第四話:母‐Mother Nature
ルカの母にエドワードが初めて会ったのは、ある日曜の昼下がりのことだった。
それまでエドワードはルカの母のことを話には聞いていても、会ったことはなかった。ルカが母にどこまで、あるいはどのように二人のことを話しているのかは知らない。もしかすると、一切話してはないのかもしれない。
仕事の同僚や関係者でもなければ隣人でもない。年齢も一回りも二回りも離れている。そのような男と毎週のように会っているとなれば、どこで知り合ったのか、どういう関係なのか、母としては根掘り葉掘り息子に聞きたくなるだろう。
そのような面倒事を避けるためには話さない、会わせない、当然のことだ。
だから、その日ルカがふいに「母に会うか」と言ったとき、エドワードは少し驚いた。
なぜ急に、と訊くとルカは肩をすくめた。母が最近、エドワードのことを訊くのだと言った。息子がよく出かける。誰と会っているのか。坂の上に住む、学のある人らしいと、どこかで誰かに聞きつけたらしい。それで、一度連れてこい、と。
その口ぶりは面倒そうだった。だが、面倒そうにしながらも、ルカはエドワードを母のもとへ連れていこうとしている。母の言うことには逆らえないらしい。誰の前でも動じないこの若者が、母のことになると急に十代の少年に戻る。
港のすぐ裏手の古い集合住宅、その三階にルカの家がある。階段は狭く急で、上るごとに足音が響く。ルカが前を行き、エドワードが続いた。ルカの背中はいつもより硬い。自分の暮らす場所へ他人を入れることに、この男は慣れていないのだ。踊り場でルカが一度立ち止まり、こちらを振り返る。何か言いかけて、やめた。それからまた階段を上りはじめた。
扉をノックすると、出てきたのは小柄な女だった。
ルカの母だとひと目で分かった。目元に息子の面影がある。だが、ルカのあの危険なほど怪しく整った美しさは母にはない。あるのはもっとささやかな、そう、歳月に洗われた静かで優しげな顔というべきか。
彼女はエドワードを見上げ、しばらく何も言わなかった。それから、たどたどしいこの国の言葉で「いらっしゃい」と。発音はぎこちなく、語尾が母国語の抑揚に引っ張られる。
部屋は狭く、けれど丁寧に清掃され、清潔に保たれている。物は少ない。その少ない物がどれも磨かれ整えられ、貧しさのなかの慎ましい秩序を作っている。窓辺には小さな鉢植えが並ぶ。名前は分からないが、この国の寒い気候には合わなさそうな南の緑だった。
壁の一面は本で埋まっている。エドワードはその背表紙に目を走らせて意外に思った。半分ほどはこの国の言葉ではない。フランス語の古い本だった。
すり切れた背、日に焼けた表紙。何十年も繰り返し読まれてきたことがひと目で分かる。フランスはルカの母の母国。これらの本はきっと母のものだ。
そして、その下の段にはこの国の言葉の本が並んでいた。安い文庫や図書館の払い下げらしい古書。表紙の取れたペーパーバックもあった。こちらはルカのものに違いない。母の母国語の本とこの国の言葉の本。二つの言葉が同じ壁に静かに同居していた。言葉の通じないこの国で、母にとって母国語のその一角だけが言葉の通じる場所なのだろう。
母はエドワードを椅子に座らせお茶を淹れた。その手つきをエドワードは見ていた。湯を沸かし、茶葉を量り、カップを温める。一つひとつの動作がゆっくりと、しかし、確かだった。言葉は不自由でも手は雄弁だった。この女は言葉以外のもので世界と関わってきたのだ、とエドワードは思った。
淹れられたお茶は、エドワードの知らない香りがした。この国の紅茶ではない、おそらく母国のものなのだろう。エドワードは一口飲んだ。何か香草のような、少し苦みのある、しかし奥に甘さの残るお茶だった。馴染みのない味なのに、不思議と体の芯に染みる味だった。
「おいしい」と、エドワードは言った。
母にはその言葉は通じなかったかもしれない。だが、エドワードがもう一口飲んで小さく頷くと、母の顔にほんの少し微笑みのようなものが浮かんだ。言葉ではなかった。客が自分の淹れたものを旨そうに飲む。それを見て母が微笑む。そういう、言葉の要らないやり取りだった。
ルカがその様子を横で見ていた。母とエドワードの言葉を介さない短いやり取りを。その目に何か複雑なものがよぎっていた。安堵のような、それでいて落ち着かないような。自分のいちばん大切な二人が、同じ部屋で言葉もなく通じ合っている。それは望んでいたことのはずだった。だが同時に、どこか危ういことでもあった。坂の上の世界とこの狭い部屋の世界。本来交わるはずのない二つがいま触れ合っている。
会話はたどたどしかった。母のこの国の言葉は限られていた。エドワードの問いに母は短く答えた。ときどき適切な言葉が見つからず、宙で手を彷徨わせた。するとルカがすかさず間に入った。
母の言いたいことを汲み取り、この国の言葉に置き換える。あるいは母に母国語で何かを囁く。母が頷き、ルカがそれを訳す。
その母と息子の共同作業をエドワードは見ていた。エドワードは母の手に目を留める。
茶を淹れるあいだもその手は絶えず何かをしていた。荒れて節くれだったその手が、カップの縁の水滴を拭き、こぼれた茶葉を集め、テーブルクロスの皺を伸ばす。
長い年月この手で暮らしを支えてきたのだろう。ふと見ると、母の着ているカーディガンの袖口が丁寧に繕われていた。擦り切れた部分に色の少し違う糸で細かくあて布がされている。捨てずに直して着る。その繕いの目の細かさにエドワードはこの女の一生を見たような気がした。
何ひとつ無駄にしない。あるものを大切に使いきる。ルカが物を粗末にしないのもこの母から来たのだと、そのとき分かった。
母がルカに母国語で何か言った。ルカが短く答える。母がまた何か言い、今度は少し強い調子だった。ルカが顔をしかめる。すると母が笑った。それは、エドワードの知らないルカだった。母の前でだけこの男は子供に戻るらしい。母に言い返し、しかめっ面をし、それでいて逆らいきれない。二人のあいだを行き交う言葉をエドワードは一つも解さない。だが、その言葉の要らない親密さは痛いほど伝わってきた。
自分の入れない場所がそこにあった。ルカにはエドワードの知らない時間が、エドワードの解さない言葉が、母と分け合ってきた長い歳月がある。エドワードはそのことを少しだけ羨んだ。そして、羨む資格が自分にあるのかとすぐに思い直した。
会話の途中で母がふと立ち上がり、奥から一枚の古い写真を持ってきた。色褪せた白黒の写真。その中で若い女が海を背に笑っていた。眩しそうに目を細めて。その背後の海は白黒でも明るく輝いていた。
「わたし」と母は言った。
それから何か母国語で話し続けた。ルカが訳す。
「母の生まれた国の海だ。母国にいた頃一度だけ父に連れていってもらったって。すごくきれいな青い海だったらしい」
母はその写真をしばらく見ていた。それから、エドワードに差し出した。見ろ、というように。
エドワードはそれを受け取る。若い母、眩しい海、失われた別の人生。この女にもかつて別の未来があったのだ。この寒い灰色の港町ではない、どこかで青い海を背に笑っていた頃が。
母がまた何か言った。今度はルカがすぐには訳さなかった。母の言葉が終わってもルカは黙っている。母は続きを促すでもなく、湯気の消えたカップにそっと手を添えている。
窓辺の鉢植えの葉がかすかに揺れる。その部屋の小さな物音のすべてが急に耳につくほどの沈黙だった。
エドワードが見ると、ルカは少し困ったような顔をしていた。
「何と?」と、エドワードは訊いた。
「いや」とルカは言った。「たいしたことじゃない」
「訳してくれ」
ルカはためらった。母を一度見て、それから目を伏せる。母は動かない。ただ待っている。訳されることを初めから知っていたかのように。
ルカが低い声で言った。
「息子を頼む、と」
エドワードは母を見た。母はエドワードをまっすぐに見ていた。その目に何があるのか、エドワードには読み取れなかった。だが、一つだけ確かなことがあった。この母は知っている。息子とこの年上の男のあいだに何があるのかを。言葉にはせずしかし、見抜いている。 母親というものは言葉にされなくても息子のことを見抜くものだ。この国の言葉が不自由なぶん、彼女は言葉以外のもので世界を読んできた。だから、見えるのだ。エドワードが、何者であるかが。
息子を頼む。
それは、母がエドワードにできる精一杯の託し方だった。あなたが誰なのかは訊かない。何なのかも訊かない。ただ、息子を頼む。その一言にすべてが込められていた。承認も、懇願も、そして諦めも。
エドワードは何と答えればいいのか分からなかった。頼まれる資格が自分にあるのか。
彼はただ頷いた、曖昧に。何かを約束したような、しないような頷きで。
母はそれで満足したように見えた。小さく頷き返し、写真をまた奥へしまいに行った。
帰り際母はエドワードの手に何かを握らせた。小さな紙包みだった。開けるとなかに手作りらしい菓子がいくつか入っていた。母国の菓子なのだろう。見たことのない形をしていた。蜂蜜と何かの木の実の匂いがした。
「母さんの国の菓子だ」とルカが少し照れたように言った。「客に持たせるのが習慣なんだ。断ると悪いからもらってくれ」
エドワードはそれを受け取った。階段を降りながらエドワードはその紙包みのささやかな重みを手のなかに感じている。
言葉の通じない女が見知らぬ客に持たせた母国の菓子。それは言葉以上に雄弁な何かだった。歓待、信頼、あるいは息子を頼むという、あの願いの続き。
外に出ると灰色の空の下、港の喧騒がまた戻ってきた。
「変わった人だろう」とルカが言った。
「いいお母さんだ」とエドワードは言った。月並みな言葉だった。だが、それ以外に言いようがなかった。
ルカはそれについて何も言わなかった。ただ、少しのあいだ黙って歩いた。それから、ぽつりと言った。
「母さんを置いてはいけないんだ、俺は」
それはエドワードに言ったというより、自分自身に言い聞かせるような響きだった。この町を出たい。だが、母を置いていけない。その二つのあいだで、この男はずっと立ち往生してきたのだ。
エドワードは何も言わなかった。言えることがなかった。
ただ、手のなかの菓子の包みがまだほのかに温かいような気がした。それは気のせいだった。とうに冷めているはずだった。だが、エドワードにはその重みがこの日見たすべての——狭い清潔な部屋も、磨かれた鉢植えも、フランス語の本も、眩しい海の写真も、息子を頼むという願いも——そのすべての重みのように感じられた。




