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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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8/10

第8話 離縁成立、屋敷を出る朝


 朝の光の中で、私は最後の調印をした。


 離縁の申し入れから、およそ一月半が経っていた。書類の整備、両家家長の調整、嫁入り道具の搬出。手続きというのは、必要になってから始めると、本当に時間がかかるものだった。


 その朝、書斎には五人が集まっていた。


 宰相府の立会人としてロードヴィック伯爵アンセル様。お義母様。ブランシェ家の代理人として、お父様の名代の方。それに、夫と私。


 ブランシェ伯爵のお名前は、書類の上にだけあった。お父様ご自身は領地から動かれなかった。代理人の方が、お父様の自筆の委任状とともに、ブランシェ家の家紋を押した正式な署名欄を埋めた。お義母様は、ヴァランタン家の家門代表として、ご自分の名を書いた。夫は最後に、半分だけ俯いた姿勢で、自分の名を書いた。


 私も、書いた。


「ヴァランタン侯爵夫人」と書かれていた署名欄が、本日付で更新された。


 書類が四通そろい、アンセル様が宰相府の朱印を、最も最後に押した。封蝋を溶かす匂いが、書斎の中に短く広がった。


「ご調印、確かに承りました」


 アンセル様は短くそう告げて、書類をしまった。


 それで終わりだった。


 三年前の春、神殿の祭壇の前で誓いを交わした時間より、今朝の調印のほうがずっと短かった。三年は紙四枚に収まる長さだった、と思いかけて、私は自分の手元に視線を落とした。指の付け根の細い銀の指輪を、私は外して、書斎の机の中央にそっと置いた。


「お預かりいたします」


 お義母様が、それを白い絹のハンカチに包んで、ご自分の手元に納めた。夫は、その様子を見ていた。けれど、何も言わなかった。


 私は書斎を出た。


 正面玄関の広間に出ると、屋敷の使用人たちが、扉に向かって両側に整列していた。


 呼んだ覚えはなかった。誰がいつ整列したのかも、分からなかった。けれど、料理長セバスチャンも、馬車番も、玄関番の従僕も、洗濯場の侍女も、厨房の見習いまで、自分の持ち場の制服のまま、扉の前の通路を空けて立っていた。


 ベルタが、その列の先頭に立っていた。


 私が玄関の段に立つと、ベルタは深く一礼してから、私のほうへ一歩、進み出た。


「アデライン様」


 呼びかけの音が、わずかに揺れた。


 三年間、ベルタは私を「奥様」と呼び続けてきた。屋敷の中の、廊下の角でも、書斎の扉の外でも、客間の卓のそばでも、ベルタの声はいつも「奥様」だった。今朝、その音が、本当に三年ぶりに、「アデライン様」へ戻った。


 ベルタの手の中には、薄い紙包みが一つ。


「お渡しすべきものが、ございます」


「……これは」


「三年前の春、奥様……アデライン様が、嫁入りの直後にお書きになった、最初の春のご挨拶状の、写しでございます」


 私は包みを開けた。


 紙の角が、何度も触れたせいで柔らかくなっていた。文字は、三年前の私のもの。けれど、三年前の私はその写しを誰にも渡していなかった。書き終えて、宰相府へ送って、それでその挨拶状の役目は終わったはずだった。


「あなたが、保管していたの?」


「はい」


 ベルタはもう一度、深く頭を下げた。


「お屋敷の中で、アデライン様のお仕事が、すべて旦那様のお名前で送り出されていきましたから。ただ一人、屋敷の中で、これを書いたのが誰なのかを覚えている人間がいないと、どこかで取り違いが起きると、私は怖くなりまして」


「……ベルタ」


「申し訳ございません。お許しもいただかずに」


「ありがとう」


 私はベルタの手に、もう一度、その紙包みを返した。


「あなたが持っていてください。ブランシェ家へ、これからも一緒に来てくれるでしょう?」


 ベルタの目が、初めて私の前でわずかに濡れた。


「お供させていただきます、アデライン様」


 夫が、玄関の柱のそばに立っていた。


 それまでずっと、書斎の調印台の前で半分俯いていた人が、今、玄関の段の手前で、初めて顔色を変えていた。何かを言いかけて、口が動いた。けれど、声は出なかった。


 リゼットの姿は、見えなかった。彼女は自分の部屋から、この朝、出てこなかったらしい。


 外の通りに、二台の馬車が止まっていた。


 一台はブランシェ家の家紋を掲げた、私の実家の馬車。もう一台は、家紋のない宰相府の公的馬車。御者台の隣に、文官の上着を着たアンセル様が座っていた。アンセル様は私のほうを見て、わずかに頷いた。立会人の責務として、屋敷を出る朝の警護を、最後まで自分の手で守る、と告げる頷きだった。


 私は使用人たちの列の間を、ゆっくり歩いた。


 セバスチャンの前を通る時、彼は深く一礼した。馬車番の前を通る時、彼は私のためだけに扉の段を整えていた。洗濯場の侍女の前を通る時、彼女は手の中の白い布をきつく握っていた。


 ブランシェ家の馬車に乗った。


 扉が閉まり、馬車が動き出す前に、私は一度だけ、屋敷の正面を振り返った。


 夫は、玄関の段に立ったままだった。


 馬車が動き出した。


 王都の朝の通りを、ブランシェ家の馬車が走り、その横を、家紋のない宰相府の馬車が並走した。アンセル様の上着の襟元の銀の刺繍が、朝の光の中で一度だけ、私の窓のほうへ向いた。


 馬車の窓から振り返ると、屋敷の正面に立つ夫の姿が、ようやく小さく見えた。


 三年かけて、私はここから出てきた。

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