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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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10/10

第10話 一年の春、新しい挨拶状


 庭の梨の花が、三年前と同じ匂いで咲いていた。


 離縁の調印から、一年が経っていた。


 ブランシェ家の庭の梨を、私はもう一度、自分の生活圏として知り直すようになった。朝の散歩の途中で立ち止まり、花の下で一度だけ深く息をする、というその動作を、嫁ぐ前の私は当たり前にしていた。三年ぶりに思い出すまでに、結局、一年がかかった。


 書斎の窓辺に、新しい封蝋が並んでいる。


 ブランシェ家の正式な色は、深い緑だ。三年前、私がヴァランタン家で指定したのは深い赤だった。今年の春から、私が書く挨拶状の封蝋は、ふたたび深い緑に戻る。


 机の上に、便箋を広げる。


 宛先は、社交界の貴婦人たちと、長年の取引先のいくつか。それから、宰相府の上級文官、ロードヴィック伯爵あての一通。差出人の欄に、私は自分の手で書いた。


 ——アデライン・ブランシェ


 最後にこの名前で書状を整えたのは、三年と一月前の春だった。指が一瞬だけ止まったのは、忘れていたからではなく、思い出すのに少しだけ時間がかかったからだった。三年前の私の字と、いま書いたこの字は、似ていなくはなかった。少し、力の入り方が違うだけだった。


 冬の手紙の頃から、ロードヴィック伯爵はお返事の中で、私を別の呼び方で書いてくださるようになっていた。私のほうも、お返事の中で「アンセル様」と書く頻度が、少しずつ増えていた。文字の上での距離が、半月分ずつ、近くなっていた。


 封蝋を温め、深い緑を一枚ずつ落としていく。


 ベルタが盆を運んできた。盆には、紅茶のカップが二つあった。


「お父様、お客様にお茶を差し上げます。アデライン様も、客間にお越しくださいませ、と」


「お父様の客人?」


「いえ、アデライン様の」


 ベルタは深く一礼してから、盆を抱えて廊下へ出ていった。普段より、足取りが少しだけ丁寧だった。


 客間の扉を開けると、父とアンセル様が椅子に座っていた。


 アンセル様は私が入ると立ち上がり、わずかに頭を下げた。一年ぶり、というほどではない。手紙のやり取りは、毎月、続いていた。十二通分の私の字と、十二通分の彼の字が、すでに互いの机の引き出しの中に、それぞれ重ねられている。


「アデライン様、お越しいただきまして」


「いえ、ロードヴィック伯爵、こちらこそ」


 目の前で呼ばれた音と、お手紙の文字が、ちょうど同じ重みで並んだ。


 父が一度、私のほうを見て、それから紅茶のカップを軽く持ち上げた。


「アデライン、ロードヴィック伯爵から、私に正式なお話があった」


 父はそれだけ告げて、ご自分のカップをテーブルに戻した。


「私としては、お前の判断を信じる。お前が選んだ答えを、私は受け取る」


 父は立ち上がった。


「茶葉が、少し古くなっていたな。新しいのを淹れさせてくる」


 そんな理由で席を外す父を、私は嫁ぐ前から知っていた。三年ぶりに、その口実を聞いた。


 客間に、アンセル様と私の二人だけになった。


「お父上に、正式にお願いを申し上げました」


 アンセル様は穏やかに告げた。


「あなたが整えていた三年分の書類を、私はずっと見ていました。一年前の春から今年の春まで、お手紙の中で見せていただいた字を、私はすべて引き出しに納めております。アデライン様」


「はい」


「もう一年、お時間をいただけませんか」


 私はアンセル様のほうを見た。


「もう一年、と申しますのは?」


「もう一年、お手紙のやり取りを続けさせてください。その間に、私のほうから、社交界の正式な場で、あなたの隣に立つお許しを、お父上にいただきます。来年の春、もう一度、改めて、私からきちんとお話を申し上げます」


 来年の春。


 その言葉が、客間の中の春の光の中で、一度だけ静かに留まった。


「来年の春に、いただける答えがあれば、ということです。今年は、ただこの一年の手紙のお礼を申し上げに参りました」


 私は窓辺に置いてあった扇を、ゆっくりと手に取った。


 骨が一本歪んでいた扇は、もう手元になかった。あの扇は、三年前にヴァランタン家で買い求めたもの。離縁の朝、屋敷の中の私物と一緒に、ヴァランタン家へ置いてきた。今、私の手にあるのは、ブランシェ家へ戻ってから新しく揃えた、骨の整った扇だ。


 私は扇を、ゆっくり開いた。


「ロードヴィック伯爵」


「はい」


「お返事は、今年の手紙の中で、少しずつお伝えしてもよろしいですか」


「もちろんでございます」


「お父様には、来年の春までに、私からも改めてお話しいたします」


 アンセル様は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 父が新しい茶葉を持って戻ってきた時、客間の中の空気は、入ってきた時と少しだけ違っていた。父はそれに気づいた顔をして、けれど、何も尋ねずに紅茶を淹れ直した。


 アンセル様がブランシェ家を辞された後、私は書斎に戻った。


 机の上には、書き終えた挨拶状が並んでいる。ロードヴィック伯爵あての一通も、いつもどおりの封蝋で、いつもどおりの差出人の名で、整え終えていた。今夜のうちに、もう一通だけ書き足すことにする。お手紙の中で、お返事を少しずつお伝えする、と約束したばかりだった。


 扇の陰で、私は夏の挨拶状の準備を始めた。


 秋には、もう一通だけ、特別な手紙を書くことになりそうだった。

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