第五話:照らされて‐Illuminated
ルカがふいに、低い声で何か言った。
エドワードの知らない言語だった。いや、知らない訳ではない。フランス語だった。ルカの口から訛りのない滑らかなフランス語が、詩の韻律を持って零れ出ている。それがエドワードには意外だったのだ。
Elle est retrouvée. / Quoi ? — L'Éternité. / C'est la mer allée / Avec le soleil.
エドワードの頭が半拍遅れてそれを訳した。
また見つかった。何が。永遠が。海と溶け合う太陽が。
『地獄の季節』フランスを代表する詩人、アルチュール・ランボーの詩集。
フロントガラスの向こうで、冬の低い太陽が水平線のすぐ上に膨らみ、海面を端から端まで溶けた金属のような赤に染めあげていた。波のひとつひとつがその光を拾っては砕き、光は無数の破片になって揺れている。
空は上のほうがもう群青に翳りはじめ、下へ行くほど橙に、そして水際で燃えるような赤になっている。剥き出しの岬の黒い影が、その光の海へ剣のように突き出している。
車のエンジンは切ってあった。その静けさの中、波の音がすぐそこにまで届いてくる。
エドワードは助手席にいた。運転席にいるのはルカだ。
夕日が二人を赤く照らしている。フロントガラス越しに射し込む光がルカの横顔を輪郭から染め、日に焼けた肌をいっそう深い色にして、黒い髪の先が燃えるように光っている。
エドワードはその光に照らされたルカをただ見ていた。美しい、と素直に思った。薬も酒も要らない。ただ夕日が一人の男を照らしているだけで、それはどんな絵画よりも完成されて見えた。
その手を彼は見た。日に焼けた、荷役で荒れた手がハンドルの上に置かれている。その口は火のついていない煙草をくわえようとしている。その同じ口がたった今、ランボーを原語で諳んじた。
エドワードは長いあいだ、自分がこの若者に詩を教えてやっているつもりでいた。詩とは自分のような人間が書架と学位とともに所有するものだと、どこかで思っていた。
だが今、夕日の前でそれを口にしたのはルカのほうだった。
そして、この車のハンドルを握っているのも。
◇ ◇ ◇
その車をエドワードは長いあいだ誰にも触れさせてこなかった。ガレージの奥に、埃よけのカバーをかけて眠らせてある深緑のアストンマーチンDB7。
妻が一度だけ運転したいと言ったことがある。エドワードは断った。娘が免許を取った年にも貸さなかった。
理由はうまく説明できない。ただ、あの車だけは自分の人生のいちばん良かった頃がそのまま形になったようなもので、他人の手に委ねるのがどうしてもできなかったのだ。
そのカバーをエドワードはルカの前で剥いだ。なぜそうしたのか、自分でも判然としない。ただ、この若者に見せたかった。自分がかつて何かへ向かって進んでいると信じていた頃のことを、言葉ではなくこの鉄の塊で伝えたかったのかもしれない。
ルカはしばらく何も言わずに車を見ていた。それから低く口笛を鳴らす。
「クールだ。これ動くのか」
「失礼なことを言うな」
「いや」とルカは笑った。「あんたが、こういうのに乗るとは思わなかったよ。もっと、こう、灰色の地味なセダンかと」
「灰色の地味なセダンにも乗っている。これは別だ」
「どう別なんだ」
エドワードは少し考えた。
「これは二十五年前の俺だ」
ルカは振り返ってエドワードを見た。からかう口調を引っ込めて、その意味をしばらく量るような目をする。それからもう一度、今度は静かに車へ目を戻した。
「二十五年前」とルカは繰り返した。「それは、どんな男だったんだ」
エドワードはすぐには答えなかった。その問いをこれまで誰からもされたことがない。妻も、同僚も、エドワードの過去になど興味を示さなかった。彼らにとってエドワードは最初から今のエドワード——白髪交じりのくたびれた、論文の書けない教授だったから。
「若かった」と彼はようやく言った。「今の君とそう変わらない頃だ。初めて教授職を得て舞い上がっていた。世界が自分のために用意されているような気がしていた。何でも書ける、何にでもなれる、と。この車はその記念だ。分不相応な買い物だった。それでも、どうしても欲しいと思った。人生が何かどこかへ向かって進んでいる。その証を手元に残したかった」
「それで」とルカは言った。「進んだのか。どこかへ」
エドワードは薄く笑った。
「いや。気がついたらここにいた。論文は書けず、妻は出ていき、車だけが残った。進んでいるつもりで、ずっと同じ場所をぐるぐる回っていただけだったのかもしれない」
ルカはそれについて何も言わなかった。慰めも相槌も打たない。ただ、その沈黙が奇妙に優しい。エドワードには下手な慰めより、その沈黙のほうがずっと楽だった。
「乗ってみるか」と、エドワードは鍵を差し出した。
「本気で?」
「君だからだ」
その言葉が自分の口から自然に出たことに、エドワード自身が驚いた。妻にも、娘にも、決して言わなかったことだったのに。
ルカは鍵を受け取り、しばらく手のなかでそれを見ていた。それから、妙にあらたまった手つきで運転席のドアを開ける。エドワードは助手席に回った。
海沿いの道を二人は走った。
冬のはじめの、よく晴れた寒い日だった。ルカの運転は最初こそ緊張で硬かったが、岬を二つ越える頃には滑らかになった。彼は運転が巧い。エドワードがそう言うと、ルカは「港でフォークリフトを何年転がしてると思ってる」と返した。
「これとフォークリフトを一緒にするな」
「同じだよ。重いものを壊さないように動かす。それだけだ」
「これは重くない」
「あんたの表情が重い」とルカは言った。「助手席で神妙な顔しながら、そんなに体を硬くするな。俺を信用してないみたいだ」
エドワードは自分が無意識に助手席のアームレストを掴んでいたことに気づいて手を離した。
ルカがちらりとそれを見て笑う。エドワードは、自分が他人の運転する車の助手席に座るのが何十年ぶりかであることに、そのとき初めて思い当たった。いつも自分が運転していた。妻を乗せ、娘を乗せ、ハンドルを握るのは常に自分だ。誰かに運転を委ねてただ流れる景色を見ているということを、彼は長いこと忘れていた。
「不思議だな」とエドワードは窓の外を見ながら言った。
「何が」
「助手席に座るのが、こんなに楽だとは思わなかった。私はずっと、自分が運転していないと不安だった。誰かに任せると、どこへ連れていかれるか分からない、と。だが今は、どこへ連れていかれてもいいような気がしている」
「危ないこと言うなよ」とルカは笑った。「俺がそのまま、世界の果てまで連れていったらどうする」
「それも、悪くない」
言ってから、エドワードは自分の言葉に少し驚いた。これは本心だ。この男が運転する車でならどこへ行ってもいい。世界の果てでも。その思いがどこから来るのか、彼にはまだ分からなかった。
やがて道が西へ折れ、海が正面に来た。
陽が沈もうとしている。ルカはいつのまにか車を路肩へ寄せ、エンジンを切った。二人ともしばらく何も言わなかった。
そして、ルカが、あの一行を口にした。
◇ ◇ ◇
「驚いた」と、エドワードはようやく言った。
「母がよく言ってた」とルカは海を見たまま答えた。「意味は子供の頃は分からなかった。でも、こういう夕日を見ると、いつもこれが出てくる」
「学校で習ったのか」
「まさか」ルカは少し笑った。「うちには学校みたいなものはなかった。あるのは母の口だけだ」
ルカは少し黙ってから続けた。めったに自分のことを話さない男が、その夕日の前でだけはなぜか口を開いた。
「母さんはこの国の言葉がいまでも下手だ。市場で値切ることもできない。役所に行けば俺がついていって、ぜんぶ通訳する。この国に来て三十年経ってもそうだ」
彼は海の彼方を見ている。
「でも、母国の言葉でなら母さんは別人なんだ。詩を諳んじる。歌う。きれいな言葉をいくらでも知ってる。子供の頃、母さんがフランス語で詩を読んでくれた。何を言ってるのか半分も分からなかった。でも、そのときの母さんは、昼間、市場でうまく喋れなくて惨めな顔をしてる母さんとはまるで別人だった。美しかった。俺はその声が好きだった」
エドワードは何も言わなかった。
ルカもそれ以上は続けなかった。海を見たまま、火のついていない煙草を、いつのまにか指のあいだで転がしている。
気の利いた注釈も、出典の解説も、ここでは無用だ。ただ、悪くない、と思った。この若者がこの夕日に永遠という言葉をあてがうことが。教師としてではなく、ただ一人の人間として、彼はそう思った。
幸福だ、と思った。こんなに単純なことで、と。
夕日が沈みきるまで二人はそこにいた。
光が海の向こうへ落ちていき、赤が紫に、紫が紺へと変わり、やがて最初の星が出た。寒かった。だが、どちらも車を出そうとは言わない。エンジンを切ったままの車のなかで、二人はただ暗くなっていく海を見ていた。肩が触れている。それ以上のことは何もしない。何もしないことが、その夜はいちばん正しいことのように思えた。
我々は永遠を手に入れた――。
◇ ◇ ◇
それからの数週間を、エドワードは後に、自分の人生でいちばん穏やかな時間だったと振り返ることになる。
出会いの夜の、あの理屈の通らない激しさはもうなかった。薬も、酔いも、混乱も。かわりにあったのは、もっと静かで確かなものだった。
ルカは相変わらず日曜に来た。ときには平日の夜にも。二人は特別なことを何もしなかった。食事を作り、本を貸し、海を見に行き、たいていはただ同じ部屋で別々のことをして過ごす。エドワードが本を読み、ルカがその隣で借りた本のページを繰る。それだけのことがエドワードには信じられないほど満ち足りていた。
幸福というのはこういうものだったのか、と彼は思った。何かが起きることではなく、何も起きないでいられること。隣に誰かがいて、その誰かが明日もまた来ると分かっていること。
エドワードは長いあいだそれを忘れていた。いや、一度も本当には知らなかったのかもしれない。妻といたときでさえ。
そんな穏やかな日々がいつまでも続くような気がしていた。雪が本格的に降りはじめるまでは。




