第九話:血と涙と富をもってしても‐Blood, Tears & Gold
その日、ルカは来るはずの時間に来なかった。
日曜だった。いつもなら昼前にはエドワードの家のインターホンが鳴る。だがその日は昼を過ぎても、午後になっても鳴らなかった。
エドワードは何度か窓の外を見た。坂を上ってくる見慣れた姿を探して。だが坂道は空いている。冬の薄い陽が石畳を白く照らしているだけだった。
連絡もなかった。ルカはもともとまめに連絡を寄越す男ではない。来るときはふいに来て、来ないときは何も言わない。だから最初のうちエドワードは気にしないようにしていた。仕事が入ったのだろう。あるいは母のことで何か。そういうことはこれまでにもある。
だが日が傾きはじめてもルカは来なかった。
エドワードは落ち着かなくなった。理由のない不安が胸の底に溜まっていく。本を開き、三行読んで、閉じた。ウイスキーの瓶に手を伸ばしかけてやめる。窓の外がゆっくりと灰色に沈んでいった。
場所は知っている。港の裏手の古い集合住宅。あの急な階段も。一度だけ、あの部屋へ上がったことがあった。あのときはルカが前を歩いていた。招かれて、その背中について上った。
エドワードはコートを手に取った。それから、玄関の前で立ち止まった。
行って、どうする?
いきなり訪ねていって、扉を叩いて「どうした?」と訊くのか。ルカは来なかっただけだ。約束をしていたわけでもない。日曜の昼にあの男が来るのはただの習慣で、契約ではなかった。来ない日があって、何がおかしい。
いや、と彼は思った。おかしいのはそこではない。招かれて上るのと、招かれずに上るのとは、違う。扉を開けるのがルカとは限らない。母親かもしれない。あの、同じ壁の本棚の前で、母国の菓子を持たせてくれた女。あの人の前に、自分は何として立てばいいのか。息子の友人。それ以外に名乗れる言葉を、エドワードは持っていなかった。
上等なコートを着た五十二の男が、招かれもせずにあの階段を上っていく。その絵を、エドワードはうまく思い浮かべることができなかった。ルカがそれを喜ぶとも思えない。
ここへ来るのはいつもルカのほうだった。坂を上ってくるのはいつもあの男で、自分は迎えるだけでよかったのだ。二人の関係はこの家のなかにだけある。あの一度を除けば、今までその形が一度も崩れたことはない。崩していいものかどうか、エドワードには分からなかった。
彼はコートを手に持ったまま玄関に立っている。行くとも、行かないとも決めずに。
彼はいつも、決定的な場所で動けなくなる男だった。
そのとき、インターホンが鳴った。
扉を開けると、ルカが立っていた。
その姿を見てエドワードは言葉を失った。
ルカはひどい顔をしていた。顔色が悪く、目の下に濃い隈がある。冬の外気のなかで、その額だけが濡れている。いつもの、危険なほど整った美しさはその顔からすっかり抜け落ちている。あるのはただ、消耗しきった一人の男の疲れた顔。
「来ちまった」とルカは掠れた声で言った。
「どうした」とエドワードは訊いた。「ひどい顔だ」
「なんでもない」とルカは言った。「ちょっと、調子が悪いだけだ」
なんでもない、という言葉がこれほど嘘に聞こえたことはなかった。
エドワードはルカの背後を見た。私道に車はない。
「歩いて来たのか」と彼は訊いた。「車は」
「置いてきた」とルカは言った。「この体調じゃ、運転はな」
その一言をエドワードはそのとき何とも思わなかった。まともな判断だと思っただけだ。当たり前の分別として聞き流した。
見分けたうえで、車を置いてくる。それを、この日、エドワードは確かに見た。
見て、忘れた。
ルカは上がろうとして、一度、框に手をついた。エドワードが腕を取ると振り払わない。振り払う力もないようだ。
居間まではほんの数歩の距離だ。ルカはソファの端に力なく腰を下ろす。背を丸めて。その右手が——荷役で潰したという、あの古い傷のある手が——もう片方の手でぎゅっと握られていた。
痛むのか、とエドワードは思った。あの古い傷が。
エドワードは灯りに手を伸ばしかけた。だがルカがわずかに顔を背けたので、その手を下ろす。部屋は暮れかけた窓の色のまま残った。
ルカは何も説明しなかった。エドワードもすべてを訊いたわけではない。だがこの男の顔と、握りしめられた傷のある手と、部屋に入ってからの一言もない時間から、エドワードは薄々察した。
あのパブの夜の小さな袋。「これは合法のやつだよ」とルカは言った。労働災害で手を潰し、その痛み止めから始まったのだ、といつか断片的に聞いたことがある。仕事で潰した、とだけ。それ以上は語らなかった。エドワードも訊かなかった。
その、語られなかったものの底が、いまこの部屋にある。
ルカにとってそれは快楽ではない。十年、同じ港で重いものを上げて、下ろして、また上げて。その繰り返しが体に刻んだもの。潰れた手の消えない痛み。疲れた体の休まらなさ。それをなんとかやり過ごすためのもの。失われた人生の延長線上に、それはあった。坂の上の、エドワードの世界にはない種類の痛みだった。
エドワードはその痛みの形を本当には知らなかった。
彼は手でものを運んだことがない。チョークと万年筆しか握ってこなかった手だ。十年、同じ作業を繰り返したこともない。体が壊れるまで働いたことも。だからこの男の底にあるものを、彼は頭では理解できても肌では分からなかった。
その分からなさが、二人の間に急にはっきりと横たわった。
ここはエドワードの家だった。あの海辺のドライブも、火明かりの夜も、ランボーも、キーツも。この家のなかでは二人は対等に見えた。詩を分け合い、孤独を分け合う二人の人間として。だがいま、その同じ部屋に坂の下の痛みが入ってきている。ルカがそれを背負って坂を上ってきたのだ。エドワードが決して共有できない種類の痛みが、彼の暖炉のある居間に、いま座っていた。
「医者には」とエドワードは言いかけた。
言いかけてやめた。何を言おうとしたのか自分でも分からない。医者に行け。やめろ。助けてやる。どれもこの部屋では空々しく響くだけだった。坂の上の人間の、安易な施し。エドワードはまだそれを口にしてはいなかったが、その萌芽はもうここにある。
ルカが顔を上げた。そしてエドワードを見た。その目に一瞬、あの出会った夜の値踏みするような硬さが戻る。
「帰る」とルカは言った。「今日はだめだ。こんな姿、見せたくなかった」
彼は立ち上がろうとした。だが膝がうまく伸びない。
だが、その拒絶の下に、もっと別のものがある。羞恥だ、と、エドワードは気づいた。ルカは恥じていた。坂の上の好きな男に、自分のいちばん暗い底を見られたことを。
それでも、この男は来た。
来なくてもよかったのだ。自分の部屋にいればよかった。誰にも見られずに、暗いなかで痛みが引くのを待っていればよかった。それなのにこの体で坂を上ってきた。見せたくないと言いながら、見せに来た。なぜ、とエドワードは思った。だが訊かなかった。訊いてもこの男は答えなかっただろう。あるいはこの男自身、答えを持っていなかったかもしれない。
エドワードはどうすべきか分からない。
行かせるべきなのか。それとも留めるべきなのか。留めて何をする。何ができる。彼にはこの男の痛みを取り除く力がない。分かち合う術もない。ただここにいさせることが、ルカをもっと惨めにするだけかもしれない。
彼は結局、中途半端な場所に立っていた。行かせることも留めることもできずに。ついさっき、コートを手にしたまま玄関で動けなかったのと、同じ場所に。それは後に、彼がルカの告白の前で一歩を踏み出せずに立ち尽くす、あの瞬間の小さな予行のようだった。
しばらくしてエドワードは台所で水を一杯汲んでくる。そしてそれをルカの傍らのテーブルに置く。それが彼にできる精一杯だった。痛みを取り除くことも分かち合うこともできない。ただ水を一杯置く。それだけ。
ルカはその水を見た。それからほんの少し表情を緩めた。
「悪いな」と彼は小さく言った。さっきの拒絶の硬さはもうない。
「気にするな」とエドワードは言った。
彼はルカの隣に腰を下ろす。何も言わずに。何もせずに。ただ隣に座った。坂の上の人間にできることはそれくらいしかない。痛みは分からない。底も分からない。だが隣にいることはできる。たとえそれが何の役にも立たなくても。
ソファが低く軋んだ。ルカが少し身を傾けたのだ。そしてその肩がエドワードの肩に触れた。
寄りかかってきた、というのとは違う。ただ力なく傾いた体が、たまたま隣の肩に当たった。それだけのことだ。だがエドワードは動かなかった。そのわずかな重みを肩で受け止めたまま、じっとしている。
ルカの体は熱かった。微熱があるのかもしれない。その熱がシャツ越しにエドワードの肩へ伝わってくる。エドワードはその熱を感じている。生きている熱だった。痛みのなかにいても、消耗しきっていても、この男は確かに生きてここにいる。その当たり前のことが、なぜかこのとき、エドワードの胸を打った。
彼は海辺で見た、夕日に照らされたルカを思い出した。あの完成された美しさ。それから火明かりのなかでキーツを読んだルカを。あれもこの男だった。そしていま、その同じ部屋で痛みに背を丸めているこの男も。どれも同じ一人の男。美しいときも、苦しいときも。エドワードはそのすべてを引き受けたかった。だが、引き受けるとはどういうことなのか、彼にはまだ分からなかった。隣に座っていること。それが引き受けることの始まりなのか、それともただの無力な傍観なのか。
二人は暮れていく部屋でしばらくそうしていた。
ルカの荒い呼吸が少しずつ静かになっていく。エドワードは何も訊かなかった。薬のことも、痛みのことも、これからのことも。訊けばまた坂の上の人間の施しになる気がして。
ただ、彼は一つだけ思った。
この男のことを自分はまだ何も分かっていない。港のたくましいルカも、火明かりの物静かなルカも、そのほんの一面でしかなかった。この、痛みのなかにいるルカこそが、たぶんこの男のいちばん深いところだ。そしてそこにエドワードは入れなかった。好きな男のいちばん深い場所に、彼はついに手が届かなかった。
窓の外で冬の陽が暮れていく。最後の赤い光が窓枠のかたちのまま、床に細く伸びている。それは血のようにも黄金のようにも見えた。やがてその光も消えて、部屋は暗がりになった。
エドワードはそれでも隣に座っていた。暗闇のなかで。何もできないまま、ただこの男の隣に。




