第十一話:なぜいつもこうなるのか‐Why
「あなた、誰かいるのね」
エドワードは顔を上げた。
何も彼女には言っていない。ルカのことはおくびにも出していない。それなのにヘレンには分かるのだった。三年、離れて暮らしていても、彼女の目は少しも鈍っていない。
◇ ◇ ◇
妻から電話があったのは翌週だった。
ルカの告白から、エドワードはずっと宙吊りのままでいた。あの夜、一歩近づこうとして、止まった。その続きをどうすればいいのか彼には分からない。近づくのか、退くのか。受け止めるのか、なかったことにするのか。決められないまま彼はただ日をやり過ごしている。あれから二人は会っていない。正確には、エドワードのほうが会えずにいた。
ルカの分からなさを受け止めると決めたわけではなかった。かといって、突き放すと決めたわけでもない。彼はいつものように決定を先延ばしにしていた。向き合うべきものを先送りにする。それがエドワードの、最も古い習性だった。
そこへ、妻のヘレンから連絡が来た。
別居して三年。用件はいつも事務的だった。今回もそうだ。家に残してある本の一部を引き取りたい、ついでに話しておきたいこともある、と。
二人は街の中心の古い喫茶店で会った。
ヘレンは変わっていなかった。落ち着いた、隙のない女だった。歳を重ねてもその印象は揺るがない。むしろ若い頃にはなかった、ある種の落ち着きが加わっている。かつてエドワードが惹かれたのもその聡明さだった。そしてやがて息苦しくなったのも、同じ聡明さだった。
彼女はエドワードという人間を、エドワード自身より正確に見ている。それは結婚生活のあいだずっと、彼の静かな脅威でありつづけた。何を隠してもヘレンには見えてしまう。取り繕った笑顔の下も、立派な肩書きの裏も。彼女の前ではエドワードはいつも裸だった。だから別居は、ある意味で彼にとって安堵でもある。ようやく見られずに済む。
はじめのうち二人は、本の話や娘のエレノアの近況といった当たり障りのないことを話した。エレノアはロンドンで元気にやっているらしい、ほとんど連絡はないが、と。仕事は順調なのかと訊くと、ヘレンは、さあ、と小さく首を傾げた。あの子も何か抱えているみたい、でも私には言わない、と。
親に言わない子に育ったのは誰のせいかしらね、とヘレンは言った。皮肉ではなく、ただ静かな確認のように。エドワードは何も答えられなかった。娘が自分の書斎についに招かれなかったこと。学生たちに注いだ熱を娘には向けなかったこと。それをヘレンは、たぶん知っている。
やがてヘレンがカップを置いてエドワードを見た。
◇ ◇ ◇
彼女は続けた。詰問する調子ではない。むしろ古い友人の容態を見るような、静かな声だった。
「いいの。誰かは訊かない。もう、私には関係のないことだから。ただ、あなた、また同じことをしようとしてる。それだけは、見てて分かる」
「同じこと、とは」
「逃げようとしてる」とヘレンは言った。「その人が、あなたにとって、本当に大事なんでしょう。本当に大事だから、あなたは怖くなってる。そして、いつものように、自分から壊そうとしてる。自分が傷つく前に」
エドワードは何も言えなかった。図星だった。彼女はいつも図星を突いてきた。
「あなたは、昔からそうだった」とヘレンは静かに続けた。「あなたは昔から、自分が傷つかない相手しか選ばなかった。私のことも、そうでしょう? あなたは私を愛していたけど、私に本気で振り回されはしなかった。あなたが本気で揺れるのを、私は一度も見たことがない。二十年以上一緒にいたのに、一度も」
その言葉は刃のように正確だった。だが不思議と痛みはない。むしろ、長いあいだ自分でも薄々気づいていたことを、ようやく誰かに言い当ててもらえたという、奇妙な安堵さえある。そうだ、と彼は思った。私はそういう男だった。あなたを愛していた。だが、あなたに自分を明け渡すことはしなかった。傷つかない場所に、いつも片足を残していた。
窓の外の喧騒とは裏腹に、二人のあいだには静けさが漂っている。長く連れ添った二人にだけ許される、言葉の要らない時間だった。
「だから、もし、今度こそ、あなたが本気で誰かに揺れているなら」とヘレンは言った。「それは、あなたにとって、とてもいいことだと思う。たとえ、相手が、誰であっても」
その言葉はヘレンとしては、たぶん彼へのエールのつもりだった。夫を——もう夫ではない男だが——前へ送り出すための、最後の優しさ。長い結婚生活の果てに、彼女が彼に贈れる最後のものだった。
だがエドワードは、それを別のものとして受け取った。
彼女の言葉のうち彼の耳に残ったのは、「あなたは傷つかない相手しか選ばなかった」のほうだった。送り出す言葉ではなく、診断の言葉。
そうだ、と彼は思った。俺はそういう男だ。臆病で、保身ばかりで、本気で誰かに振り回されることに耐えられない。
だったら、だったらなぜ今さら、その性分に逆らおうとしている。年下の、港湾労働者の男に。そんな相手を本気で愛していると、俺はエレノアに言えるのか。同僚に。友人に。あの坂の上の世界の、誰に。
ヘレンは彼を前へ送り出そうと言葉を送った。エドワードは、その言葉を受けて後ろへ下がった。
同じ言葉が、人を前へも後ろへも動かす。受け取る側の臆病さが、それを決める。
◇ ◇ ◇
ルカと会ったのはその数日後だった。
ルカのほうから来た。エドワードの家の戸口に立った彼は痩せて見えた。あの告白以来、彼もまた眠れていなかったのかもしれない。目の下に影があった。あの、下見から戻った夜の高揚はもうどこにもない。
エドワードは彼を中に入れた。だが、入れた時点で自分が何を言うつもりなのか、もう決めていた。決めてしまっていた。喫茶店の帰り道に。ヘレンの言葉を後ろ向きに受け取った、あの瞬間に。
二人は向かい合って座った。ルカが何か言いかけた。あの夜のことを、告白のことを、続けようとしたのだと思う。分からない、と言ったその先を、今度こそ言おうとしたのかもしれない。だがエドワードはそれを遮った。遮らなければ自分の決意が崩れてしまう気がして。
「この前のことは」とエドワードは言った。自分の声がひどく平坦で、冷たく聞こえた。まるで他人の声のようだ。「忘れたほうがいい。お互いに」
ルカがエドワードを見た。
「俺たちは」とエドワードは続けた。用意してきた言葉だった。喫茶店からの帰り道、何度も頭のなかで繰り返した言葉。「少し、のめり込みすぎた。君は若いし、これから大学にも行く。新しい人生が始まる。私みたいな、終わりかけの中年に、関わっている場合じゃない。君には、君にふさわしい未来がある」
言いながらエドワードは、自分がどれほど卑劣なことを言っているか分かっていた。
これはルカのための言葉ではない。ルカの未来を案じ、高潔な自己犠牲のふりをしているが、その実これは保身だった。年下の男を愛する自分を、世間にさらすことへの怯え。坂の上の世界で白い目で見られることへの恐れ。それをルカへの思いやりという衣で包んでいるだけだった。
そしていちばん卑怯なのは、エドワード自身それを自覚していたことだ。自覚しながら彼はそれを言った。知らずに過つのではなく、知りながら過った。それがいちばん罪深かった。
「そういうことか」とルカは言った。
その声にもう、あの告白の夜の苦痛はなかった。代わりにあったのは、もっと冷たい、もっと静かな何かだった。彼はゆっくりと立ち上がる。
「あんたは」とルカは言った。「結局、それなんだな」
それだけだった。彼はそれ以上、何も言わなかった。罵りもしなかった。すがりもしなかった。ただエドワードを一度だけ見て——その目に軽蔑があったのか、失望があったのか、あるいはただ深い疲れだけがあったのか、エドワードには分からなかった——そして背を向けた。
戸口でルカは足を止めた。
「車は」と彼は背を向けたまま言った。「しばらく、預かっておく。返してほしくなったら、いつでも、言ってくれ」
それが別れ際の、最後の言葉だった。
その言葉が後にどんな意味を持つことになるかを、このときの二人は知らなかった。あの車がルカの手元にあること。その一事がすべての結末を決めることになるとは。
ルカが出ていったあと、エドワードは長いこと椅子に座っていた。
やがて、ひどく重苦しい解放感が来た。これでいい、と思った。これで元の生活に戻れる。静かな、誰にも振り回されない、安全な生活に。あの、見られずに済む生活に。
その解放感を後に彼がどれほど呪うことになるかを、このときの彼はまだ知らなかった。
数日のうちにエドワードは、自分が思ったほど何も解決していないことに気づいた。
ルカを突き放したはずなのに、彼のことばかり考えていた。食事のときも、講義のときも、夜、ウイスキーを舐めているときも。ふと気づくとルカのことを考えている。あの傷のある手のことを。砂糖を入れすぎたコーヒーのことを。火明かりのなかで「あなたが死んだら困る」と言った、あの声のことを。
そして、ひとつ卑怯な事実があった。
あれだけのことを言っておきながら、エドワードはまだ迷っていたのだ。本当にこれでよかったのか、と。ルカがもう一度来たら自分はどうするのか、と。
だから彼は家を空けるようになった。
ルカは合鍵を持っていた。いつか渡したきり、返してもらうのを忘れていた——いや、忘れたふりをしていた鍵だ。ルカがふらりと訪ねてくるかもしれない。来て、待っているかもしれない。
それが怖かった。会えば自分が何を口走るか、自分でも分からない。あれほど立派に突き放しておいて、顔を見た途端、すべてを撤回してしまうかもしれない。すまなかった、あれは嘘だ、行かないでくれ、と。その自分が怖かった。
だから彼は、会わずに済むように逃げた。大学の研究室に遅くまで残る。ときには近くのホテルに泊まった。家にいないことがいちばん安全だった。卑怯な男が考えそうな、卑怯な答えだ。
そうして家を空けているあいだに、娘が帰ってきていたことをエドワードは知らなかった。自分の卑怯が何を準備していたかを、知らなかった。
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事故から何日が経っていただろう。エドワードはもう日にちの感覚を失いかけていた。
家に帰ると、見覚えのある車が私道に停まっていた。ヘレンの車だった。
彼女は玄関の前で待っていた。合鍵は別居のときに返している。だから彼女は中には入らず、寒さのなかでエドワードが帰るのを待っていたのだった。コートの襟を立て、白い息を吐きながら。
「連絡が取れないから」とヘレンは言った。「心配で」
エドワードは何と答えたのか覚えていない。たぶん、何も。
ヘレンは彼の顔を見て、それから口をつぐんだ。彼女は聡明な女性だった。エドワード自身より、エドワードを正確に見る女。だからその顔を一目見て、何かが起きたことを悟ったのだと思う。取り返しのつかない何かが。
だが彼女は、それが何なのかは知らなかった。
ルカの名前も、その存在も、ヘレンは知らない。あの喫茶店で「あなた、誰かいるのね」と言った、その「誰か」がもうこの世にいないことを、彼女は知らない。知りようがなかった。
エドワードは語らなかった。語れなかった。喪ったものの名前を、彼は最も長く連れ添ったこの女にすら口にすることができない。言えば楽になれたかもしれない。たった一人でも、ルカのことを知る人間がいてくれたら。だが彼は言わなかった。最後まで臆病だった。
二人はしばらく玄関先に立っている。白い息が二つ、寒さのなかに立ちのぼっては消えた。
「あなた」とやがてヘレンは言った。「何があったのか、訊かないでおく。もう、私には、訊く資格もないから」
エドワードは頷いた。
「でもね」とヘレンは続けた。その声には不思議と刺がなかった。「私、決めたの。離婚届に、判を押すわ。ずっと、迷ってた。どこかで、まだ、あなたのことを——とも、思ってた。でも、もう、いいの」
エドワードは彼女を見た。
「今日、あなたの顔を見て、分かったわ」とヘレンは言った。「あなたには、私の知らない場所がある。私には、もう、入れない場所が。それが、いつからなのかは、知らない。知りたくも、ない。ただ、あなたは、もう、私の知っているあなたじゃないの。だから、いいの。もう、本当に、いいの」
彼女はそれだけ言うと車のほうへ歩きだした。エドワードは引き止めなかった。引き止める言葉も、資格も、彼にはない。
ヘレンは最後まで知らなかった。
夫が、もう夫ではない男が、ついに、傷つかない相手を選ぶのをやめたことを。生まれて初めて本気で誰かに振り回され、本気で誰かを失い、その喪失でこうして壊れていることを。
「あなたは傷つかない相手しか選ばなかった」と言った妻は、その予言がついに破られた瞬間を――皮肉にも、破られたそのときには、相手がもう失われていたという、その残酷な瞬間を――ついに見ることのないまま去っていった。
彼女の車が私道を出て、坂の下へ消えた。エドワードは一人、玄関先に残された。妻だった女を見送り、その同じ手でもう一人を、名前さえ呼べない、もう一人を見送った後で。
雨がまた降りはじめていた。




