第十五話:銀の裏地‐Silver Lining
「ルカ・モレノは」と神父は言った。「働き者で、母親思いの、まじめな青年でした」
エドワードはそれを聞いていた。
間違ってはいない。どれ一つ間違ってはいなかった。働き者だった。母を思っていた。まじめでもあった。だが、それはルカではない。
神父はルカを知らない。母から聞き取ったいくつかの言葉を、この場にふさわしい順序へ並べているだけだ。働き者。母親思い。まじめ。どれも誰にでも当てはまる。港の男なら誰にでも。この教会で見送られたどの若者にでも。
言葉を生業にしてきた男が、その言葉を数えていた。
葬儀は小さな教会で行われた。港の見える、古い石造りの教会だった。
ルカの母が信徒だったのか、それともただ、いちばん近かったのか、エドワードは知らない。知らないことばかりだった。
彼はルカの人生の、ほんの三か月にしか立ち会っていない。その前の二十七年を何も知らない。母のことも、父のことも、ルカがどんな子供だったかも。どんな少年で、どんな夢を見て、どんなふうにあの港で働きはじめたのかも。三か月。たった三か月の男が、二十七年の人生を見送ろうとしている。その不釣り合いが、彼をいっそう場違いな気持ちにさせた。
参列者は思っていたより多かった。
日曜だからだ、と気づくのに少しかかった。
港の男たちは平日に休めない。荷役は動きつづける。葬儀を日曜にしたのは、そのためだろう。母がそう決めたのか、誰かが助言したのか。いずれにせよ、この日でなければ、この男たちはここにいられなかった。日曜だけが、彼らの持っている一日だった。
日曜は、エドワードの日でもあった。
いつもなら昼前に、坂の上の家のインターホンが鳴る。ルカが来る。二人で何もしない一日を過ごす。三か月のあいだ、日曜はそういう日だった。
だが、日曜がもともと誰のものだったのかを、彼はこの教会で知った。港の男たちのものだった。十年、この男たちのものだった。自分が借りていたのは、そのうちの三か月だけだ。
港の労働者たちが不慣れな喪服で列をつくっていた。ルカの同僚なのだろう。日に焼けた無骨な男たちが、大きな身体を縮めるようにして棺の前で帽子を取る。葬儀という場に明らかに慣れていない手つきだった。だが、その不器用な敬意のなかに、彼らがルカを確かに悼んでいることが伝わってきた。
彼らはエドワードの知らないルカを知っていた。
荷役の現場で汗を流し、軽口を叩き、ともに重いものを上げ下ろししたルカを。あの、フェンスの外から見たたくましい、生き生きとしたルカを。「知り合いか?」「まあな」——あの日の港の男たちも、このなかにいるのかもしれない。彼らにとってルカは仲間だった。よく働く、無口な、しかし信頼できる一人の男。
エドワードの知っているルカと、彼らの知っているルカは、たぶん別の男だ。
誰もルカのすべては知らない。母は息子の、家での顔を知っている。同僚は現場での顔を。エドワードは火明かりのなかの顔を。皆それぞれの断片だけを抱えて、ここに来ていた。そして、その断片をつなぎ合わせても、ルカという男の全体には決してならない。死んだ人間は、もう自分を語らないから。
エドワードはいちばん後ろの席にいた。
遺族席には母がいた。黒い服の、小柄な背中。エドワードはその背中を後ろから見ている。
自分はどこに座るべき人間でもない。教え子でも家族でもなく、恋人とも名乗れない。だからいちばん後ろの、誰の目にもとまらない席で、彼は棺を見ていた。あの安置所で「ご関係は」と問われて「友人」としか書けなかった、あの場所からの続きだった。あのときと同じだ。彼はルカの人生の中心近くにいながら、その死においてはいちばん遠い席に座っていた。
葬儀の前に、エドワードは警察から事情を聞かれていた。
被害者とはどういう関係か。車をなぜ貸していたのか。事務的な質問だった。担当の警官は若く、疲れていて、形式的に手帳を開いている。事故は単独事故で事件性はない。凍結した路面でのスリップ。よくある冬の事故。彼らにとってこれは、片づけるべき一件の書類だった。
エドワードは用意していたように嘘をついた。
パブで知り合った、飲み友達のようなものだ、と。古い車の話で気が合って、しばらく乗ってみるか、と貸した。それきり返してもらう機会がなかった、と。
本当のことは言えなかった。二人の間にあった三か月のことを。
最初の夜のこと。停電の夜のこと。告白のこと。自分の手で殴ったこと。何ひとつ口にしなかった。代わりに、誰が聞いても角の立たない、薄っぺらい飲み友達の話を、その場で組み立てて差し出した。声は震えない。学者らしく淀みなく、筋の通った嘘を彼は話した。
警察はその嘘を素直に受け入れた。
疑う様子もない。メモを取り、頷き、次の質問へ移る。エドワードは奇妙な気持ちになった。これほど簡単に通ってしまうのか、と。
自分とルカの三か月が「飲み友達に車を貸した」という一行に縮められて、誰にも怪しまれずに書類のなかへ収まっていく。あの安置所の「friend」という六文字と同じだった。書類はいつも、いちばん大切なものをこぼし落とす。そして、こぼし落としたことにすら気づかない。
だが、たぶん、それが当たり前なのだ。
他人から見た人間関係など、しょせんその程度のものでしかない。いちばん深いものは外からは何も見えない。誰も本気で覗き込みはしない。
エドワードは嘘によって守られ、同じ嘘によって完全に独りになった。
ルカとの三か月を知る人間は、もう、この世にエドワード一人きりだ。彼が口を閉じれば、それは誰にも知られないまま消える。彼はその重さを一人で引き受けることになった。
そうして事故の状況も少しずつ明らかになっていった。
あの夜、山道をかなりの速度で走るDB7を見た、という目撃証言があった。対向車の運転手だ。深い緑色の、古い型の車が雪のなか、町のほうへ下っていった、と。
事故現場の位置と車の向きから、警察はこう推測した。被害者は海沿いの道から山の脇道を抜けて、町の中心の方へ向かっていたと思われます、と。
エドワードはそれを聞いて何も言えなかった。
彼の察した通りだった。ルカは戻ろうとしていた。海ではなく、エドワードのいる場所へ。「少し遅れる」という、あの言葉の通りに。方向は確かだ。警察がそれを裏づけた。あの男はこちらへ来ようとしていた。間違いなく。
だが、それだけだった。
なぜ戻ろうとしたのかは誰にも分からなかった。警察にも、母にも、そしてエドワード自身にも。
赦すために戻ったのか。もう一度、面と向かって終わりにするために戻ったのか。あるいは、あの家に置いてきた自分の荷物を、取りに戻ろうとしただけなのか。それとも、ただ行き場がなかっただけなのか。拒絶され、殴られ、あの男にはもうどこにも行く当てがなく、唯一知っている場所へ帰ろうとしただけなのか。
方向だけが確定していた。意図は永遠に空白だ。
エドワードはその空白を、これから一生抱えていくのだと、このとき知った。
赦しに戻ったのだ、と思えば、その赦しを受け損ねた自分を責めることになる。荷物を取りに来ただけだ、と思えば、その冷たさに凍えることになる。行き場がなかっただけだ、と思えば、あの男をそこまで追い詰めた自分を許せなくなる。
どの答えも彼を別の方向から刺した。そして、どれが本当かは決して分からない。
四方を壁に囲まれた、出口のない部屋に彼は閉じ込められていた。その部屋には床さえない。どの読みを選んでも、その下にさらに深い、別の責めが口を開けている。彼は永遠に落ちつづける。底に着くことなく。
◇ ◇ ◇
葬儀が終わった。
参列者が一人、また一人と引いていく。労働者たちはもう一度帽子を取り、母に短く言葉をかけ、出ていった。やがて教会のなかはまばらになり、人影が、堆積した雪が解けるように少しずつ減っていった。
最後にエドワードと母だけが残った。
エドワードは立ち上がるべきだと思った。母に何か言うべきだと。だが、言葉が見つからない。お悔やみを、と言うことすら自分には許されていない気がした。
自分はこの母の息子を追い出した男だった。殴った男だった。そして、たぶん愛した男だった。そのどれも母に向かって口にできなかった。最初の二つは、言えば自分を責めることになる。最後の一つは、言えばこの母の何を壊すことになるか分からなかった。
母がこちらへ歩いてきた。
小柄な黒い影が長い身廊をゆっくりと近づいてくる。エドワードは立ち上がった。母は彼の前まで来て足を止める。そして、手にしていたものを差し出した。
一冊の古びたノートだった。
「これは」と母は言った。たどたどしい、この国の言葉だった。「あなたが、持っていてあげて」
それだけだった。母の顔には何の表情もない。責めるのでも許すのでもない。その目が何を知っていて、何を知らないのか、エドワードには読み取れなかった。
ノートの中身を読んだのか、読んでいないのか。息子とこの男のあいだに何があったかを察しているのか、いないのか。何ひとつ分からない。
あるいは母は、すべてを知っているのかもしれなかった。母親というものは、言葉にされなくても息子のことを見抜くものだ。この国の言葉が不自由なぶん、彼女は言葉以外のもので世界を読んできたのかもしれない。だとすれば、この「あなたが持っていてあげて」は——。だが、その先をエドワードは考えられなかった。
母はただノートを差し出し、エドワードがそれを受け取ると、小さく頷いて背を向けた。そして、そのまま退席した。
黒い小柄な背中が、教会の扉の灰色の光のなかへ消えていく。後にはエドワードと、ノートと、ルカの棺だけが残された。
◇ ◇ ◇
エドワードがそのノートを開いたのは夜になってからだった。
家に帰り、誰もいない部屋で、一人、明かりの下で。
ノートは几帳面だった。びっしりと細かい字で講義の書き取りがある。ラジオの公開講座だろうか、エドワード自身のものではない、別の教師の名前もある。読書の記録もあった。読んだ本の題名と、日付と、短い感想。何ページ読んだか、という数字まで。
ルカがどれほど真剣に、独学で自分を作ろうとしてきたかが、その事務的なページの連なりから痛いほど伝わってきた。
誰に見せるためでもない記録だった。励ましてくれる教師も、競う仲間もいない、たった一人の孤独な勉強。荷役で疲れた体で、夜、机に向かい、一字ずつ書きつけた。十年。エドワードが書けない論文を前にウイスキーを舐めていた、その同じ十年を、この若者はこうして過ごしていた。
その半ばあたりに便箋が挟まっていた。
折り畳まれた、何枚もの便箋だった。広げると、ノートの几帳面な字とは違う、もっと急いた、もっと熱を持った字が紙を埋めている。エドワードの目がその上を滑った。
市場で、という字が見えた。あの男だ、まさか、という字が。本の裏の写真、という字。家に帰って調べた、という字。何日も眠れなかった、という字。あの坂を毎日通る、という字。傘をささない人だ、という字。今日も見た、という字。明日こそ、という字。
全部は読めなかった。読もうとしたが、字が滲んで追えなくなった。エドワードの手のなかで便箋が小さく震えている。
そこには、市場でエドワードを見つけたあの日から、坂道でわざとぶつかったあの雨の夕方までの、一人の若い男の溢れるような高揚が綴られていた。彼がどれほどの思いでこの出会いを準備したか。どれほどこの男に会いたかったか。何週間も坂で待ちながら、明日こそ声をかけよう、明日こそ、と自分を励ましていたか。
仕込みだった、と彼は告白した。偶然じゃない、待っていた、と。あの告白は本当だった。だが、この便箋が語っているのは、その仕込みの下にあった、もっと純粋な何かだ。計算ではなく、焦がれ。利用ではなく、憧れ。その二つが分かちがたく混ざり合っていた、あの頃のルカの心が、ここにあった。
そして便箋のいちばん最後に、一行だけ、他より少し大きな字でこう書かれていた。
『あの人は、自分が誰かを救ったことを知らない。だからいつか教えたい』
エドワードはその一行を見つめた。
救ったことを知らない。——そうだ。彼は知らなかった。自分の書いた、とうに絶版になった一冊の本が、この港町で一人の若者を十年ものあいだ息継ぎさせていたことを。
自分の人生は無意味だったと夜ごとウイスキーを舐めていた、その同じ時間に。同じ町の、坂の下の港で、一人の若者が彼の言葉で息をしていた。彼は知らなかった。そしてルカは、それをいつか彼に教えたいと思っていた。会いに行こうと思った理由の、それがいちばん奥にあったもの。
いつか――。
その「いつか」は、もう来ない。
ルカは教えられなかった。エドワードは礼を言えなかった。救われていたのは自分のほうだったと、お前のおかげで私はもう一度、誰かに必要とされることを知ったのだと。お前は私の知らないところで、ずっと私を救っていたのだと。
教える側だと思っていた。与える側だと。だが、最初から救われていたのは互いに互いだった。そして、それを確かめ合う前に片方がいなくなった。確かめ合えていたら。せめて一度でも、互いにそれを言葉にできていたら。だが、二人とも、それをしなかった。エドワードは臆病で。ルカは「いつか」と先延ばしにして。その「いつか」を二人は永遠に失った。
エドワードは便箋を持ったまま、声を上げて泣いた。
安置所でも、倉庫でも、葬儀でも流れなかった涙だった。それが今、誰もいない部屋で、止めようもなくあふれた。彼は子供のように両手で顔を覆って泣く。五十二の男が誰に見られることもなく、一人、嗚咽している。長いあいだ感情を知性の奥に仕舞い込んできた男の、その最後の堰が、この一行の前でついに切れた。
雪が窓の外で、いつのまにか雨に変わっていた。




