序章:命を懸けるに足る者-Somebody to Die For-
ちょっと切ない大人の恋愛を描いてみました。
よかったら最後までお付き合いください。
感想や評価もお待ちしています。
雪が降っていた。
それは、吹雪のような荒々しいものではなく、空のどこか高い場所から、ただ静かに降りてくるだけの雪。
しかし、静かなものほど容赦がない。雪は道路の輪郭を消し、森と空の境界を曖昧にし、やがては人の足跡さえ埋めてしまう。
降りはじめたのはいつ頃からだったのか? それはもう誰にも分からない。雪は自分が降りはじめた時刻も、その下に何を埋めたかも語らない。ただ降る。降って世界を一枚ずつ白いヴェールで覆い隠していく。
エドワード・ハートマンが車を降りたとき、世界は白のみでできていた。
エンジンを切ると、あたりの音という音が消える。低く響いていた振動が途切れて、あたりは驚くほど静かだった。
雪は光を吸うように音をも吸う。そこに残ったのは彼の呼吸の音だけだった。吐く息は湯気のように白く曇り、ゆっくりと形を失って闇へ溶けていく。この広い雪の中で音を立てているのは彼ひとり、ほかには何もなかった。
車を降りたエドワードは、しばらくその場に立ち尽くしていた。彼の視線の先には、道路脇の斜面で横転した車がある。深い緑色のアストンマーチンだった。
生き残った片方のヘッドライトが、白い闇を照らしている。光の帯の中には、無数の雪片が舞いながら浮かび上がっていた。闇はその一筋の光だけを残して、世界を閉ざしている。
その光景を見た瞬間、エドワードが最初に思い浮かべたのは、ルカのことではなく車のことだった。こんな時に何を考えていたのだ、と後になって彼は自分を責める。だが、それはその時の彼の正直な思いだった。
あの車を買ったのは、初めて大学に職を得た年だ。当時はまだ妻も若く、娘も幼かった。論文を書くことにも、未来を信じることにも疲れていない、そんな頃。
ディーラーから乗って帰ってきた日のことを、エドワードは今でも覚えている。初めてエンジンをかけたときの腹の底に響くような低い唸り。ハンドルを握る手の汗ばむ感覚。これで自分はどこへでも行けると思った。この車が自分をどこか遠くへ、まだ見ぬ場所へ連れていってくれる、と。
当時の自分には分不相応な買い物だった。が、どうしても手放せなかった。車そのものが好きだった訳ではない。あれは、人生がまだ何かへ向かって進んでいると信じていられた頃の記念品。それからほとんどの時間、彼はその車をガレージの奥に眠らせてきた。まるでそこに、若き日の自分自身を封じ込めておくかのように。
そのアストンマーチンが今は、潰れた昆虫のように雪の中へ転がっている。折れ曲がったボンネット、ひしゃげた屋根、砕けたガラス。
それらの上にも、雪は等しく降り積もる。深い緑色の車体の半分は、もう白く覆われていた。雪は山肌も壊れた車も区別しない。やがては何もかもを、同じ白さの下にならしてしまう。
そこまで考えてから、ようやく彼は気づく。車の少し先に人影がある。
ルカだった。
エドワードはルカのほうに向かって、斜面を下りていった。途中、足元の雪が崩れて滑りかける。彼は膝をつき、手のひらを雪に深く突き入れて身体を支えた。
雪に突き入れた手に冷たさは感じない。手袋を通して伝わってくるはずの冷たさを、このときの彼はまるで感じなかった。
急いで転んだ訳ではない。むしろ急ぐ理由がもう存在しないことを、彼は心のどこかで理解していた。一歩、また一歩と雪を踏みしめながら、彼はゆっくりとその人影へ近づいていく。
ルカは仰向けに倒れていた。片腕が胸の上に折れ曲がっている。彼の美しい黒い髪に雪が積もり始めて、髪がみるみるうちに白く染まっていく。
顔にも雪が降りかかっていた。その顔の上の雪は溶けることなく薄く積もっていく。生きている人間の上に降る雪はその熱で溶ける。ルカの上に降る雪は溶けない。そのことが何よりも雄弁にもう手遅れであることを告げていた。
だが、エドワードはまだそれを理解したくなかった。
誰かが白いシーツの上にそっと寝かせたように、ルカは雪の上に静かに横たわっている。
それがかえって現実味を奪っていた。
死はもっと乱暴なものだとエドワードは思っていた。もっと醜く、もっと暴力的なものだと。
だが実際には違う。死はしばしば眠りに似ている。だから人は簡単に騙される。
「死は美しいものだ」と。
エドワードは膝をついた。手袋を外し、指先をそっとルカの首筋に当てる。指の腹に皮膚の感触があった。人間の皮膚だ。だが、そこにはあるべきものがない。脈がなかった。それから、熱も。
人間の首筋にはいつもかすかな脈があり、熱がある。血がそこを流れているからだ。ルカの首筋には、そのどちらもない。皮膚はある。ただ、脈と熱だけがなかった。
かつてこの首筋には熱があった。火明かりのなか、二人で酒を飲んだことがある。汗ばんだルカの喉が、酒を飲み下すたびに上下する。エドワードはそれをずっと眺めていた。脈打つものが確かにそこにあった――はずなのに。
彼はずっと、そこに指を当てている。
何を確かめようとしていたのか、自分でも分からない。脈がないことは、最初に触れた瞬間に分かっていた。それでも指を離せない。まるで、長く触れていれば失われたものが指の下に戻ってくるとでもいうように。むろん、そんなことは起こらない。
彼は数時間前のことを思い出した。
自分はこの男に触れた。その時は、こんなふうにそっと触れた訳ではない。怒りに任せて、この顔をこの手で打った。
打たれたルカは殴り返しもせず、ただこちらを見ていた。口の端から血を流したまま。あれが、生きているルカに触れた最後だった。
その同じ手で今、彼はルカの首筋に触れている。
そして彼はふと、あることを考えた。
人が死んだとき、体温はどこから失われていくのだろう。指先や、爪の先といった体の端からだろうか。それとも、心臓が止まったその瞬間に、全身がいっせいに冷えはじめるのだろうか。どこかで読んだ気がする。だが、思い出せない。
そういうことを考えている自分に気づいて、彼は目を閉じた。
いつもそうだ。分からないものに出会うと、彼は知識でそれを囲おうとする。名前をつけ、分類し、既に知っていることの隣に並べようとする。そうすれば扱えると思っている。だが、指の下にあるものはどんな知識にも収まらなかった。
ルカの顔は、生きているときとほとんど変わらない。
長い睫毛、剃り残しの目立つ顎、少し開いた唇。それらは数時間前と同じだった。ただ、動かない。
まばたきもせず、何も言わず、ただそこにある。まるで精巧に作られた、ルカという人間の模型のようだった。よく似ているが、本人ではないもの。
エドワードは頬に触れた。
温もりは感じられない。それでも、ルカの美しいその顔は、あまりにも生前のままだった。癖のある黒髪、笑えば少年のようになった口元。
その睫毛の上にも小さな雪片がいくつも乗っている。生きていれば瞬きで払い落とされたはずのものが、今はそのまま乗りつづけていた。
エドワードはそれを払ってやりたい衝動に駆られた。が、できない。触れれば、かろうじて保たれている生前の面影さえ崩れてしまう気がしたからだ。
彼はルカについて覚えていることをいくつか思い出す。コーヒーに砂糖を入れすぎること。本を読むとき、ページをめくる前に指を一度舌で湿らせること。眠るとき、わずかに眉を寄せること。笑うとき、肩を少し揺らすこと。どれも取るに足らない、人に話すほどのことでもない、小さな癖。
ルカの死を前にして思い出すのは、そういうことばかりだった。彼はそれを意外に思う。もっと重要なことを思い出すはずだと考えていた。二人で交わした言葉や、分かり合った瞬間、そういうものを。
だが、実際に浮かんでくるのは、砂糖の入れすぎや、舌で湿らせる指や、眉のしわ。意味のない小さな癖ばかりが次々と浮かんでは消えていった。
エドワードは雪の上に横たわった。ルカの隣に、肩が触れるくらいの距離を置いて。冷たさがコートを通して背中に届く。今度は、その冷たさを感じることができた。彼はその冷たさを拒まない。冷たいと感じるということは、まだ自分の中に奪われるべき熱が残っているということだった。
その熱が雪に流れていくのが分かる。彼の体から雪へ、一方向に。ルカの体からは、もう何も流れない。そこだけが二人の違いだった。触れるほど近くにいても、同じ雪の中に横たわっていても、ただ、その一点だけが違っている。
彼は顔をルカのほうに向けた。ルカもこうだったのだろうか、とエドワードは思う。熱が少しずつ失われていく感覚を、彼は最後に知ったのだろうか。それとも、何も知らないまま終わったのか。
分からなかった。
分からないことばかりだ、と、彼は思う。
なぜルカが自分に近づいたのか、なぜ自分は彼を愛したのか、なぜ最後にあんな言葉を言ったのか、なぜ彼はこの雪道を戻ってきたのか。
何ひとつ分からない。
ただ一つ確かなことは、ルカがもう隣にいないということだけだった。
すぐそこに、肩の触れる距離に、その身体は横たわっている。だが、ルカはもうそこにはいない。身体はあるのに、その人はいない。
エドワードは顔をルカに近づけた。
ルカの唇はわずかに開いたままだ。まるで何か言い残したことがあるように。あるいは、今にも目を開いて文句を言いそうな顔で。
彼は自分の唇を、ルカのそれに重ねた。長く、そして静かに。
その唇にはもう熱はない。火明かりの下で重ねた夜には確かにあった温もりが、今はもうどこにもなかった。
エドワードは、自分の唇の熱だけが一方的に相手へ移っていくのを感じていた。
自分の熱だけが一方通行に流れていく。返ってくる熱はない。どれほど長く触れていても、もう二度と。
そこに愛があったのか、悔恨があったのか、それとも赦しを求める気持ちだったのか、それはエドワード自身にも分からない。
分かったのは、知識でも理屈でも届かない場所に、自分は初めて触れているということだけだった。
遠くでサイレンが鳴り始めた。雪はなおも降り続いている。




