第十三話:留まって‐Stay
ルカが出ていったあと、家のなかはひどく静かだった。
さっきまでここには三人の人間がいて、怒号と、悲鳴と、肉を打つ音が満ちていた。それが嘘のように引いている。あとに残ったのは、倒れた椅子と、床に落ちたルカの煙草の箱と、そしてエドワードの、まだ痺れている右手だけだった。
エレノアは自分の部屋に閉じこもっていた。
何が起きたのか、娘に説明することをエドワードはできなかった。あの男が誰なのか。自分とあの男が何だったのか。説明する言葉を彼は持っていない。持っていても、口にする勇気がなかった。娘の部屋の、固く閉じた扉の前を彼は一度通り過ぎた。ノックしようとして手を上げ、そして下ろした。何を言えばいい。何を。言葉は一つも見つからなかった。
彼は居間の椅子に座っていた。自分の手を見ていた。ルカを殴った手を、ずっと。
指の関節がまだじんと痺れている。人を殴ったのは生まれて初めてだった。学者の手だ。チョークと万年筆しか握ってこなかった手だ。その手がさっき、あの男の顔を打った。骨に当たる鈍い感触が、まだ残っている。口の端から血が流れた。それでもルカは殴り返さなかった。ただ、こちらを見ていた。
その目をエドワードは振り払えなかった。
憎しみではなかった。もし憎しみだったら、どれほど楽だったろう。憎まれていれば自分も憎み返せた。怒りで怒りを塗り潰せた。だが、ルカの目にあったのは、もっと別の、もっと耐えがたいものだった。許しを乞うような、それでいて許されないことを自分で知っているような目。
それはエドワードのいちばん古い記憶の、何かに似ていた。鏡を見るときの、自分自身の目に。
これでいい、と彼は思おうとした。終わったのだ。あの男は私を裏切った。私の娘と、私のベッドで。
これ以上の裏切りはない。だから、もう終わりにしていい。私は正しく怒り、正しく追い出した。これで元の生活に戻れる。静かで、安全で、誰にも振り回されない、あの生活に。誰にも見られず、誰にも傷つけられない、あの生活に。
だが、その「安全な生活」という言葉が、口のなかで灰のような味がした。
彼は気づいてしまった。もう戻れないことに。
あの男に出会う前の自分には、もう戻れない。ルカは、エドワードがいつも自分にかけている鍵を外して見せた。最初の夜、薬のせいにした、あの夜からずっと。
鍵を開けた先にあったものは、もうなかったことにはできない。あの男を追い出したところで、自分の内側に空いた穴は塞がらない。むしろ、これからその穴を抱えて生きていくのだ。あの男のいない世界で。
一度、誰かに必要とされ、誰かを必要とすることを知ってしまった人間が、それを失って、また一人に戻る。
それは最初から一人だった時よりも、ずっと耐えがたいことのように思えた。
それでも彼は椅子から動かなかった。
柱時計の音が聞こえる。この家に十年以上住んでいて、その音を意識したのは久しぶりだった。ルカがいるあいだ、この家に静けさというものはなかった。足音。水を流す音。鼻歌。皿の触れ合う音。それらが全部なくなって、残ったのが時計の音だった。
あの男は今どこにいる。港か。母親のアパートか。それとも、この町を出るため車を駆っているのだろうか。
追いついたとして何を言う。すまなかった、か。あの男は私の娘と、私のベッドにいた。それを見なかったことにできるのか。できると言うつもりか。
右手が膝の上で開いて閉じた。関節はまだ痺れている。学者の手だ。この手で殴った。
彼は座っていた。まだ座っていられた。
だが、気づくとエドワードは立ち上がっていた。
なぜ立ち上がったのか、彼にも分からない。ただ、考えるより先に体が動いていた。長年、考えることで行動を押し止めてきた男が、生まれて初めて、考える前に動いた。コートを掴み、車の鍵を取った。
DB7ではない。あれはルカが乗っていってしまった。彼が掴んだのは、日常使いの灰色のセダンの鍵だった。
居間を出るとき、娘の部屋の扉が目に入った。まだ固く閉じている。エレノアに何か言うべきかもしれない。出かける、とだけでも。だがエドワードは止まらなかった。今、娘に何を言っても嘘になる。それに、一刻も惜しかった。彼は娘のことを頭の隅に押しやった。後ですべて説明する。今はルカだ。今は、あの男に追いつくことだけだ。——その判断が後にどんな悔いになるかも知らずに。
追いかけよう、と思った。
みっともなくてもいい。年下の労働者の男を追いかけて、世間にどう見られてもいい。娘に軽蔑されても、同僚に知られてもいい。そんなことはもうどうでもよかった。さっきまで後生大事に抱えていた保身も、見栄も、世間体も、今はひどく小さなものに見えた。あれほど自分を縛っていたものが、なぜ、あんなに大きく見えていたのか。
私には、あの男が必要だ。
それがたったひとつの、確かなことだった。生まれて初めて、エドワードは、触れれば傷つくと分かっている相手を、自分から追いかけようとしていた。
「あなたは昔から、自分が傷つかない相手しか選ばなかった」
ヘレンの言葉が頭をよぎった。今、その言葉を破ろうとしている。遅すぎたかもしれない。あまりに遅すぎたかもしれない。だが、破ろうとしている。傷つくことを引き受けようとしている。生まれて、初めて。
彼は車を出した。雪が降りはじめていた。
ルカがどこへ向かったか、あてはない。だがエドワードのハンドルは自然と海沿いの道へ向いていた。
あの道だ。二人で何度も走った、あの道だ。冬の夕日が海を溶けた金属のように染めて、ルカがランボーを口ずさんだ、あの道。永遠が、と。海と溶け合う太陽が、と。あの夕日の前で、ルカは何の警戒もなくほどけていた。あの場所なら。あの場所になら、ルカはいるかもしれない。
運転しながら、エドワードの頭にルカとのいくつもの場面が、脈絡なく閃いては消えた。
火明かりのなかでキーツを読むルカ。海辺でランボーを諳んじるルカ。砂糖を入れすぎたコーヒーを旨そうに飲むルカ。あの傷のある手で林檎を齧るルカ。「あなたが死んだら困る」と静かに言ったルカ。——どれも幸福な記憶だった。そして、その幸福を、自分はたった今、自分の手で殴り、壊した。なぜ。なぜ、あんなことを。怒りに任せて、いちばん大切なものを。エドワードのハンドルを握る手に力がこもった。
なぜか、ルカがあの夕日の道にいるような気がした。
傷ついた獣がいちばん安心できる場所へ帰るように、あの男はあの夕日の道にいるのではないか。殴られ、追い出され、行き場をなくした男が最後に足を向ける場所。それは二人がいちばん幸福だった、あの場所しかないのではないか。
根拠はない。ただ、そうあってほしいという願いが、彼をその道へ走らせた。
海沿いの道にルカの姿はなかった。
夜の海は昼間の輝きをすべて失っていた。夕日もなく、金色もなく、ただ黒い水が暗がりのなかで重く上下しているだけだった。あの、永遠と呼ばれた海はどこにもない。あるのはただ、冷たく暗い冬の海だった。路面はもう凍りはじめていた。
エドワードは路肩に車を停め、外に出た。
雪が顔に当たる。彼はあたりを見回した。「ルカ」と声に出して呼んでいたかもしれない。仮にそうであったとしても、その声は波の音にすぐ掻き消されていたであろう。
いない。彼はどこにもいなかった。
あの幸福だった場所には、もう何も残っていない。あの夕日も、あの肩の温もりも、あの詩の韻律も。すべて過去の、もう触れられない場所に行ってしまった。エドワードは暗い海を前に立ち尽くした。間違えたのか。来る場所を間違えたのか。それとも、ルカは、もう。
そのとき、胸ポケットで電話が震えた。
エドワードはかじかんだ指でそれを取り出した。画面にルカの名前があった。心臓が跳ねた。ルカだ。ルカから連絡が来た。彼は震える指で画面を開いた。メッセージだった。短い、たった二行の。
道が凍ってる。
少し遅れる。
エドワードはその画面を見つめた。
遅れる。遅れる、とは、どこへだ。誰のところへ。
彼はその意味を必死に掴もうとした。遅れる、というのは、向かっている者の言葉だ。誰かが待っていることを前提にした、向かっている者の言葉だ。約束した相手のもとへ向かう者だけが、遅れる、と言う。
まさか、と彼は思った。
まさか、あの男は戻ろうとしているのか。私のところへ。あれだけのことがあって、殴られて、追い出されて、それでも——。
なぜ? なぜ戻ろうとする。許すために、か。それとも、もう一度終わらせるために、か。あるいは、ただ行き場がないのか。分からなかった。だが、方向だけは確かだ。あの男はこちらへ来ようとしている。私のいる、坂の上の家へ。
エドワードは車に駆け戻った。
ルカは海にはいない。あの男は家のほうへ、エドワードのいる場所へ向かっている。だとすれば通る道は決まっていた。海沿いから町へ戻るには、山に続く脇道を抜けるのが近い。エドワードの家への近道でもある、あの細い山道を。
彼は車を出して、来た道を引き返す。
願いと恐れが同時に胸のなかで膨らんでいた。間に合ってくれ。まだ間に合うはずだ。あの山道は二人とも何度も通った。ルカの運転は巧い。フォークリフトを何年も転がしてきた手だ。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。会って何を言うのかは分からない。謝るのか、許すのか、許しを乞うのか。分からない。だが、とにかく会わなければ。会って、もう一度あの顔を見なければ。あの悲しい目に、もう一度まともな言葉をかけなければ。
山道に入ると雪はさらに激しくなっていた。
道は白く沈み、ヘッドライトの光のなかを無数の雪片が斜めに流れていく。路面は完全に凍っていた。エドワードのセダンも何度かわずかに尻を振った。彼は速度を落とし、しかし停まることはできない。停まれば間に合わなくなる。その一心で凍った道を登っていく。
道の片側は山の斜面で、もう片側はガードレールの向こうに暗い谷が落ち込んでいた。ヘッドライトの光は雪の壁に跳ね返されて、数メートル先までしか届かない。その先はただ白い闇だった。エドワードはその闇に向かって車を走らせている。前に何があるのか、見えないまま。
この道をルカも今、走っているのだ、とエドワードは思った。あるいは、もう走り終えて家に着いているかもしれない。あるいは——。
その先は考えないことにした。考えればハンドルを握る手が震えそうだった。
カーブを一つ、また一つと越えていく。ヘッドライトが白い闇を切り裂く。心臓が痛いほど鳴っていた。間に合ってくれ。間に合ってくれ。彼は祈るようにハンドルを握っていた。 誰に祈っているのか、自分でも分からない。神を信じたことなどなかった。だが、今だけは何かに祈っていた。あの男が無事でいますように。あの、坂の上の家の、明かりの点いた玄関に、もう着いて、自分の帰りを待っていますように。
そして、二つ目の長いカーブを曲がりきった、その先で。
彼は、見た。
道路脇の斜面に何かが横たわっている。深い緑色の車。片方だけ生き残ったヘッドライトが、斜めに降りしきる雪を白く照らしている。




