第一話:世界からはじかれた者-Exile
「故人とのご関係は」
そう訊かれてもエドワードは答えられなかった。
若い女性職員は悪意なく待っている。必要な項目だから訊いているだけで、それ以上の意味はない。ペンを手に、記入欄の上で静かに答えを待っている。だからこそ残酷だった。
関係。その言葉をエドワードは頭の中で繰り返した。
自分とこの目の前に横たわる男との関係を彼女は訊いている。それを書類の小さな空欄に収めるために。一語か二語で。
だが、その一語がどうしても出てこなかった。
地下の安置所には、窓がなかった。
地上ではまだ雪が降っているはずだが、ここまで来ると天候は別の世界の出来事のように思える。地上からいくつもの階段を下り、いくつもの扉を抜けてここへ来た。一段下りるごとに、外の世界が遠ざかっていく。雪も、風も、夜明け前の冷たい空気も。
そして最後の扉を抜けたとき、エドワードは季節も時間もない場所に辿り着いていた。ここには昼も夜もない。蛍光灯の白い光が絶え間なくすべてを等しく照らしている。地上で人が眠りまた目覚めても、この光は消えることなく灯りつづけているのだろう。
どこかで、水滴の落ちる音が聞こえてくる。その水滴の音はひどく規則正しかった。何秒かに一度、どこか見えない場所で水が硬い面に落ちる。
その間隔はまるで時を刻む何かのようだった。だが、それは時計ではない。時計なら時を前へ進める。この音はただ、時の止まったこの空間で、同じ間隔を永遠に繰り返すだけだった。
時の止まった場所で時の形だけを真似ている音。エドワードはいつのまにかその音を数えている自分に気づいた。
死は雪の中で終わり、この白い光の下で書類になろうとしている。
数時間前、エドワードは雪の斜面でこの男を見つけた。凍りついた道の横転した車の傍らで。あのときはただ、雪と静寂と二人きりだった。関係を問う者などどこにもいなかった。だが、ここでは違う。ここではすべてが様式にのっとって処理されていく。氏名。住所。生年月日。そして、関係。
エドワードは目の前の祭壇に横たわるルカを見つめた。
ルカは白い布を胸までかけられていた。その顔は数時間前とほとんど変わらない。雪の斜面で最後に見たあの顔のままだった。
長い睫毛、癖のある黒髪、剃り残しの目立つ顎。ただ、雪はもうその上に積もっていない。ここは暖かくも寒くもない温度のない場所だったから。雪が溶けることも積もることもない。ルカはただ、その姿のまま静かに横たわっている。
まだ手続きは終わっていなかった。職員が答えを待つあいだ、彼はただルカの傍らにいることを許されていた。最後のわずかな時間。この時間が過ぎれば、ルカは書類のなかの一個の事案になり、やがて母のもとへ引き渡されていく。だが今はまだエドワードの目の前にいる。手を伸ばせば触れられる距離に。
触れたかった。あの雪のなかで触れた首筋に、頬に、もう一度。だが、彼は触れなかった。ここでは誰かが見ているかもしれなかった。そして彼には触れる資格がなかった。教え子でも、家族でも、恋人でもない男には。だから彼はただ見ていた。手を膝の上で固く握りしめたまま。
どれだけそうしていただろう。
エドワードはパイプ椅子に腰を下ろしていた。座り心地の悪い、長く座ることを想定していない椅子だ。冷たい金属の座面が、コートを通して彼の体温を奪っていく。背もたれは垂直で、長く寄りかかっていると背中が痛んだ。この椅子は人がここに長居しないように、わざとこう作られているのかもしれない、とエドワードは思った。
手続きが済めば人は立ち去る。死者をこの白い光の下に残して。だが、エドワードは立ち去れなかった。立ち去る先がもうどこにもなかったから。
彼女が机の上へ置いた書類には、氏名、住所、生年月日、死亡日時と、淡々とした活字が並んでいる。その記入欄を眺めていると、人間の一生というものは驚くほど狭い枠の中へ収まってしまうものだと痛感する。
生まれた場所、死んだ場所。そのあいだの二十七年。喜びも、苦しみも、十年の荷役も、母への義務も、夜ごと開いた本も、海も、火明かりも、そのすべてがこの用紙のいくつかの空欄に還元されていく。
書類は人生を要約しない。ただ、必要な項目だけを抜き取っていく。そして、抜き取られなかったものは――その人がどう笑い、何を恐れ、誰を愛したかは――どこにも記録されないまま消えていく。
ルカ・モレノ、一九九九年生まれ。
そこまで読んで彼は目を逸らした。生まれた年を数字で見たくはなかった。自分が大学院で論文を書いていた頃にこの男はまだ乳児だったのだと、その事実を突きつけられるだけで十分だった。
そして、その次の欄で彼女は問うたのだ。故人とのご関係は、と。
『関係』と、エドワードはもう一度その言葉を頭の中で繰り返す。
教え子ではない。一度も彼に何かを正式に教えたことはない。いや、教えたつもりでいたが、本当は教わっていたのは自分のほうだった。かと言って、師でも弟子でもない。
恋人、だろうか。少なくとも公的には違う。二人の関係をそう呼べる書類はどこにもない。指輪も、誓いも、人前での承認も、何ひとつ交わさなかった。エドワード自身がそれを世間の目から隠しつづけたのだから。
家族ではない。親族でもない。血の繋がりも法的な繋がりもない。
雇用関係やビジネス関係でさえない。彼に賃金を払ったことも、彼から何かを買ったこともない。二人を結びつけるいかなる契約も書類上には存在しない。
あらゆる関係の名前を、エドワードは一つずつ頭のなかで当てはめては却下していった。どれも当てはまらない。あるいは当てはまるものがあったのかもしれない。だが、それを口にする資格が自分にあるのか分からなかった。
友人
結局その語が浮かんだが、それは何かを説明しているようでいて、何も説明してはいなかった。雨の夜も、停電の夜も、海へ行こうという約束も、読まれすぎて角の丸くなった文庫本も、そのすべてを友人という一語へ押し込めるのは、死者への侮辱のように思える。だが他に言葉はなく、言葉がない以上、人は既にある言葉を使うしかないのだ。
「友人です」
彼がそう言うと、職員は頷いて欄を埋めた。
ペン先が紙の上を走るかすかな音がした。たった数文字を書きつける、その短い音のなかに、彼らの三か月のすべてが収められていく。
Friend
六文字。たった六文字で、我々のあの三か月が処理されてしまった。書類というものは便利なものだと、エドワードは思う。便利だから残酷なのだろう。
職員が去ったあとも、彼はしばらくその文字を見ていた。自分はこの欄のどこにも入れない。教え子でも、家族でも、恋人でもない。最も近くにいた男が最も遠い場所から、たった六文字でルカを見送ろうとしている。
世界からはじかれた者、という言葉がふいに浮かんで、彼はそれを打ち消した。文学を生業にしてきた人間の悪い癖だった。こんなときにまで感情に名前をつけようとする。
だが、その言葉は一度浮かぶと消えなかった。世界からはじかれた者。喪に服すことすら許されていない者。ルカの死を最も深く悼んでいるはずの自分が、その悲しみを人前で表すことさえできない。
葬儀では最も後ろの席に座るしかない。墓は家族が建てる。墓碑銘も家族が選ぶ。そのどこにもエドワードの居場所はない。彼はルカの人生の中心近くにいながら、その死においては完全な部外者だった。
やがて別の職員が透明な保管袋を持って現れた。
「ご家族の方にご返却いたします」
家族ではありません。反射的にそう言いかけたが、声にはならなかった。代わりに手を伸ばしていた。
袋は驚くほど軽かった。腕時計、鍵、煙草、わずかな小銭。人間一人の人生がこれほど少ない重さへ還元されてしまうことに、彼は驚いた。
透明な袋越しに、中に入っていたもののひとつひとつがよく見えた。腕時計は安物だった。文字盤に細かい傷がいくつもついている。荷役の現場で何かにぶつけた傷だろう。それでも、ルカはそれを使いつづけていた。
鍵は三本。一本は部屋の鍵、もう一本は何の鍵か分からない。そして最後の一本にエドワードは見覚えがあった。
自分の家の合鍵だった。
いつか渡したきり、返してもらうのを忘れていた。いや、忘れたふりをしていた、あの鍵だ。ルカはそれをずっと持っていた。あれだけのことがあった後も。殴られ、追い出された後も。捨ててもよかったはずの鍵を。突き返してもよかったはずの鍵を。だが、ルカはそれを最後まで持っていた。この安物の腕時計や半分の煙草と一緒に。自分のささやかな持ち物の一つとして。
その鍵が何を意味するのか、エドワードには分からなかった。まだ自分の家に戻る気があったのか。それとも、ただ捨てそびれただけなのか。分からない。だが、その鍵が今、ここにこうしてあった。自分の家の扉を開ける鍵が、死んだ男の遺品のなかに。
煙草は半分ほど残った箱。小銭はごくわずか。この男がどれほど慎ましく暮らしていたかを、その軽さが語っている。
その袋の底に文庫本があった。水を吸って膨らみ、背表紙が歪み、ページは波打って、本はもうきちんと閉じることさえできなくなっている。
エドワードは袋の上からそっとその本に触れた。透明なビニール越しに、ふやけた紙の柔らかい感触が伝わってくる。雪と雨を吸って、本は元の倍ほどにも膨らんでいた。
見つめているうちに気づいた。これはあの雪の夜、ルカが火明かりのなかで見せてくれた、あの一冊だった。若い頃の自分が書いたキーツ論。書いた本人でさえもう長いこと開いたことのない、忘れられた古い仕事。それをルカは擦り切れるまで読んでいた。
あの夜、彼はそれをただ大切に持っていた。きれいなページに鉛筆で線を引いて。それが今は水を吸ってふやけ、もう二度と読めない姿になってここにある。それでもルカは事故の夜も、雪道を走るあいだも、最後の瞬間までこの一冊を手放さなかった。
なぜこれを持っていたのだろう。あの夜、殴られ、追い出され、それでもこの本だけは手放さなかった。鞄に入れていたのか、上着のポケットに入れていたのか。戻ろうとした車のなかで、この本は助手席にでも置かれていたのだろうか。
エドワードには分からなかった。だが、このふやけてもう読むこともできない一冊をルカが最後まで持っていたという事実だけが、何かを、言葉にできない何かを告げているように思えた。
合鍵と本。自分の家の扉を開ける鍵と自分の書いた言葉。ルカが最後まで持っていた二つのもの。どちらもエドワードに繋がっていた。偶然なのか、それとも。だが、その問いにも答えはなかった。
彼は袋ごと膝に置いた。膝の上の袋はやはり軽かった。だが、その軽さがかえって重かった。エドワードは両手でその袋を包むようにして持っている。なかの本の膨らみが、手のひらに確かに感じられた。
ルカの母親が来れば、この袋は彼女のものになる。それが正しい、正しいはずだった。それでもエドワードは、膝の上のこの重さを手放したくなかった。
やがて目を閉じると、濡れたページの隙間から古い紙の匂いがした。いや、そうではない。それは雨の匂いだった。
その匂いがエドワードに思い出させる。
三か月前の秋。港へ続く石畳の坂道、割れたワインボトル、そして、一人の若い男の笑い声。




