風の音が次第に強くなっていく。やがて雨が雪になり、最後には吹雪となった。風が窓枠を鳴らし家全体が低く軋むような音を立てる。古い家だった。こういう夜にはその古さが音になって現れる。柱が軋み、どこかで建てつけの悪い窓がかたかたと鳴る。
そして電気が落ちた。
町全体が停電したらしく、窓の外の街灯も対岸の灯りもいっせいに消えた。世界から音と光の両方が消えて、二人は完全な闇のなかに取り残された。
本当の闇だった。普段の都市の夜には訪れることのない種類の、底のない闇。手をかざしても自分の指が見えない。エドワードは一瞬、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。座っているはずの椅子の感触と、隣にルカがいるはずだという、それだけが確かだった。
「ルカ」とエドワードは暗闇に向かって声をかけた。
「ここにいる」とすぐ近くで声がした。その声の近さにエドワードは少し安堵する。見えなくても声がそこにある。それだけで闇の恐怖は少し和らいだ。
エドワードの家には暖炉がある。
彼は手探りで立ち上がり記憶を頼りに暖炉のほうへ歩いていく。薪はその脇に積んである。膝をつき手で薪の形を探り当て、炉のなかへ組んでいく。
マッチを擦った。最初の一本は湿っていたのか火がつかず、二本目でようやく小さな炎が上がった。
火を紙くずに移しそれを薪の下へ差し入れる。火は頼りなく燃えている。消えそうになってはまた持ち直す。エドワードは身をかがめ息を吹きかける。やがて炎が薪をとらえた。ぱちりと最初の爆ぜる音。
部屋がゆっくりと橙色の光に満たされていく。
闇に慣れた目にその光はことさら温かく見えた。さっきまで底のない闇だったものが、いまは火明かりの届く範囲だけ世界を取り戻している。二人はその火の前に座る。火明かりが揺れながら壁に二人の影を大きく映している。影は火の揺らぎに合わせて伸びたり縮んだりする。
外では吹雪が吹き荒れ、窓に雪が叩きつけられる音がする。だが火のそばは暖かい。世界が闇と寒さで満ちているなかで、この火明かりの届く小さな円のなかだけが温かく明るかった。
はじめのうち二人はとりとめのない話をした。
ルカは子供の頃の停電の話をした。彼の育った家では停電は珍しくなかったらしい。料金が払えなくて止められることもあった、と彼はこともなげに言った。そういう夜、母は蝋燭を一本だけ点けてそれを囲み、二人で本を読んだ。蝋燭がもったいないから本は一冊。母が声に出して読み、自分はそれを聞く。
母はこの国の言葉があまり得意ではなかったからつかえながら読んだ。だからその本のことはいまでも全部覚えている。
「何の本だ」とエドワードは訊いた。
「子供向けの星座の本」とルカは言った。「金がないのに星の話だけはたっぷりあった」
エドワードは笑い、それから少し黙った。火が薪のなかで小さく爆ぜる。
しばらく二人は火を見ていた。
その火を見ているうちにルカがふいに口を開いた。さっきより少し低い声。
「停電の夜の話さ」
「ああ」
「あれには続きがあるんだ」
エドワードはルカを見た。ルカは火を見たまましばらく黙っている。語ろうか語るまいか迷うような間。それから彼は続けた。めったに自分のことを語らない男が、火明かりのなかでその夜だけはなぜか口を開いた。
「あの星座の本を読んでくれた夜のことだ。母さんは最初、いつもみたいにこの国の言葉で読んでた。つっかえ、つっかえ。発音がおかしくて俺が時々笑った。母さんも笑った。でも、あるとき——本のなかに星座の神話が出てきたんだ。狩人のオリオンとか、そういう。それを読みかけて母さんが急に黙った」
火が揺れ、ルカの横顔を橙色に染めている。
「それから母さんは本を閉じた。そして同じ話を母国の言葉で語りはじめたんだ。覚えてたんだろうな。子供の頃、自分の母さんから聞いた話を。——別人だった」
「別人?」
「ああ」とルカは言った。「昼間の母さんじゃなかった。市場で値切ることもできなくて惨めな顔をしてる、あの母さんじゃなかった。母国の言葉で星の神話を語る母さんは声が違った。背筋が伸びてた。言葉が川みたいに流れて出てきた。俺は半分も意味が分からなかった。でも、その声を聞いてるだけで——なんていうか、星が本当に頭の上で回ってるみたいな気がした」
ルカはそこで言葉を切った。火を見つめたまま。
「そのとき思ったんだ。子供心に。ああ、母さんは本当はこういう人なんだ、と。この国が見てる母さんは本当の母さんじゃない。言葉が下手なだけで頭の悪い移民の女だと思われてる。でも、違う。母さんのなかにはこんなにきれいな世界がずっとあったんだ。ただ、それを出す言葉をこの国で失くしただけで」
エドワードは何も言わなかった。言えなかった。
「だから」とルカは言った。「俺にとってきれいな言葉ってのは、母さんがこの国で失くしたもの全部なんだ。母さんが本当はどれだけ豊かな人間だったか。その証拠だ。——そして俺はたぶんずっとそれを探してた。本のなかに。母さんが母国語でだけなれた、あの別人みたいな美しさを。この国の言葉で書かれた本のなかにも、それがあるんじゃないかと」
火が爆ぜた。
「あんたの本に、それがあった」とルカは静かに言った。
エドワードはその言葉の重さをすぐには受け止めきれなかった。
ルカが鞄から一冊の本を取り出したのはそのときだった。その背表紙にエドワードは見覚えがありすぎる。自分が若い頃に書いた本だった。
ロマン派の詩人ジョン・キーツについての、若く気負った評論。とうに絶版になり自分の書斎にすら残っていない一冊。それがルカの手のなかで見るも無残に擦り切れている。
エドワードはその本を受け取った。手のなかで、それは驚くほど柔らかかった。表紙は手垢で布のように柔らかくなり、角はすっかり丸まっている。何度も開かれた背は割れてページがいまにも外れそうだ。ページのあちこちに鉛筆の薄い線が引かれている。何度もなぞられて薄くなった線もある。
エドワードはその線を指で辿った。
これを引いたのは自分ではない。この本をこれほど読み込んだのは自分ではない。書いた本人である自分は、刷り上がった後に一度か二度開いたきりだった。だがこの男は、この忘れられた本を十年、擦り切れるまで読んだ。自分が書いたことすら、忘れかけていた言葉を。
「これ」とルカは言った。「ずっと持ってる」
「父が死んだ年に図書館の払い下げで買った。十ペンスだった」とルカは火を見ながら話した。「最初は何が書いてあるのか半分も分からなかった。難しい言葉ばっかりで。でも、これを書いた人は俺がどんな気持ちでいるか知ってる気がした。荷役の帰りにこれを読むと息ができた」
彼は線を引いたページの一つを開いてエドワードに見せる。
「ここ。ここのところがずっと分からなかった。十年、分からなかった」
それはエドワードがキーツの「ギリシャの壺に寄せて」を論じた章だった。
壺の側面に描かれた若い恋人たち。男は女に口づけようと身を傾けている。だがその唇は永遠に届かない。絵のなかの二人は決して結ばれず、しかしそれゆえに相手は決して老いず、その美は決して褪せず、愛は永遠に成就の手前で最も高いまま静止している。
エドワードは二十代の終わりに、その逆説について気負った筆致で何ページも書いていた。
「結ばれないのに幸福だって、あんたは書いてる」とルカは言った。「ずっとそれが分からなかった。結ばれないなら不幸だろうって」
エドワードは火を見ていた。
その問いにどう答えればいいのか彼は分からなかった。若い頃の自分はそれを純粋に美学の問題として書いた。成就しない愛は成就した愛よりも永遠に美しい——観念として、紙の上で、安全に。
だがいま、火明かりのなかでこの若者に問われると、その観念が急に自分の身へ迫ってくる。結ばれないことの幸福。それを、自分はいま生きはじめているのではないか。この、年下の港湾労働者の男と。決して世間には認められず、成就することのないこの関係を。
「先生に会って訊こうと思ってた」とルカは言った。「ずっと」
その「ずっと」がいつからの「ずっと」なのかを、エドワードはこのとき深く考えなかった。後になってすべてが壊れたあとで、彼はこの一言を何度も思い返し、そこに仕込まれていたものに気づくことになる。だがこの夜の火明かりのなかでは、それはただ胸を打つ告白でしかなかった。
エドワードは、自分の手のなかにあるはずだった何かがするりと逆さまになるのを感じた。
彼はずっと、自分がこの若者に与えていると思っていた。本を貸し、言葉を直し、世界を開いてやっていると。だが違った。順序は最初から逆だったのだ。この若者はエドワードがまだ何者かであった頃の言葉に、もう十年も前から救われていた。エドワードがそれを知らなかっただけだ。
自分の人生は無意味だったと夜ごとウイスキーを舐めながら思っていた、その同じ時間に。この田舎の港町で一人の若者が彼の言葉で息をしていた。
「あなたは」とルカは言った。「自分を過小評価してる」
エドワードは何も言えなかった。火明かりのなかで黙ってルカの顔を見ている。
「あなたが死んだら困る」
ルカはただそれだけを言った。
大げさな言い方ではなかった。むしろ事務的なくらい静かで抑揚のない声。だがその短い一言に、エドワードがこの二か月のあいだ名前をつけられずにいたものがすべて入っていた。恋慕も、尊敬も、この若者がこの男に捧げてきたひそやかな献身も。
そしてその言葉の底には、もう一つ別のものが沈んでいた。エドワードは半ばそれに気づいた。あのナイチンゲールの詩を消えてしまいたいと読んだこの男。橋の上から海を見ていたと言ったこの男。「あなたが死んだら困る」と言うこの男は、たぶん自分自身が消えることについてもどこかで考えている。だから誰かに死なないでくれと言うとき、それは半分は自分に言っているのかもしれなかった。
だが、エドワードはその影には触れなかった。触れれば、このせっかくの火明かりの夜が壊れてしまう気がした。彼はただ、その言葉の表側だけを――必要とされているという、その温かさだけを受け取った。
後になって彼は、この夜、その影に触れておくべきだったのではないかと悔やむことになる。だが、この夜はそうしなかった。
エドワードはその重さを一瞬、受け止めきれなかった。目を逸らしたい衝動が来る。何か気の利いたことを言ってこの瞬間を軽くしてしまいたいという、彼のいちばん古くて悪い癖が。
年下の港湾労働者の男から、こんなにもまっすぐに必要とされている。それを認めてしまえば後戻りできなくなることを彼は半ば知っている。ほんの半拍、彼は逃げかけた。
だが、逃げなかった。
彼はルカのほうへ顔を戻し、その火明かりに濡れた目を見て、それからゆっくりと唇を重ねた。
あの最初の夜とは何もかもが違った。薬はなかった。酔ってもいなかった。動悸も知覚の歪みも、自分を欺くための言い訳も何ひとつなかった。
だから今度は薬のせいにはできない。これは自分の感情だと彼ははっきり理解しながら、それをした。
静かなキスだった。求めるというより何かを明け渡すような。祈りに似ていた。
壺の上の恋人たちは永遠に唇の届かぬまま幸福だった。だがこの部屋の二人の唇はいま確かに触れている。
唇を離しても二人はしばらく動かなかった。額を寄せ合ったまま互いの呼吸を聞いている。エドワードは目を閉じていた。何も考えたくなかった。考えればまたいつもの癖でこれを分析しはじめてしまう。名前をつけ、分類し、安全な観念に変えてしまう。だがその夜だけは彼は何もしなかった。ただこの男が隣にいる、その熱だけを感じている。それで十分だった。
暖炉の火が二人の輪郭を橙色に縁取っている。外では雪が降りつづけ、家の熱を少しずつ奪おうとしている。
だがその夜はまだ火があった。ルカの首筋にも唇にも確かに熱がある。エドワードはその熱を指の下に感じていた。
どれくらいそうしていただろう。やがてルカが低い声で何か言った。最初エドワードには聞き取れなかった。聞き返すとルカは少し照れたように繰り返した。
「春になったら」とルカは言った。「海へ行こう。あの夕日の道を、もっと先まで。今度は停まらずにどこまでも」
「ああ」とエドワードは言った。「行こう」
簡単な約束だった。たいした約束ではなかった。次の季節に海へ行く。ただそれだけの。だがエドワードはその約束をこれから先、何度も思い出すことになる。火明かりのなかで交わした、このなんでもない約束を。
電気は明け方まで戻らなかった。
二人は暖炉の前で夜を明かした。話したり、黙ったり、まどろんだりしながら。
火が小さくなるとエドワードが薪を足した。ルカがその様子を眠そうな目で見ている。火がまた大きくなると、ルカは安心したように目を閉じた。子供の頃、母の蝋燭の傍らで眠ったときもこんなふうだったのだろうか、とエドワードは思った。
ある時間、ルカはエドワードの肩に頭を預けてまどろんでいた。その規則正しい寝息をエドワードは聞いている。眠るときわずかに眉を寄せる癖。火明かりがその無防備な顔を照らしている。エドワードは動かなかった。この男の眠りを妨げないように。肩が痺れても動かなかった。
外では吹雪が続いている。だがその音もいつのまにか遠かった。世界は闇と雪で満ちている。だがこの火明かりの円のなかだけは温かく、二人きりだった。エドワードはこの時間が永遠に続けばいいと思った。壺の上の恋人たちのように。この夜が、この火が、この肩の重みが、永遠に止まったまま続けばいい、と。
むろん、続かなかった。
火はいつか消える。夜はいつか明ける。そして、この火明かりの夜から数えるほどの季節も経たないうちに——だが、それはこの夜のエドワードにはまだ知るよしもないことだった。
窓の外では雪が降りつづけていた。世界を白く静かに埋めていきながら。




