第二話:愛に勝るもの‐Better Than Love
港へ続く石畳の坂道は雨に濡れて鈍く光っていた。
エドワードは傘を持たずに歩いていた。差すのも億劫だったというより、濡れることをどうでもいいと思うくらいには、その日の彼は何もかもがどうでもよくなっていた。
大学からの帰りだった。書きかけの論文は二か月前から一行も進んでおらず、別居中の妻からは事務的な連絡が一通来ていて、それにどう返すべきかも分からなかった。
坂を下りながら彼はずっと足元の石畳を見ていた。顔を上げる理由が特にない。だから、坂を上ってくる男に気づくのが遅れた。肩がぶつかり相手の腕から紙袋が滑り落ちた。紙袋は石畳に当たり、鈍い音とともに何かが割れる。
袋の底が、黒く濡れて広がっていく。ワインだった。赤い液体が石畳の目地を伝い、雨に薄まりながら、坂の下へ細く流れていく。
男が短く舌打ちした。膝をついて袋を覗き込み、それから顔を上げてエドワードを見た。値踏みするような目。濡れた前髪の下から、黒い瞳がまっすぐにこちらを測っている。
若い男だった。作業着姿で首も手も日に焼けていて、港湾の労働者だろうと知れる。整いすぎているくらい整った顔をしているのに、その表情にはどこか相手を信用していない硬さがあった。
「弁償する」とエドワードは言った。「同じものを。すぐ近くに店がある」
男はしばらくエドワードを見ていたが、やがて割れた瓶を袋ごと近くのゴミ箱へ放り、肩をすくめた。
「じゃあ、一杯付き合ってもらおうか」
坂の途中のパブは平日の夕方にも関わらず、大勢の客でにぎわっていた。港湾での早番シフトが終わった時間なのだろうか。
エドワードが同じ銘柄のワインを一本頼んで渡そうとすると男はそれを押し返し、かわりにカウンターのほうへ顎をしゃくった。一杯やっていけ、という意味らしい。
奢られる側が場を仕切っている。エドワードは妙な気分のまま、勧められるままに、隅の席についた。
男はルカと名乗った。ルカ・モレノ。港で荷役をしていると言う。それからしばらくは、ぎこちない沈黙が続いた。
エドワードはこういう場所に慣れていない。労働者で混み合うパブも、見知らぬ若い男と差し向かいで酒を飲むことも。何を話せばいいのか分からず、彼はグラスのなかの琥珀色の液体を意味もなく揺らしている。
先に口を開いたのは、ルカのほうだった。
「あんた、この辺の人間じゃないな」
「いや、住んではいる。結構長くね」とエドワードは答えた。「ただ、この坂より上のほうだ」
「ああ」とルカは言った。それだけで、何かを理解したような口ぶりだ。坂の上と坂の下。この港町ではそれが住む世界の違いを意味するのだろう。
エドワードは自分が今、その境界を越えて坂の下の側に座っていることに、奇妙な居心地の悪さと、それを上回る何かを感じている。
「仕事は」とルカは訊いた。
「大学で教えている」
「何を」
「文学だ。詩が専門でね」
ルカはそれについては何も言わなかった。馬鹿にするでもなく、感心するでもなく、ただ小さく頷いてグラスを傾ける。
たいていの人間はエドワードが大学教授だと知ると態度を変えた。敬意であれ、警戒であれ、何かしらの反応を示す。だが、ルカは何も変えなかった。教授であろうとなかろうと、目の前の男は目の前の男だ、とでもいうように。それが、エドワードには新鮮だ。
会話は思いがけず続いた。
ルカ自身がよく喋るわけではなかった。むしろ口数は少ない。だが、こちらに喋らせるのが巧かった。エドワードがぽつりと漏らした何気ない一言をルカは聞き逃さない。それを的確に拾い、間を置いて次の問いを投げてくる。問いは短く、しかし、いつもエドワードがいちばん触れてほしい、あるいはいちばん触れられたくないところをまっすぐに突く。
「書いてるのか。詩を」とルカは訊いた。
「いや、論文だ。詩を書くんじゃない、詩について書く」
「進んでるのか、それは」
エドワードはグラスを持つ手を止めた。なぜ、この男はよりによってそれを訊くのだろう。
「いや」と、彼は正直に答えた。「二か月、一行も書けていない」
「なんで」
なんで。子供のように単純な問いだった。だが、その単純さの前でエドワードは言い繕うことができない。同僚ならこうは訊かない。学生もそうだ。皆気を遣って核心を避ける。だが、この若い男は気を遣うということを知らないのか、あるいは気を遣う必要を感じていないのか、ただ、なんで、と訊いた。
「分からない」とエドワードは言った。「書くことがなくなったのかもしれない。言うべきことをもう何も持っていない。それなのに教授という肩書きだけが残っていて、毎日、それを演じている。学生たちは私を尊敬してくれる。同僚も一目置く。だが、誰も本当の私を見てはいない。見るべき中身がもうないからかもしれないが」
言ってしまってから、エドワードは、自分でも驚いた。こんなことを口に出したのは初めてだ。
妻にも言ったことがなかった。何年も誰にも話していない。いや、自分自身ですらはっきりとは認めていなかったことを、今出会ったばかりの港湾労働者の若者に、なぜか話していた。
ルカはそれを黙って聞いていた。慰めも否定もしない。ただ聞いている。そしてエドワードが話し終えると少し間を置いてこう言った。
「中身がないやつは自分に中身がないなんて気にしない」
エドワードは顔を上げた。
「気にしてるってことは、まだ、何か残ってるってことだろう」
それは慰めではなかった。慰めるつもりで言ったのではない、とすぐに分かる、素っ気ない口調だ。だが、その素っ気なさゆえに、その一言はどんな丁寧な慰めよりもエドワードの奥に届いた。彼はしばらく言葉が出ない。
なぜこの男は、と彼は思った。港で荷役をしているというこの若い男は、なぜこんなことを言えるのだろう。
二杯目を頼もうとしたときルカが店員より先に言った。
「あんたはアイラのやつだろう。ピートの効いた煙くさいのを少し」
エドワードは手を止めた。たしかにいつも頼むのはその種類だ。
「よく分かったな」
「なんとなく」とルカは笑った。「そういう顔をしてる」
そのときは、勘のいい男だ、と思っただけだった。アイラのウイスキーを好む顔、というものがあるのかどうかは知らないが、この男にはそれが見えるのだろう、と。
エドワードはそれ以上は考えなかった。ただ、言い当てられたことがなぜか少し嬉しかった。誰かが自分のことを見てくれている。たとえそれが酒の好みという些細なことであっても。
今度はエドワードのほうがルカに訊く番だった。
「君はずっと港で?」
「ああ。十年になる」
「若いのに長いな」
「親父が死んでな」とルカは短く言った。それ以上は続けない。だが、その短さのなかに、語られないものの重さがある。エドワードはそれを深く訊かなかった。訊いてはいけない気がした。
「本は読むのか」と、エドワードは話題を変えるつもりで訊いた。文学の話なら自分の領分だ。
「読む」とルカは言った。「金がないから、図書館の払い下げばっかりだけどな」
「何を読む?」
ルカは少し考えるような顔をした。それから答えない。かわりに薄く笑って「いろいろだ」とだけ言った。
その答えをはぐらかすような間が何を意味するのかを、エドワードが知るのはずっと後のことになる。だが、このときはただ無口な男が言葉を惜しんだだけとしか思わなかった。
夜が更けて店の客はまばらになっていた。
いつのまにかあれほどにぎわっていた店内から人が引いている。早番の労働者たちはそれぞれの家へ帰っていったのだろう。残っているのは行き場のない数人と、坂の上にも下にも本当の居場所を持たないエドワードのような男だけだった。
カウンターの奥で店主がグラスを拭いている。その単調な音だけが静かになった店内に規則的に響いている。
ルカが煙草を吸おうと胸ポケットに手を入れライターを探ったとき、その指先がライターと一緒に小さな何かをテーブルの上へ滑らせた。錠剤の入った透明な小さい袋だった。
ルカの手が一瞬止まった。慌てて隠すでもなく、わざと見せるでもない、ほんの半拍の判断に迷うような間。それから彼は何でもないことのように、その袋を指先で自分のほうへ引き寄せた。
「薬をやっているのか」とエドワードは訊いた。
「これは合法のやつだよ」ルカは袋をつまみ灯りに透かした。「やってみるかい?」
「俺はいい」
ルカはエドワードをちらりと見て口の端だけで笑った。
「インテリの学者様には無理か」
くだらない挑発だった。子供じみてさえいて効くようなものではないと頭では分かっている。にもかかわらずエドワードは手を伸ばしていた。自分でも理由は分からない。ただ、この若い男の前で無理だと思われることに、その瞬間だけはどうしても耐えられなかった。
彼は錠剤をひとつ受け取りグラスのウイスキーで喉の奥へ流し込んだ。ルカは何も言わずただその様子を見ている。
しばらくは、何も起こらなかった。
やがて最初に来たのは動悸だった。心臓が肋骨の内側を規則正しく、しかし強く叩きはじめる。呼吸が浅くなり首筋にうっすらと汗が滲む。
エドワードは反射的にこれを症状として分析しようとした。心拍の上昇、発汗、おそらく散大しているだろう瞳孔と、いつものように知識で武装しようとしてできなかった。
言葉がうまく組み上がらない。そのかわりに、目の前のルカが妙に近く見えた。
灯りの加減のせいかもしれなかった。あるいは薬のせいだ、と彼は思おうとした。だが、ルカの濡れた黒髪が額に張りついている様子も、煙草をくわえる唇の動きも、開いたシャツの襟から覗く日焼けした喉も、その喉が酒を飲み下すときに上下する様も。何もかもが、これまで一度も人間に対して感じたことのない種類の引力を帯びて、エドワードの視界を占めていった。
色っぽい、という言葉が頭をかすめて彼はうろたえた。男に対してそんなことを思ったことはこれまで一度もなかった。
ルカがグラスを置いたとき、その右手の甲に古い傷痕が見えた。引き攣れた深い傷。
「それは」と、エドワードは自分の声が遠く聞こえるのを感じながら訊いた。
「仕事で潰した」ルカは傷を一瞥してそれだけ言い、それ以上は話さなかった。エドワードも訊かなかった。
どちらが先に立ち上がったのか、エドワードは後になっても思い出せなかった。
「もう一本、家にあるんだが」とエドワードは言った。誰が聞いても下手な口実だ。
ルカもそれを下手な口実だと分かっていて、それでも頷いた。
二人ともそれが何を意味するか承知していて、承知したうえで知らないふりをした。その了解だけが雨の中を歩く二人のあいだにはっきりと存在している。
◇ ◇ ◇
天井をエドワードは見ていた。
自分の寝室の見慣れたはずの天井だった。それが、まるで知らない場所のように思える。
隣でルカが静かに息をしている。サイドテーブルではグラスがひとつ倒れ、こぼれた酒がカーペットに黒い染みを作っている。窓の外ではまだ雨が降っている。
何が起きたのか、エドワードには分からなかった。
これは何だ。
妻がいる。長く連れ添った妻が、別居しているとはいえまだ籍の上では妻だ。自分はこれまで男に欲望を覚えたことなど一度もなかった。一度も、だ。それなのにたった今、この若い男と。理屈がどこにも通らなかった。
薬のせいだ、と彼は思おうとした。あれのせいで箍が外れただけだ、そうに違いない、と。
だが、それが嘘であることを彼自身知っていた。なぜなら、彼はすべてを覚えていたからだ。何ひとつ靄の向こうではない。自分が何を望み、何をしたか、はっきりと覚えていた。
薬は何も作り出してはいなかった。ただ、彼がいつも自分にかけている鍵を外して見せただけだ。その鍵の向こうに何があったかは、薬のせいではなかった。
エドワードは起き上がり床に脱ぎ捨てた服へ手を伸ばした。帰らなければ、と思った。
どこへ?
ここは自分の家なのに、俺が本当に帰る場所は別にある、彼はそう思おうとしていた。
手が止まった。シャツを掴んだまま彼は動けなくなった。理由は分からない。ただ、ここを出てしまえばもう取り返しがつかない——いや、逆だった。
ここを出てももう取り返しはつかない。すでに何かが起きてしまっていて、それは服を着て家を出たくらいでなかったことにはならない。もう、この男から離れられない。なぜそう思うのかはやはり分からなかった。
背後でルカが寝返りを打つ気配がした。エドワードは振り返らなかった。だから、そのときルカがどんな顔をしていたのかを彼は知らない。眠っていたのかもしれない。あるいは目を開けてこちらの背中を見ていたのかもしれなかった。
それから長いあいだ、エドワードはあの夜のことを薬のせいにし続けた。何年経っても、誰にも、自分自身にさえ、本当のことは説明できなかった。ただ、雨に濡れた坂道で割れた一本のワインからすべてが始まったということだけは確かだった。
--------------------------------------------------
気がつくとエドワードは病院の外に立っていた。いつ手続きを終えたのか、いつあの建物を出たのか、よく覚えていない。空はまだ暗く雪は雨に変わりかけていた。
背後で自動扉が閉まる音がした。中にはルカがいる。もう彼に触れる権利は自分にはない。遺体は母親のものになり葬儀も母親が決める。自分はただ、ここから追い出された一人の男だった。
駐車場の隅に見覚えのある深い緑色が見えた。
いや、あの車はもう潰れたまま別の場所にあるはずだ。見間違いだ。
エドワードはコートの襟を立て濡れた地面を歩きだした。どこへ向かっているのかは自分でも分からない。




