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第十二話:欲望‐Desire

 エレノアが港町に着いたのは午後だった。


 きっかけは母からの電話だった。父と会った、と母は言った。本を引き取りに行っただけ、用件はそれだけ、と前置きしてから、母はしばらく黙り、それから少し言いにくそうに付け加えた。お父さん、誰かいるみたい。それから、もうひとつ。私、そろそろちゃんと決めようと思う、と。


 離婚、という言葉を母は使わなかった。だがエレノアには分かった。三年、宙ぶらりんだった両親がいよいよ終わろうとしている。


 その電話を切ったあと、エレノアはしばらくロンドンの自分の部屋の窓辺に立っていた。


 奇妙な気分だった。両親の離婚を悲しいとは思わない。三年も別居していたのだから今さらだ。むしろ、ずっと宙ぶらりんだったものがようやく形になるという、整理のつくような感覚のほうが強かった。


 だが、その整理のつく感覚の底に、もっと古い、もっと厄介な何かが揺れていた。


 父。エドワード・ハートマン。エレノアにとって父は、いつも半分しか見えない人だった。同じ家にいた頃でさえ、父は書斎の扉の向こうにいる。その扉はエレノアには決して開かれない。父が学生たちには惜しみなく注ぐ熱を、自分には一度も向けなかった。子供の頃、それがどれほど寂しかったか。父の世界——文学、詩、知性の世界に、自分はついに入れてもらえなかった。


 母を捨てた——と、エレノアは感じていた——父。冷たく、自分のなかに閉じこもった父。その父と、両親が完全に終わる前に一度だけでも向き合っておきたい、とエレノアは思った。和解のためでも、憎しみをぶつけるためでもなく、ただ決着をつけるために。何かを終わらせるために。


 それからの数日、エレノアは何度か父に電話をかけた。


 家の電話はいつ鳴らしても繋がらない。留守番電話に切り替わるばかりで折り返しもない。大学の研究室にかけると事務の人間が出て、会議中だ、講義中だ、と判で押したように言い、父は決して電話口に出なかった。


 避けられている、とエレノアは思った。明らかに避けられている。


 父は昔から、向き合いたくないものから逃げる人だった。母との問題も、エレノアとの距離も、いつも正面から扱わずに書斎へ、大学へ逃げ込んだ。今もそうだ。娘が何か言ってくると察して、いつものように逃げている。そう思うと、エレノアのなかで古い怒りがまた頭をもたげる。逃がさない、と彼女は思った。電話ではらちが明かない。そう思った彼女は列車に乗った。


 父の家は坂の上にあった。もとは祖父母の家だ。エレノアが子供の頃、両親に連れられて何度か来たことがある。古い石造りの、天井の高い、どこか冷たい家。海のよく見える窓と、軋む階段と、祖父の書斎にだけ漂っていた古い紙と煙草の匂い。エレノアの記憶のなかのこの家は、いつも夏の短い帰省と結びついている。


 祖父母が相次いで亡くなったのは、エレノアが十代の終わりの頃だった。家は一人息子だった父が相続した。しばらくは誰も住まない空き家のまま。だが両親が別居したあと、父は妻と暮らした家を出て、この祖父母の家に本格的に移り住んだ。


 なぜよりによってこの家を選んだのか、エレノアには分からなかった。大学のある町からは決して近くない。不便な、古い、寒々しい家だ。だが今になって思えば、父はたぶん人のいない場所を探していたのだ。誰も訪ねてこない、誰にも見られない、海の見えるこの坂の上を。自分の孤独を人目から隠せる場所を。


 だからエレノアは、この家の勝手を半分は知っていた。鍵は持っていなかったが、母から聞いた通り、裏口の鉢植えの下に合鍵がある。祖父母の代からずっとそこにあった鍵だ。子供の頃、祖母がその鉢植えの下から鍵を取り出すのを、エレノアは見たことがある。


 父はいなかった。家のなかは、人が数日帰っていないような冷えた空気が澱んでいる。


 エレノアは誰もいない家に入り、コートを脱いだ。父はどこにいるのだろう、と思った。あれだけ電話を避けておいて家にもいない。逃げるにしても徹底している。


 誰もいないはずの家だった。だから奥の部屋から物音がしたとき、エレノアは心臓が止まりそうになるほど驚いた。


 現れたのは若い男だった。


 作業着姿で日に焼けていて、エレノアを見て明らかに戸惑っている。二人はしばらく、互いを警戒する動物のように向かい合っている。


「あんた、誰だ」と男が先に言った。


 その口調がエレノアの神経を逆撫でする。あんた、誰だ。それはこちらの台詞だった。父の家で、見知らぬ労働者風の男にそう問われる筋合いはない。


「それは、こっちの言うことだと思うけど」とエレノアは言った。声に棘がある。「私は、ここの娘よ。あなたこそ、誰? どうして、人の家に、勝手に入ってるの」


 男の手が一瞬止まった。娘、という言葉に何か反応したように見える。だが、それはすぐに消えた。


「勝手にじゃない」と男はポケットから鍵を取り出して見せた。「鍵を持ってる」


 エレノアは言葉を失った。


 見知らぬ男が父の家の合鍵を持っている。それが何を意味するのか、そのときの彼女にはまだうまく像を結べなかった。便利屋か、管理人か、そういう類の人間だろう、と彼女は自分を納得させようとした。それ以外の可能性は考えない。考える理由がない。


「ルカだ」と男は言った。それ以上の説明はない。それから少し間を置いて付け加えた。「あんたの父親を待ってた。だが、最近、ずっといない」


 その声にほんの一瞬、エレノアにも聞き取れる何かが滲んだ。待ちぼうけを食わされ続けた人間の、疲れのようなものが。だが、それもすぐに男の無表情の下に隠れた。


 父はその日、帰ってこなかった。ルカという男は夕方には帰っていった。


 エレノアは父のいないこの家で一人で夜を過ごした。父からは何の連絡もない。娘が来ていることを父はまだ知らないはずだ。それでも、これほど家を空ける父というのがエレノアには腑に落ちない。何かから逃げている。それだけは感じ取れた。だが、何からなのかは分からない。


 ルカはそれからも家に現れた。


 彼もまた父を待っているようだ。だが父はいっこうに帰ってこない。奇妙な数日だった。父の不在の家で、父を待つ若い男と、父と向き合いに来た娘とが顔を突き合わせている。二人とも同じ男を待ちながら、その男がなぜ帰ってこないのかを知らなかった。


 エレノアは彼が気に入らなかった。


 理由は自分でもうまく言えない。粗野なわけではない。むしろ無口で、必要なこと以外は喋らない。だが、その無口さがこちらを値踏みしているように感じられて、エレノアは苛立った。この男は私をどこかで見下している。ロンドンから来た、世間知らずのお嬢さんだとでも思っている。そう感じると、彼女のなかの父譲りの何か——坂の上の人間が坂の下の人間を見るときの無意識の優越——が、ちりちりと反応した。


 彼女のほうも、つい棘のある言い方をした。父とどういう関係なのか、とか、便利屋にしてはご丁寧に合鍵まで持たされているのね、とか。


 ルカはそういうとき何も言い返さなかった。ただ、その黒い目に一瞬、冷たい光が差す。エレノアはその目を見るたびに、自分が何か恥ずべきことを言ったような気持ちにさせられた。図星を突かれた子供が、かえって居丈高になるように。それがまた腹立たしかった。


 その「気に入らなさ」が崩れたのは三日目のことだった。


 エレノアが父の書斎で一冊の本を手に取っていた。父が若い頃に書いたキーツ論だった。絶版になった古い本。彼女は子供の頃から、その本を遠くから知っている。


 父が自分には決して見せなかった世界。父が学生たちには惜しみなく注いだのに、娘には一度も向けなかった熱。その結晶のような本。エレノアはその本を何度か開こうとしたことがある。だが、いつも途中で閉じた。難しかったから、ではない。それを理解してしまうことが、父の世界に無断で立ち入るような後ろめたさを伴ったから。


 エレノアはロンドンで今、似たような世界の周縁で働いている。出版社の写真の部署。文化の近く。だが本当の中心にはいつも入れなかった。父のあの書斎に、子供の頃ついに招かれなかったように。華やかに見えるロンドンの生活も、その実どこか空虚だ。彼女もまた、ここではないどこかをずっと探している。


 ページを繰っていると、ルカが戸口に立っていた。


「それ」と彼は言った。「あんたの父親の、いちばんいい仕事だ」


 エレノアは顔を上げた。


「読んだの?」と、つい信じられないという調子で訊いてしまった。


 その響きに、自分のなかの父譲りの何か——学のない労働者がキーツを読むはずがない、という無意識の見下しが滲んでいたことに、彼女は言ってから気づいた。


 ルカはその響きを正確に聞き取った。


「ああ」と彼は言った。静かだった。「あんたよりは、たぶん、深く」


 それから彼は、その本のある一節について話した。ギリシャの壺の、永遠に口づけの手前で止まった恋人たちについて。結ばれないのに幸福だとは、どういうことか。


 エレノアが学生時代に教わったどの教授より、ロンドンで会ったどの編集者より、ルカは深くその逆説を理解している。彼なりのまっすぐな解釈で。技巧でも文学史でもなく、その詩が人の生にとって何を意味するのか、というその一点を。


 エレノアは言葉を失った。


 自分が十年かけても入れなかった父の世界に、この港湾労働者はもう入っている。実の娘である自分が、ついに招かれなかった場所に。その逆説が、嫉妬とも憧れともつかない奇妙な引力になって、エレノアを揺さぶった。


 なぜ、この男は、と彼女は思った。なぜこの男が、父のいちばん深いところを知っているのか。私ではなく、娘である私ではなく。


 それからの数日、二人はよく話した。


 話してみると、二人は驚くほど似ていた。どちらも何かの中心に入りたくて、入れずにいる人間。


 エレノアはロンドンの華やかさの周縁で。ルカはこの港町の閉塞の底で。それぞれ、ここではないどこかをずっと探していた。エレノアが父の世界の外にいたように、ルカもこの町の出口のない暮らしの内側にいる。二人とも見えない檻のなかで、その格子の隙間から別の人生を覗いている。


 ルカは自分のことをほとんど話さなかった。手に古い傷があること、母親と二人だということ、大学へ行きたかったこと。断片がぽつぽつと零れるだけ。


 だが、その語られなさがかえってエレノアを引き込んだ。彼女は零れた断片から、この男の輪郭を勝手に組み上げていった。組み上げるほどに彼に惹かれる。沈黙の多い男は、聞く者に想像の余白を与える。エレノアはその余白を自分の渇きで埋めていった。


 それは恋と呼ぶには、もっと切実な何かだった。


 同類が同類を見つけたときの引力のようなものだった。互いが互いの断片を集め、形を作り、足りない箇所は互いの断片で補い合う。彼らは同じように欠け、同じように、足りない何かを求めていた。


 ルカの側に何があったのかを、エレノアは知らなかった。知るよしもない。


 この数週間、ルカがエレノアの父にどれほど深く関わり、そしてどれほど深く拒まれたか。拒まれて宙ぶらりんになり、行き場を失っていたか。その痛みがルカを、エレノアというまったく別の「どこか」へ——よりによって、その男の娘へ——引き寄せていることを。


 ルカ自身、それをどう呼べばいいのか分かっていなかったのかもしれない。逃げなのか、復讐なのか、それとも本当に惹かれたのか。たぶん、そのどれでもあり、どれでもない。


 彼はただ、待っていた相手は来ず、代わりに現れた別の誰かに、傷ついた人間が助けを求めるように手を伸ばしていた。いちばん求めてはいけない相手に。父に拒まれた手で、その娘に触れようとしていた。それがどれほど後戻りのできないことか、たぶん彼にも分かっていた。分かっていて止められなかった。脱出の引力に、また負けた。


 エレノアは何も知らないまま、その手を取った。


 無垢であることがこれほど残酷になりうるとは、彼女は知らなかった。

 自分が知らないうちに、父のいちばん柔らかいところを踏みにじっていることを。誰かの命がけの何かの上を、土足で歩いていることを。


◇ ◇ ◇


 父が帰ってきたのはその夜だった。


 予定より早かったのか、遅かったのか、それすらエレノアには分からなかった。父の予定を彼女は何も知らなかったのだから。


 あとになってエレノアは、その夜のことを何度も思い返すことになる。だが何度思い返しても、いちばん分からないのは父のあの顔だった。


 父は寝室の戸口に立っていた。そしてベッドの上にいる二人を見た。自分の娘と、ルカを。


 エレノアは気まずさを覚悟した。父にこんな姿を見られたことの気まずさを。だが父の顔に浮かんだのは、そんな生やさしいものではなかった。


 父は白くなっていた。


 怒りでも驚きでもない。もっと根の深いところから来る何か。まるで足元の床が抜けて、奈落が口を開けたのを見たような顔だった。


 エレノアは父のそんな顔を生まれて初めて見た。いつも感情を顔に出さない人だった。学者らしく、何もかもを知性の奥に仕舞い込む人。その父が戸口で声も出せずに、白くなって立っている。


 なぜ、とエレノアは思った。


 なぜ父はこんな顔をするのか。娘が、家に出入りしている男と関係を持った。それは確かに褒められたことではない。叱られるかもしれない。落胆されるかもしれない。だが父がこんな、魂を抜かれたような顔をする理由がどこにあるのか。まるで自分自身のいちばん大切なものを奪われたかのような。


「出ていけ!」と父は言った。娘にではない、ルカに向かってだ。


 声が震えていた。


「出ていけ! 今すぐ! 二度と、この家に来るな!」


 ルカは何も言わずに服を着た。そして父の前を通り過ぎようとした。


 そのとき父がルカの腕を掴んだ。エレノアの知らない声で、低く、速く、言葉が交わされた。エレノアにはその内容は聞き取れない。だが、それが便利屋とその雇い主のあいだで交わされる言葉でないことだけは分かった。


 そこにはもっと激しい、もっと個人的な何かがあった。裏切られた人間の声が父にはある。恋人に裏切られた人間の——そう、その響きはまるで恋人の声だった。エレノアはその考えを慌てて打ち消した。まさか。


 ルカが振り返って父を見た。


「あんたが」とルカは言った。低い声だった。「あんたが先に捨てたんだろう」


 父がルカを殴った。


 エレノアは悲鳴をあげた。父が人を殴るところなど見たことがない。チョークと万年筆しか握ってこなかった、あの手が。


 ルカは殴られたまま殴り返さなかった。口の端から血を流したまま、ただ父を見ていた。


 その目に浮かんでいたものを、エレノアはずっと後まで忘れられなかった。それは憎しみではない。もっと悲しいものだった。許しを乞うているような、それでいて許されないことを知っているような。殴られて当然だと自分でも思っているような、そういう目だった。


 ルカは出ていった。父と娘だけが残された。


 エレノアは父に、何が起きているのか説明を求めた。なぜあんなに怒るのか。あの男はただの便利屋ではないのか。あなたとあの男は、いったい何なのか。


 父は答えなかった。


 ただ椅子に座り込んで、両手で顔を覆っている。その背中がひどく小さく見える。いつも大きく、近寄りがたかった父の背中が、今は迷子の子供のように小さかった。


 エレノアはそのとき初めて、うっすらと何かを察した。


 父とあの男のあいだに、自分の知らない、触れてはいけない何かがあったのだと。自分はそれを知らないまま、その上を土足で歩いてしまったのだと。あの男がなぜ父の家の合鍵を持っていたのか。なぜ父のいちばん深いところを知っていたのか。なぜ父が、あんな裏切られた人間の声を出したのか。すべてが一つの恐ろしい像を結びかけていた。


 だが、その像がはっきりと形になる前に、エレノアは目を逸らした。見たくなかった。それが本当なら、自分が何をしてしまったのか、考えたくなかった。


 そして、それが何なのかを父は最後まで言わなかった。


 エレノアは確かめられなかった。確かめれば楽になれたのか、もっと苦しくなったのか、それも分からない。ただ、確かめられないまま、彼女はこの夜のことを一生抱えていくことになる。父のあの白い顔と、ルカのあの悲しい目と、自分が踏みにじった、名前の分からない何かを。

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