第十話:明け渡せぬもの‐Surrender
「やめてくれ」
ルカは珍しく大きな声を発した。それを聞いてエドワードは言葉を止める。何かを間違えた、とは思った。だが、何を間違えたのかが分からない。
彼はいま、この男にいちばん良いものを差し出したつもりだった。回り道をせずに済む方法を。十年の遅れを一足飛びに取り戻す方法を。それの、どこがいけないのか。
◇ ◇ ◇
その申し出をエドワードは最大の好意のつもりで口にした。
願書を出したと聞いたその数日後のことだった。二人はエドワードの書斎にいた。
ルカは本棚の前に立っていた。背表紙をひとつずつ目で追っている。その横顔には、あの下見から戻った夜の高揚がまだかすかに残っていた。願書を出すと決め、出した。十年閉じていた彼の扉が開きはじめている。その手応えがルカを、いつもより少しだけ無防備にしていた。
エドワードはその横顔を見ていた。そして思った。この若者の未来を、自分はもっと確かなものにしてやれるのではないか、と。
それは純粋な善意のつもりだった。少なくともそのときの彼はそう信じていた。自分には力がある。人脈があり、肩書きがあり、長年かけて築いた信用がある。それを使えばこの若者の回り道をずいぶん短くしてやれる。十年の遅れを一足飛びに取り戻させてやれる。なぜ、それをしないでいられよう。愛する者のために。
「夜間課程もいいが」と彼は言った。ルカが本棚を眺めているのを見ながら、ふと思いついたように、本当にいいことを思いついたという調子で。「もし本気で学びたいなら、もっといい方法がある」
ルカが振り返った。
「正規の課程に入ればいい。私の知り合いがいくつかの大学にいる。入試の制度にもいくらでも例外はある。社会人の特別枠もあるし、君のような経歴はむしろ好まれることもある。推薦状なら私が書く。一本電話を入れてもいい。そうすれば、夜間で何年もかける必要はない。君なら……」
◇ ◇ ◇
「悪い意味で言ったんじゃない」とエドワードは言った。「君の力になりたいだけだ」
「分かってる」とルカは言った。「分かってるよ。あんたは良かれと思って言ってる。それが……」
彼はそこで言葉を切り、短く、自嘲のような息を吐いた。
「それがいちばんこたえる」
エドワードにはまだ分からなかった。ルカは本棚に背を向けて彼の方を見る。その顔からいつもの柔らかな表情は消えていた。さっきまで残っていた、あの下見の高揚ももうない。
あの夕日の海で見た、警戒のない若い男の顔ではなかった。かといって、出会った夜の値踏みする硬さでもない。それはもっと古い、もっと深いところから来ている、傷ついた人間の顔だった。
「俺はな」とルカは言った。「十年かかって、やっと、あの願書を書いたんだ」
静かな声だった。だからこそ、その下で何かが煮えているのが分かる。
「夜間の課程を、何度も調べた。必要な金を計算した。母さんに、どう言うかも考えた。あのパンフレットを、何回開いたと思う? 端が、柔らかくなるまで開いた。やっと、やっと自分で決めて、自分の名前で、願書を出した。誰の世話にもならずに。それが、それが、俺が十年かかって取り戻した、たった一つのものなんだ」
エドワードの胸の奥でようやく何かが鈍く光りはじめた。
「それをあんたは」とルカは言った。「電話一本で済む、と言う。推薦状を書いてやる、と。回り道をするな、と。あんたにとっては親切でも、俺にとっては、それは……」
彼は言葉を探した。そして、見つけた。
「俺が十年かけて、自分の手で開けようとしてる扉を、横から、あんたの鍵で『開けてやる』と言われてるのと同じなんだ」
「ルカ、私は……」
「あんたに恵んでもらった人生なんて、要らない」
言ってしまってからルカ自身が、その言葉の鋭さに少したじろいだように見えた。だが引っ込めはしない。
部屋が静かになった。エドワードは何も言えなかった。
彼はいままで、自分を「与える側」だとずっと思ってきた。本を貸し、言葉を直し、世界を広げてやっている、と。あの停電の夜、その思い込みは一度ひっくり返ったはずだった。擦り切れたキーツ論を見せられて、救われていたのは自分のほうだったと知ったはずだ。
なのに彼はまた同じことをした。今度はもっと大きな、もっと残酷な形で。良かれと思って差し出した手が、この男のいちばん柔らかい誇りを握りつぶしていた。一度知ったはずのことを、彼はこうも簡単に忘れる。それがエドワードという男だった。
だが、ルカが本当に傷ついていたのは、たぶんそれだけではない。
恵まれる側になること。それはルカにとって、エドワードとの関係そのものが足元から崩れることを意味した。
対等ではなくなる。救ってやる男と、救われる若造。施す者と、施される者。ルカがこの三か月、いちばん避けようとしてきたもの。エドワードに何かを乞うことを、彼がどれほど注意深く避けてきたか。一緒に来てくれ、とあの下見に誘うことさえ、彼にはどれほどの勇気が要ったか。エドワードはいまになって、その理由を理解しはじめていた。
ルカはエドワードに愛されたかった。だが恵まれたくはなかった。その二つはルカのなかで、決して交わってはならないものだった。なぜなら、一度でも恵まれてしまえば、自分はこの年上の男の前で永遠に見上げる側になる。施しを受けた負い目が、二人のあいだに消えない傾きを作る。それはルカが最も恐れたことだった。
そしてルカも、自分が「ただ恵まれるだけの哀れな若造」ではないことを証明したくなったのだと思う。
でなければ、次の言葉の説明がつかない。
「あんたは」とルカは言った。声が少し震えている。「俺のことを、何も知らない若造だと思ってる。あんたが拾ってやった、港の労働者だと。違う!」
彼は一歩、エドワードのほうへ踏み出した。
「あの坂道で、あんたとぶつかったのは、偶然じゃない」
エドワードはルカを見た。その言葉の意味がすぐには頭に入ってこない。
「半年くらい前だ。街であんたを見かけた。市場のところで、ただ、すれ違っただけだ。最初は、気のせいだと思った。でも、その顔に見覚えがあった」
ルカはあの擦り切れた本を手に持っていた。いつのまにか本棚から抜き取っていたのか、それとも最初から持っていたのか。彼はそれを軽く持ち上げてみせた。
「この本の裏表紙だ。若い頃のあんたの写真が載ってる。何百回も見た顔だ。十年、荷役の帰りにその顔を見てきた。だから、市場ですれ違った年寄りの顔のなかに、その若い男の面影を見つけたとき――まさか、と思った」
彼は低く笑った。自分自身を嗤うような笑い。
「家に帰って、調べた。あんたの名前を。そうしたら、出てきた。大学の教授だと。この町に住んでると。最近の写真も、新聞のインタビューも、何もかも。それで、確信した。あの本を書いた男が、同じ町の、すぐそこにいる。十年、俺を息継ぎさせてくれた言葉を書いた男が、生きて、歩いて、市場で、買い物をしてる」
ルカの声が少し変わった。
「そこからは、自分でも、よく覚えてない。気がついたら、あんたのことを調べてた。いつ大学から帰るか。どの坂を通るか。どのパブで、何を飲むか。何週間も、あんたを見てた。あの日、あの時間に、あの坂で、待ってたんだ。ぶつかったのは――わざとだ」
エドワードの頭のなかで、あの雨の夕方がゆっくりと別の色に塗り替えられていった。
割れたワインボトル。舌打ち。弁償の申し出。一杯付き合え、という、あの言葉。意気投合したと思っていた、あの夜の何もかもが。偶然だと信じていたものが、すべて仕組まれていた。あの坂で、ルカは、傘もささずに歩いてくる自分を待っていた。アイラのウイスキーを言い当てたのも、勘ではない。何週間も、見ていたのだ。
「薬も」とルカは続けた。その声はもう引き返せないところまで来ている。「あの夜、ライターと一緒に薬を落としたのも、偶然じゃなかったかもしれない」
「かもしれない?」
「分からないんだ」とルカは言った。そして初めて、その目に本物の苦痛が浮かんだ。「自分でも、分からない。あんたを酔わせて、その気にさせるつもりだったのか。ただ、見せて、反応を、試したかったのか。あのとき、自分が何を考えてたのか、本当に、分からない。挑発したのだって、芝居だったのか、本気だったのか……」
彼は言葉に詰まった。
「最初は、利用するつもりだったのかもしれない。あんたみたいな人間と繋がれば、ここから出られるかもしれないと。そう思ってた、気がする。でも……」
でも、の後が続かなかった。
ルカはそこで黙った。続けようとして続けられず、その「でも」の先にあるものを、自分でも掴みあぐねているようだった。
利用するつもりだった、と言い切れたら彼は楽になれたのだろう。あるいは、最初から好きだった、と言い切れても。だが彼はそのどちらにも振り切れず、その振り切れなさのなかで立ち往生していた。それは嘘をついている人間の沈黙ではない。本当のことが自分でも分からない人間の、苦しい沈黙だった。
崇拝していたのは本当だ。この男の言葉に十年救われてきたのも本当だ。だがその崇拝のなかに、ここから抜け出す道具としてこの男を見ていた部分がまったくなかったと言い切れるか。言い切れない。そして近づいてしまえば、その二つはもう分けられなかった。どこまでが本物の思慕で、どこからが計算だったのか。ルカ自身にも、その境目はもう見えなくなっていた。
エドワードは立ち尽くしていた。
怒り、という感情を彼は探した。利用されていた。仕組まれていた。あの出会いも、あの最初の夜も、ぜんぶこの男の計算だったのかもしれない。怒っていいはずだった。怒るべきだった。妻に対してでも、同僚に対してでも、これほど明白に欺かれたなら、彼は冷たく怒っただろう。
だが、怒りは来なかった。
代わりに彼を満たしたのは、名状しがたい奇妙な感覚だった。
目の前のこの男はたった今、自分にとっていちばん不利な真実を、しかも、その真実が自分でもよく分からないという、いちばん惨めな形で差し出していた。
嘘をつくほうがよほど楽だったろうに。「利用していました」と頭を下げるほうが。あるいは、「ずっと愛していました」と泣くほうが。どちらでも物語としてはきれいに収まる。エドワードも、怒るなり、許すなり、できる。
だがルカはそのどちらの楽な嘘も選ばず、分からない、と言った。分からないものを分からないまま、エドワードの前に置いた。自分のいちばん見苦しいところを、繕わずに開いてみせた。
それは、エドワードがこれまで誰からも差し出されたことのないものだった。
妻も、娘も、同僚も、学生も、みな整理された自分を差し出してきた。説明のつく自分を。筋の通った自分を。こんなふうにほどけて、矛盾して、自分でも説明のつかない生身を、まっすぐに開いて見せた人間はいない。エドワード自身、誰にもそんなものを見せたことはなかった。彼はいつも、整理してから人前に出た。
この男は、整理する前の自分をここに置いた。
エドワードは口を開いた。何か訊こうとした。本当はどうだったのか、と。利用するつもりだったのか、それとも、本当に、と。
だが、ルカの顔を見て、その問いを彼は呑み込んだ。
訊いても答えは出ない。ルカ自身が、分からない、と言っているのだから。問い詰めればこの男は、楽な嘘のどちらかを選んでしまうかもしれない。利用していた、と。あるいは、愛していた、と。そのどちらも本当ではないのに。
そして、たぶん、それでよかった。分からないものを分からないまま受け取ること。それがこの瞬間、二人に許された唯一の対等だった。
エドワードもまた、なぜ自分がこの男にこうも惹かれるのか、ずっと分からずにいた。五十二の、妻と別居中の、男に欲望を覚えたことなど一度もなかった男が、なぜこの若い港湾労働者に、これほど。それは彼にとっても説明のつかないことだった。二人は同じ「分からない」のなかに立っている。向かい合って、同じ霧のなかに。
彼は結局、何も言わなかった。ただルカのほうへ一歩、近づこうとした。
近づいてどうするつもりだったのか、自分でも分からない。抱き寄せるのか。それともただ隣に立つのか。何も言わずに、この男の分からなさごと受け止めようとしたのか。
だが、その一歩を踏み出したところで彼は止まった。
なぜ止まったのか、そのときは分からなかった。後になって彼は知ることになる。その一歩を最後まで踏み出せなかったこと、その小さな躊躇のなかに、これから起こるすべての始まりが、すでに含まれていたことを。
窓の外で雨が雪に変わろうとしていた。




