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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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第7話 取引先からの確認状、家門の圧


 商会主モリエは、屋敷ではなく宰相府の応接室で私を待っていた。


 離縁の申し入れから、一月が過ぎていた。


 書類の整備、両家家長の調整、嫁入り道具の搬出計画。そのすべてに必要な時間というものがあって、お父様の代理人とお義母様、それにアンセル様のお手元で、書類は静かに進んでいた。私のほうは、書斎で帳簿の引き継ぎ資料を作る日々が続いていた。


 その朝、宰相府からの使者は、私あての伝言を一つ運んできた。モリエ商会主が、王都の本店ではなく宰相府の応接室で、アデライン様に直接ご挨拶を申し上げたいとのこと。先方は応接室に席を取って、私の到着を待っているという。


 実家の馬車を呼んで、宰相府へ向かった。


 応接室の扉を開けると、商会主モリエが立ち上がった。中年の、穏やかな目をした商人だった。背後の壁には、ヴァランタン家、ブランシェ家、ロードヴィック家、その他王都の主要家門の家紋が、商会の正式な顧客名簿として並んでいる。


「アデライン様、お時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます」


「いえ、モリエ。こちらこそ、わざわざ宰相府まで」


「屋敷へお伺いするのが筋でございますが、最近のヴァランタン家のご様子を伺いまして、宰相府さまへのお目通りのほうがご都合よろしいかと存じましたので」


 最近のご様子。


 商会主はそれ以上は言わなかった。私もそれ以上は尋ねなかった。


「春の挨拶状でございます」


 モリエは机の上に、一通の封書を置いた。封蝋は、三年前に私が嫁いだ直後に指定したヴァランタン家の正式な深い赤。三年たっても、彼はその色を間違えなかった。


「ありがとう」


「ヴァランタン家とのお取引につきまして、一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「私どもが三年間、ヴァランタン家にお出ししてまいりました贈答先の選定と、季節ごとの仕入れ表は、すべてアデライン様のご差配と存じておりました。お間違いございませんでしょうか」


 私は封筒の縁を、指先で一度なぞった。


「……はい」


「今後、ヴァランタン家とのお取引において、ご差配の主はどなたになりますでしょうか」


 商会主の目は、私を真っ直ぐに見ていた。礼儀正しい、けれど、答えを濁すことを許さない目だった。


「私は、近くヴァランタン家から離縁いたします」


 口にすると、商会主は一度、深く頷いた。


「では、ブランシェ家にて、これまでと同じ封蝋でお取引を継続させていただいてもよろしいでしょうか」


「……モリエ、それは」


「アデライン様、私は商人でございます」


 モリエは机の上の手を一度、静かに整え直した。


「差配の主が変わることは、商売の上では、よくあること。ただ、三年間整えてくださったご差配を、私どもは記録として大切にしてまいりました。色を変える必要は、商会のほうにはございません」


 私は一度、息を止めた。


 止めてから、ようやく、商会主に頭を下げた。


「お願いいたします」


 商会主は深く一礼してから、応接室の扉のほうへ下がった。扉を閉める前に、一度だけ振り返って「またお手紙をお待ちしております」と告げた。次の春も、再来年の春も、その色で挨拶状を出し続けるつもりだと、声の落ち着きで分かった。


 屋敷に戻る馬車の中で、私は窓の外を見ていた。


 私が宰相府にいる間に、屋敷ではお義母様が動いていたことを、後でベルタから聞いた。


 別室にセドリック様を呼び、二人だけでお話をなさったらしい。扉の外には誰も控えなかったので、内容は誰にも分からなかった。けれど、別室から出てきた夫の顔色が、お義母様がご来訪なさってからの一月で、初めて変わっていたとベルタは言った。


 ベルタが私に伝えてくれたのは、お義母様の言葉そのものではなく、お義母様の言葉の影だけだった。


「ヴァランタン家の名を守るには、貴方がここで引くしかありません。両家家長のご合意による離縁は、家門の体面を最も傷つけない決着でございます」


 そんな趣旨だったらしい、と、ベルタは静かに告げた。お義母様ご本人の口からではなく、扉の前を通った別の侍女が、廊下に立ち止まらずに済むだけの会釈をして、すれ違いざまに私に頷いた。それで十分だった。


 その日の夕方、ブランシェ家から先触れの侍従が到着した。


 お父様の代理として、退去日の最終調整に来た若い侍従だった。私が嫁ぐ前から、ブランシェ家の本邸の馬車回しを管理していた人だ。三年ぶりに会う彼は、私を見ると、深く一礼してから「アデライン様、お元気で何よりでございます」と言った。それ以上の言葉は要らなかった。


 退去日は、半月後と決まった。


 書斎にアンセル様がお越しになったのは、その夜のことだった。


「お馬車のことで、ご相談に参りました」


「お馬車ですか」


「退去の朝に、屋敷からお出になる際の手配でございます。ブランシェ家のお馬車を、当日の朝、屋敷の正面にお迎えとして呼びます。ただ、宰相府といたしましては、書類の正式な引き渡しと、双方の家門間の安全のため、警護の馬車を一台、並走させたく存じます」


「警護の」


「家紋を伏せた、宰相府の公的馬車でございます。家門の名ではなく、宰相府の名でお守りするものです。私個人としてではなく、立会人の責務として」


 アンセル様の言葉は、丁寧で、隙がなかった。私個人としてではなく、と繰り返すところに、彼の節度があった。


「お願いいたします」


「かしこまりました。実家のお馬車に、宰相府の公的馬車が並走する形でございます。当日の朝、二台、お迎えに上がります」


 書斎を出る前に、アンセル様は一度だけ、立ち止まった。


「ヴァランタン侯爵夫人」


「はい」


「半月後の朝、お疲れになりませんよう」


 そう告げて、彼は静かに書斎を出ていった。


 書斎の窓の外で、梨の花の匂いがまだ続いていた。


 半月後の朝、私はこの屋敷を出る。三年前に入った扉から、もう一度、外へ。

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