第9話 季節の贈答、滞る
ブランシェ家の朝食室には、私の席があった。
ヴァランタン家を出てから、一月が経っていた。
朝食室の卓には、三枚の皿がきちんと並んでいる。父の席、母の席、私の席。給仕は嫁ぐ前と同じ手順で進み、紅茶のカップは私が好む濃さで運ばれてきた。三年ぶりだったはずなのに、誰も私の好みを忘れていなかった。
「アデライン、今日は午後から、お父様と書斎にいてくれるかしら」
母がそう告げた時、母の手にはいつものように、庭の白い花が一輪だけ握られていた。私が嫁ぐ前から、母の朝の習慣だった。窓辺で水盤に挿してから席につく、というその一連の動作を、私は三年間、忘れていた。忘れていたことに、ようやく気づいたところだった。
「はい、お母様」
「庭の梨が、今年もよく咲いてくれてね」
母はそれだけ言って、白い花を水盤に挿した。
書斎には、父がすでに座っていた。
「アデライン、坐ってくれるか」
ブランシェ伯爵としての父は、書斎では穏やかだった。机の上には、領地の収支帳簿が広げられている。三年ぶりに見るブランシェ領の数字は、私の覚えていた頃よりもいくらか厚みを増していて、けれど整理の手の入り方が、私の覚えている書き方そのままだった。
「お前の手があったのを、思い出した」
父はそう告げて、私の前に羽根ペンを一本、置いた。
「お前が嫁いだ年から、私は自分でやっていた。けれど、お前が整えていた当時の頁を、何度か見返した。三年分、ずれを直していなかったところが、いくつかある。気が向いた時で構わない。お前の手で、もう一度、整え直してくれるか」
「……はい、お父様」
私は羽根ペンを取った。
書斎の窓の外で、梨の花の匂いがした。三年前に私が嫁ぐ朝、この庭にも同じ匂いがしていた。私は気づいていなかった。父は、たぶん、その朝のことを覚えていた。
午後、応接室で母とお茶をいただいている時、母が低い声で告げた。
「アデライン、ヴァランタン家のことを、少しだけお話しても?」
「はい」
「先週、社交界の何人かの夫人から、書状が来たの。あなたの噂を、ヴァランタン家の話と並べて。詮索ではないわ。ただ、もう一度、ブランシェ家でお迎えしましょうかとお声を掛けてくださった方々がいて」
母が一度、ティーカップを置いた。
「ヴァランタン家の春のご贈答が、今年は遅れているそうよ」
母はもう一度、ティーカップに手を伸ばして、けれど口をつけずに置き直した。
「複数の家から問い合わせが入って、屋敷のほうで責任者がはっきりしないらしいの。贈答先の優先順位が、分からなくなっていると」
「……」
「それから、宰相府からの正式なご依頼を、当主の方が取り違えて、別の領地にお書状をお送りしてしまったとか。ロードヴィック伯爵が間に入って、なんとか体面は保たれたそうだけれど、宰相府からのお声掛けは、しばらく減るかもしれません」
私は紅茶の表面を見ていた。湯気は薄かった。母の口調は、糾弾ではなかった。事実だけを娘に伝える時の、淡々とした母の声だった。
「お母様、もう一つ、伺っても?」
「ええ」
「ローレル男爵令嬢は」
「リゼットさんね。先月、ヴァランタン家のお屋敷をお出になって、男爵家のご実家にお戻りになったそうよ。お義母様が直接、お父上の男爵閣下に書状をお出しになったと、私の聞いた限りでは」
母はそれ以上は言わなかった。
私も尋ねなかった。
リゼットが屋敷を出ていく朝、彼女がどんな顔をしていたのか、私は知らない。知らなくてよかった、と思う気持ちと、少しだけ哀しい気持ちが、紅茶のカップの中に同居していた。彼女がどう育ってきたのか、本当のところは、私には分からないままだった。
夕方、アンセル様がブランシェ家にお越しになった。
予告はなかった。けれど、玄関でお父様が直接お迎えになったので、たぶんお父様にだけは前もって書状が届いていたのだろう。私が応接室に出ていく前に、お父様とアンセル様は書斎にこもった。
二人の会話は、私には聞こえなかった。
ベルタが盆を運ぶ手の遅さで、おおよその長さは測れた。一時間と少し、二人は書斎にいた。お父様が書斎から出てきた時、その目はわずかに笑っていた。
「アデライン、お前の客人だ。書斎へ」
「……お父様、客人とは」
「ロードヴィック伯爵だ。今日は、私の客人としてではなく、お前の客人としていらしている」
お父様は廊下で私とすれ違う時、もう一度、わずかに目元を緩めた。
書斎の扉を開けると、アンセル様が机の向こうで立ち上がった。
「ブランシェ嬢、夜分に申し訳ございません」
ブランシェ嬢。
その呼ばれ方を、私は三年ぶりに聞いた。離縁の調印から一月、誰の口からも、その呼称はまだ聞いていなかった。
「いえ、ロードヴィック伯爵、こちらこそ、お越しくださって」
「お父上に、一つ、お願い事を申し上げに参りました」
「お願い事」
「次の一年、私の手紙にも、ブランシェ嬢のお名前で返事を書いていただけませんか、と」
アンセル様は、机の上に置かれた一枚の便箋に視線を落とした。
「ご決断の時間は、十分にお取りください。一年というのは、社交界の喪明けの慣習でございますし、私としても、それまでに何かをお決めいただこうとは考えておりません。ただ、手紙のやり取りだけ、続けさせていただければと」
私は何度か息を吸って、それから、ようやく頷いた。
「お返事を書きます」
アンセル様は静かに頭を下げた。
書斎の窓の外で、ブランシェ家の梨の花が、夕闇の中で薄く光っていた。私は窓のそばに歩いていって、片方の窓を、自分の手で開けた。
夜風が、書斎の中へ入ってきた。
梨の花の匂いがした。




