表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/19

第十四話:灯り‐Lights

「パパ」と娘は言った。「一体、何があったっていうの」


 エドワードは何も言わなかった。


「彼は」とエレノアは言った。声が震えている。「ルカは。ルカはどうしたの」


 エドワードは娘を見た。見て、それだけだった。


◇ ◇ ◇


 家に明かりが点いていた。


 坂を上りきったとき、玄関の明かりが点いているのが見えた。出るときに消し忘れたのだ。ルカを追って、考える前に家を飛び出した、あの夜に。


 エドワードはその明かりをしばらく外から見ていた。空はもう白みかけている。雪は雨に変わり、コートの肩が重かった。誰かの帰りを待っているような明かりだった。だが、待つべき相手はもういない。


 扉を開けると、廊下にエレノアが立っていた。


◇ ◇ ◇


 彼は娘の脇を通り抜けた。階段を上る。自室の扉を閉め、鍵をかけた。


 すぐに扉が叩かれた。


「パパ。開けて。ねえ、答えて。ルカはどうしたの。パパ!」


 エドワードは扉に背を預けたまま床に座り込んでいた。娘の拳がすぐ後ろで木を叩いている。その振動が背中に伝わってきた。


 答えられなかった。


 あの男が誰なのか。自分とあの男が何だったのか。そして、あの男がいまどこにいるのか。どれ一つ、この娘に向かって言葉にできない。言えばすべてを言うことになる。三か月を。殴ったことを。追い出したことを。愛していたことを。


 だから彼は黙っていた。背中で扉を押さえたまま。


 拳の音が止んだ。それから、また始まった。さっきより強かった。


「答えてよ。ねえ、何か言ってよ」


 打つ音が拳から掌に変わっている。


「ルカはどうしたの? 何かあったの? 事故とか。きっとそうなんでしょう。あなた朝まで帰ってこなかったじゃない。そのコート、濡れてる。私、下で見たんだから」


 エドワードは動かなかった。


「私のせいなの? だったらそう言ってよ。私を責めてよ。何でもいいから、何か言って」


 扉が鳴る。木の板一枚が背中で震えている。


「昔からそう。ママのときも、そうだった。何も言わないで、黙って、それで全部なかったことにする。私がどれだけ待ったか知ってる? 書斎の前で。呼ばれるのを」


 エドワードは口を開いた。


「ごめん」


 自分の声とは思えないほど小さかった。


 扉の向こうで音が止んだ。


「……それだけ?」


 答えなかった。


「ごめんって、何が? 何がごめんなの」


答えられなかった。答えれば、その先を全部言うことになる。


やがて、扉の向こうで何かが崩れる音がした。娘もそこに座り込んだらしかった。木の一枚を隔てて、二人は背中合わせに座っていた。


娘が笑うような音を立てた。


「そう」とエレノアは言った。「分かった。もういい」


 足音が遠ざかり、別の扉が閉まる音がして、家は静かになった。玄関の明かりは、点いたまま。


◇ ◇ ◇


 それから長い数日が始まった。


 事故からの数日。後にエドワードは、その日々のことをほとんど思い出せなくなる。記憶が靄に包まれている。何をして過ごしたのか。何を食べたのか。眠ったのか。よく覚えていない。ただ、時間だけが奇妙に引き伸ばされて過ぎていった。


 家のなかは静かだった。


 娘がいるのに静かだった。エレノアは自分の部屋から出てこない。父と娘は同じ屋根の下で、互いを避けるようにして、別々の部屋で息をひそめていた。


 長く一人で暮らしてきた家だ。静かなことには慣れている。だが、その静けさはこれまでの静けさとは違っていた。これまでの静けさはただの不在。誰もいない、という空白。だが、今の静けさはもっと重い。それは、いなくなった、という静けさだった。かつてここにいたものが、もういないという――同じ無音でも、その質がまるで違った。


 エドワードは家のなかを歩き回った。


 目的はない。ただ、じっとしていられなかった。居間から台所へ。台所から書斎へ。書斎から寝室へ。そして、また居間へ。その当てのない徘徊のなかで、彼は家じゅうにルカの痕跡を見つけた。


 台所の棚の奥に砂糖の袋があった。ルカがコーヒーに入れすぎる、あの砂糖。エドワードは砂糖などほとんど使わない。この袋はルカのために買ったものだった。半分以上残っている。彼はそれを長いこと見ていた。捨てることも、しまうこともできずに。


 居間の本棚に、ルカに貸そうと思って抜いておいた本があった。まだ渡していない。次に来たときに、と思っていた。その「次」は、もう来ない。本は抜かれたまま、棚のその場所だけが歯の抜けたように空いていた。


 寝室のサイドテーブルに、火のついていない煙草が一本転がっていた。いつルカが置いていったものか。エドワードはそれを拾い上げた。指でつまんで。ルカの唇が触れたかもしれない、その先を。そして、またそっと元の場所に戻した。


◇ ◇ ◇


 ふと、エドワードは思い出した。


 ある夜のことを。停電の夜とは別の、なんでもない夜。二人で夕食を終えて、居間でそれぞれ本を読んでいた。ルカがエドワードの貸した本を。エドワードは自分の論文の資料を。


 何時間か、二人とも一言も喋らなかった。ただ同じ部屋で別々の本を読んでいる。暖炉の火が爆ぜる音。ページを繰る音。ルカが時々、難しい言葉にぶつかって小さく唸る声。それだけが部屋に満ちていた。


 エドワードは本から顔を上げてルカを見た。ルカは読書に没頭している。眉を少し寄せて。指を一度舌で湿らせて、ページを繰る。その無防備な横顔を、エドワードはしばらく見ていた。


 幸福だ、とそのとき思ったわけではない。その時は、ただ、悪くないと思った。この静かな夜が、この若い男が隣にいる時間が、永遠に続けばいい、と。


 そういう夜が確かにあった。


◇ ◇ ◇


 その記憶から現在へ引き戻されると、家はまた静かだった。


 暖炉の火は消えている。隣にルカはいなかった。あの夜のページを繰る音も、小さな唸り声も、もうどこにもない。あるのはただ、いなくなった、という重い静けさだけだった。


 夜になると、エドワードは家じゅうの明かりを点けた。


 なぜそうしたのか、自分でも分からない。一人なのだから、一つか二つ点いていれば足りる。だが彼はすべての部屋の明かりを点けた。居間も、台所も、書斎も、寝室も、廊下も。誰もいない部屋まで煌々と明るくした。


 暗いのが耐えられなかった。


 暗闇のなかに一人でいると、あの雪の斜面が戻ってくる。横転した車。片方だけのヘッドライト。雪のなかに横たわったルカ。その上に降り積もる雪。だから彼は明かりを点けた。家じゅうを明るくして、その光であの夜の闇を追い払おうとした。


 だが、明かりは別のこともした。


 煌々と明るい家は、まるで誰かを迎える準備ができているように見える。今にもインターホンが鳴って、ルカが入ってくるかのように。明るくすればするほど、その来ない人の不在が際立った。明かりは闇を追い払いはしたが、喪失は追い払えない。むしろ明るさのなかで、喪失はいっそうくっきりと見えた。


 眠れなかった。


 ベッドに横になっても目が冴えている。隣の空いた場所が冷たかった。かつてそこにルカがいた。静かに息をして。寝返りを打って。眠るとき、わずかに眉を寄せて。その空いた場所に、エドワードは手を伸ばした。何もなかった。シーツの冷たさだけが手のひらに触れた。


 枕にまだ匂いが残っているような気がした。


 気のせいだと分かっている。シーツはとうに洗濯してしまった。ルカが最後にここで眠ってから、もうずいぶん経つ。匂いなど残っているはずがない。だがエドワードは、その枕に顔を埋めた。何もしなかった頃の——まだルカが生きていて、いつでもまた会えた頃の——その匂いを探して。


 何もなかった。ただ洗剤の無機質な匂いだけがした。


 彼はしばらくそうしていた。誰もいないベッドで、誰もいない枕に顔を埋めて。馬鹿げている、と頭の隅で思った。五十二の男が、死んだ若者の匂いを枕に探している。誰かに見られたら、どう思われるだろう。だが扉は閉めてある。この家で、この閉めた扉の内側だけが、彼に許された場所だった。だから彼は誰にも見られずにそれをした。恥も外聞もない場所で。喪に服すことを許されない男が、ただ一人許される、その場所で。


 彼はウイスキーを飲んだ。


 以前から、眠れない夜にはウイスキーを舐めていた。だが今はその量が違う。眠るためではなく、考えないために飲んだ。飲んでも考えることは止まらない。むしろ酔うほどに、あの夜の光景が鮮明になった。殴った手の感触。ルカの口の端の血。「あんたが先に捨てたんだろう」という声。「少し遅れる」というメッセージ。そして、雪の斜面の深緑の車。


 なぜ追いつけなかったのか。


 もう少し早く家を出ていたら。もう少し早くメッセージの意味に気づいていたら。海沿いではなく、最初から山道を選んでいたら。あの二つ目のカーブを、もう数分早く曲がっていたら。——間に合ったかもしれない。ルカは死なずに済んだかもしれない。


 その「たら」が無数にエドワードを刺した。


 どれもありえた、別の結末だった。少しの違いでルカは生きていたかもしれない。その少しの違いを作れなかったのは自分だ。自分の臆病さがルカを突き放した。自分の遅さが追いつくのを阻んだ。すべて自分のせいだった。


 いや、とエドワードは思い直す。


 道が凍っていた。あれは誰のせいでもない。ただの事故だった。冬の、よくあるスリップ。誰も悪くない。


 だが、その「誰も悪くない」が、かえってエドワードを苦しめた。憎むべき相手がいれば、まだ楽だった。あの運転手が、とか、あの会社が、とか。だが憎むべき相手はどこにもいない。あるのはただ、凍った道と、不運と、そして自分の無数の「たら」だけだった。憎しみの行き場がなかった。だから、それはすべて自分へと向かった。


 数日がそうして過ぎた。


 エドワードはルカの部屋の片付けに行った。母と会った。倉庫の鉄扉の前に立った。葬儀の手配が進む。そのあいだじゅう、彼は奇妙なほど冷静に見えた。涙も流さない。取り乱しもしない。事務的に必要なことをこなした。


 まわりの人間は、たぶんこう思っただろう。飲み友達を亡くした男にしては、ずいぶん気丈だ、と。あるいは、薄情だ、とすら。


 誰も知らなかった。その冷静さの下で、エドワードが毎晩家じゅうの明かりを点け、眠れずにウイスキーを舐め、無数の「たら」に刺されつづけていることを。喪に服すことすら許されない男が、一人、誰にも見えない場所で壊れていることを。


 ある夜、エドワードはふと気づいた。


 いつのまにか、自分が玄関の明かりだけを消さずにいることに。家じゅうのほかの明かりは点けたり消したりする。だが玄関の明かりだけは夜通し点けたままにしている。事故の夜、消し忘れていたあの明かりを、彼はいつからかわざと点けたままにしていた。


 誰かの帰りを待つ、明かり。


 ありえないと分かっている。ルカはもう帰ってこない。あの明かりを頼りに坂を上ってくることはない。それでもエドワードは、その明かりを消せなかった。消してしまえば、本当に、もう待つことをやめることになる気がして。


 彼はその晩も玄関の明かりを点けたままにした。


 そして、あの男の帰ってこない家で、煌々とした明かりに囲まれて、一人、夜を明かした。窓の外では雪がいつのまにか雨に変わり、また雪に戻り、冬はまだ終わらなかった。


 ルカの葬儀は、再来週の日曜日に決まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ