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第三話:日曜の終わりに‐Sunday

「この男は本気で消えたがってる」


 ルカはそう言った。ある日曜、キーツの詩を読み終えたあとでのことだ。


「鳥の声に紛れて楽になりたいと思ってる。芸術がどうとか、不滅がどうとか、そういう話の前に、この男はもうここにいたくないんだ。俺にはそれが分かる。荷役の帰りに橋の上から海を見てるときの気分と同じだから」



--------------------------------------------------



 ルカのいない部屋の本棚の前に立つと、あの時の声がいっそう鮮明によみがえってくる。


 ルカの家は港のすぐ裏手、古い集合住宅の三階にあった。階段は急で踊り場ごとに小さな窓があり、そこからは入江の灰色の海がよく見える。


 この階段を上るのは二度目だった。


 一度目はまだルカが生きていた頃だ。ある日曜の昼下がり、ルカに連れられてこの部屋を訪れた。ルカの母に会うために。あのときは隣にルカがいた。この急な階段を二人で上った。踊り場の窓の海をルカは指さしもしなかった。毎日見ている海など、彼にとっては何ということもない景色だったのだろう。


 だが今、エドワードは一人だった。隣に並ぶ背はない。同じ階段を、同じ海を横目に、彼は一人で上っていく。ルカのいない部屋の扉をくぐるために。


 三か月のあいだ、二人が会うのはたいていエドワードの家だった。ルカが自分の暮らしの場所へエドワードを入れたのはあの一度きり。母に会わせたあの日曜だけだった。だから、エドワードにとってこの部屋の記憶は、あの日のものだけ。母の淹れた香草茶の匂いと、フランス語の本の背表紙と、帰り際に握らされた菓子の包み。


 扉をノックした。


 出てきたのはあのときと同じく母親だった。小柄な体。目元に残る息子の面影。以前この部屋を訪れた時と変わっていないようで、しかし、ひどく老いたようにも見えた。彼女はエドワードを見上げ、しばらく何も言わなかった。それから、たどたどしいこの国の言葉で「よく、来てくれました」と言った。


 エドワードを責める色はなかった。それが、エドワードにはこたえた。


 この母は、かつて彼に息子を託したのだ。あの日曜の帰り際、ルカを介して。息子を頼む、と。エドワードは曖昧に頷いた。何かを約束したようなしないような頷きで。だが、母はそれを承諾と受け取ったはずだった。


 そして、エドワードはその約束を守れなかった。守れなかったどころではない。ルカが最後に運転していたのはエドワードの車だ。ルカがあの雪の夜、坂を上ろうとしていたのはエドワードのもとへ行くためだった。この母から預かった息子を、エドワードは自分の手の届く場所で死なせた。


 それなのに、母は彼を責めなかった。よく来てくれました、と言った。その言葉がどんな叱責よりも深くエドワードの胸を抉ったか。いっそ罵ってくれたほうが楽だった。この女がこちらを責めないことがエドワードには耐えがたかった。


 母はエドワードをなかへ通す。


 部屋はあのときと同じだ。狭く、けれど丁寧に清掃され、物は少ないがどれも奇麗に磨かれている。窓辺の鉢植えもそのままだった。ただ、あのとき満ちていた香草茶の匂いはもうしなかった。


 壁の一面は本で埋まっている。よく見ると二種類の本が混じっていた。フランス語の古い背表紙。これは母のものだ。そして、その下の段には安い文庫や図書館の払い下げらしい、背ラベルの残った古書。表紙の取れたペーパーバック。こっちは、ルカのものだ。

 母と息子の本が同じ壁に並んでいる。上の段に母の母国の言葉、下の段に息子のこの国の言葉。二つの言語が、二つの人生が、この狭い部屋の一つの壁で背中を合わせていた。

 ルカがこの町を出られなかった理由が、この本棚にそのまま形になっているようだった。母を一人にはできない。この本棚を、この母を、置いてはいけない。ルカはそう言っていた。


 母がその本棚を手で示した。自分にはこれをどうすることもできない、という仕草だった。読めないのか、捨てられないのか、その両方なのか。とにかく彼女は、息子の遺した本のことだけはこの男に委ねたい、というふうにエドワードを見た。かつて、息子そのものを委ねようとしたように。


 ルカはよくこの町の話をした。正確にはこの町を出る話を。


 ある日曜の午後、二人で海沿いを歩いていたときルカはこれまでよりも多くの話をした。大学へ行きたかった、と彼は言った。父が死んで働くしかなくなった。それから十年、毎日同じ港で同じ荷下ろしの作業をして時を費やした。

 その十年はルカの体にも痕を残していた。いつかパブで見た手の引き攣れた古い傷。仕事で潰した、とだけ彼は言った、あの傷、そしてあの薬。


 そのとき覚えた痛み止めが、いつから痛みのためだけのものではなくなったのか? たぶん、ルカ自身にも分からなかっただろう。


 彼は決して恨みがましくは過去を語らない。ただ事実として、自分の人生にはどこかで一つ扉が閉じたのだ、というふうな話し方をした。


「母を一人にはできない。母はこの国の言葉がいまだに不自由だ。役所の書類も、病院の説明も、俺が間に立たなければ何もできない。父がいた頃は父がそれをやっていた。父が死んでからはそれらは全て俺の仕事だ」


 全部の重荷が十七のルカの肩に乗った。だから、ルカはこの町を出られない。出れば母が一人で取り残される。だが、ここにいるかぎり自分はずっと荷役のままだ。

 その二つのあいだでルカは長いこと立ち往生していた。


 エドワードは頷きコートを脱いだ。一冊ずつ本棚から抜いては検めていく。ルカの側の段を。

 そのうちの一冊で彼の手が止まった。見覚えのある本だった。自分が貸したものだ。その本を手に取ると、あの日々が指の先からよみがえってくる。


 エドワードがルカに本を貸すようになったのは、いつからだったろう。


 はじまりがいつ「続き」に変わったのか、エドワードには明確な境目がなかった。あの雨の夜のあとも二人は会いつづけた。


 最初にルカが昼間に訪ねてきた日のことをエドワードはよく覚えている。あの一夜から数日後の日曜だった。


 インターホンが鳴って扉を開けるとルカが立っていた。夜ではなく昼の光のなかに。作業着ではなく洗いざらしのシャツを着て、少し居心地が悪そうに。


 二人ともどう振る舞えばいいのか分からなかった。夜の暗がりと酒の勢いのなかでなら二人は何をすればいいか知っていた。だが、昼の光のなかで素面で向かい合うのはそれとはまったく別のことだった。


 エドワードは紅茶を淹れた。ルカはそれを両手で包むようにして飲んだ。荷役で潰した手の、その傷のある手で。


 沈黙が長く続いた。だが、気まずい沈黙ではなかった。むしろ、その沈黙のなかで二人は初めて相手が何者なのかを、ゆっくりと確かめはじめていた。


 それは人と人とが関係を築く場合の通常の順序ではなかったかもしれない。普通なら人は知り合い、心を交わし、それから身体に至る。二人はその順序を逆から歩いていた。先に最も親密なことを済ませてしまい、後から相手が何者なのかを少しずつ知っていく。


 そのせいかしばらくのあいだ、エドワードは奇妙な居心地の悪さを抱えていた。すでに肌を合わせた相手の、好きな作家も子供の頃の話も、まだ何ひとつ知らない。その順序の倒錯が彼にはどうにも極まりが悪かった。


 通常、会うのはたいてい日曜だった。港の日曜は長い。荷役の仕事が止まり機械の音が消えると、港はただ灰色の空と海とだけが広がるモノクロの景色となる。

 商店はほとんど閉まり、開いているのはパブと教会くらい。そのどちらにも行かない者にとって、日曜は持て余すほどに長かった。


 エドワードにとってもルカにとっても、その長すぎる一日を埋める相手がたまたま互いだった。最初のうちはそういう説明で足りるはずだった。


 その長い日曜を二人はいろいろなことをして過ごした。たいていはたいしたことではない。エドワードが食事を作りルカがそれを食べる。ルカは何でもよく食べた。荷役の体は燃料を欲しがるのだと笑った。


 エドワードは自分が誰かのために食事を作るのが何年ぶりかであることに気づいた。妻が出ていってから彼の食事はいつも温めるだけの出来合いのもの。一人分の侘しいものだった。それが、二人分の鍋を火にかけ皿を二枚並べるというだけのことで、台所がまるで別の場所のように息を吹き返した。


 ルカはコーヒーに呆れるほど砂糖を入れた。エドワードがそれを指摘するとルカは悪びれずに「港の連中はみんなこうだ、体を使う人間には甘いものがいる」と言った。


 エドワードはそれ以上は言わなかった。砂糖を山ほど入れたコーヒーを旨そうに飲むこの男を見ているのはなぜか悪くなかった。そういう、彼の取るに足らない癖のひとつひとつを、エドワードは知らず知らず覚えていった。


 後になって——すべてが終わった後で——彼の胸に最も鋭く残るのがこうした些事ばかりになるとは、そのときの彼は思いもしなかったが。


 しばらくして、エドワードはルカに本を貸すようになった。はじめは何気ない気持ちで。


 会話のなかでルカが何かを言い、それなら、と一冊を持たせた。次に会うときルカはきちんと読んできていて借りた本の感想を言った。


 エドワードはそれを直した。読み方を、解釈を、文脈を。世界はこう読むのだ、と教えてやっている気でいた。年上の少し学のある自分が、港でしか生きてこなかったこの若者に彼の知らない世界を一つずつ開いてやっている。


 そう思うことは正直に言えば心地よかった。誰かに必要とされ与える側に立つこと。それは長く彼が失っていた感覚だったから。



 そして、あの日曜のことをエドワードは思い出す。あの一言を。



--------------------------------------------------



 ある日曜のことだった。エドワードが、キーツの「ナイチンゲールに寄せて」を貸していた。次に会ったとき、ルカはそれを読み終えていた。


「分かった気がする」と、ルカは言った。「この男は鳥の声を聞きながらここではないどこかへ消えてしまいたいんだろう」


 エドワードは内心その解釈に感心した。悪くない要約だ、と。それで、いつもの調子で補足をはじめた。この詩の主題は永続する芸術と滅びゆく人間の対比であって、ナイチンゲールの歌は不滅の美の象徴で、と。彼が学生に教えるのと同じことを。


 ルカはしばらく黙って聞いていた。それからエドワードの言葉が途切れたとき、彼はぽつりと言った。


「あんたの言うことはたぶん正しいんだろう。でも、俺が読んだのはそういうことじゃない」


 エドワードは口をつぐんだ。


「この男は」と、ルカは続けた。そして、あの言葉を口にした。


「本気で消えたがっているのだ」と。「俺にはそれが分かる」と。


 エドワードは何も言えなかった。ルカが言っているのはエドワードが講義では決して触れない部分だった。


 詩人がその美しい言葉の下で、本当はどれほど消えてしまいたかったか。技巧でも時代背景でもなく、ただ、その一点をルカは労働者の視線でまっすぐに掴んでいた。エドワードが論文では決して書かない——いや、書けない、読み方だった。


 そして、エドワードはもう一つ別のことにうっすらと気づいていた。ルカが「俺には、それが分かる」と言ったとき、その声に、ただの読解ではない何かが混じっていたことに。


 橋の上から海を見るときの気分と彼は言った。エドワードはその一言の奥にあるものを深く問わなかった。問えば見たくないものが見えてしまう気がして。


 彼はいつもの癖で知識のほうへ逃げた。「それは少し感傷的に過ぎる読み方だね」と言って専門用語をいくつか並べ、自分が教える側であることをもう一度確かめようとした。


 ルカは反論しなかった。ただ、その黒い目にほんのわずか見透かすような色が差したのをエドワードは見なかったことにした。見なかったことにしたものが二つあった。ルカの読みが自分より深いということと、その読みがルカ自身のことを語っていたのかもしれないということ。


「あんたといると」と、あるときルカは言った。「ここじゃない場所にいる気がする」


 エドワードはそれを嬉しい言葉として受け取った。後になってそれが必ずしも褒め言葉ではなかったのだと気づく。


 ルカにとってエドワードといる時間は救いであり、同時に現実から目を逸らすための場所でもあった。荷役の手も、母への義務も、閉じた扉も、エドワードの家にいるあいだだけは遠かった。


 エドワードという男はルカにとって人であると同時に、ここではないどこかへ続く細い通路でもあった。


 だが、そのときのエドワードは自分が誰かの逃げ場になっているなどとは、考えもしなかった。あの、ナイチンゲールの詩を、ルカが自分のことのように読んだとき、消えてしまいたいのだ、と読んだとき、本当は気づくべきだったのかもしれない。この若者もまた、ここではないどこかへ、消えたがっているのだと。

 けれど、その時のエドワードは自分が誰かに必要とされているという心地よさのほうに酔っていた。


 ある日曜、ルカは一枚の薄い冊子を持っていた。大学の夜間課程の案内だった。働きながら学位を取るためのある地方都市の大学のものだった。

 表紙はもう何度も開いたらしく、端が柔らかくなっていた。ルカはそれを見せるともなくテーブルに置いていた。エドワードがそれに気づいて手を伸ばすとルカは少し気まずそうに「まだ決めたわけじゃない」と言った。


 まだ決めたわけじゃない。その言い方にエドワードは胸を衝かれた。決めたいのだ、と分かったからだ。決めたいのに決めれば母を、町を、これまでの十年を、何かしら裏切ることになる。


 その迷いの重さをルカは一枚の冊子の柔らかくなった端にぜんぶ預けていた。


 エドワードは何か言ってやりたかった。受けてみろ、君ならできる、と。だがそのときは言わなかった。なぜ言わなかったのか、自分でもよく分からない。たぶん、与える側でいることと本気でこの若者の未来に踏み込むことのあいだには、思っていたより深い溝があって、彼はまだ溝を飛び越える勇気はなく、その手前で立ち止まるしかなかったから。



--------------------------------------------------



 冊子は本棚の隅から出てきた。あの日曜と同じ、端の柔らかくなった夜間課程の案内。


 三か月のあいだにルカは結局それを受ける決心をし、そして、受けられないままになった。エドワードはその薄い紙の束をしばらく手に持っていた。


 母親が戸口からこちらを見ていた。彼女にはそれが何の紙なのか分からないようだった。息子が母に黙って何を望んでいたのか。どこへ行こうとしていたのか。それを知らないまま、彼女はこれから息子のいない長い日曜をいくつも越えていくのだろう。


「これは」とエドワードは言いかけて、やめた。説明する言葉を彼はまた持っていなかった。持っていてもそれを渡す資格が自分にあるのか分からなかった。


 彼は冊子を本のあいだへそっと戻した。元あった場所へ、誰にも気づかれないところへ。



 作業を終えてエドワードは母に暇を告げた。


 母は玄関まで見送りに出た。そして、あのときと同じようにエドワードの手に何かを握らせようとした。小さな紙包み、菓子の包みだった。あのとき、帰り際に持たされたあの母国の菓子。


 エドワードの手が止まった。


 受け取れなかった。あのときは、歓待の菓子だった。息子を頼む、という願いの続きだった。だが今、同じ菓子を受け取ることがエドワードにはできなかった。その願いを自分は守れなかったのだから。

 母はエドワードの動かない手を見た。それから、静かに包みを引っ込めた。何も言わなかった。ただ、その目に一瞬、何かがよぎった。責めるのでも、恨むのでもない。ただ、分かっている、という目だった。あなたがどれほど苦しんでいるか。それも分かっている、という。


 その目がエドワードにはいちばんつらかった。


 窓の外で入江の灰色が少しだけ翳った。日曜の午後が終わろうとしている。

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