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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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第3話 宰相府からの確認状


 夜会から二日後の朝、宰相府の使者は、夫ではなく私の名を呼んだ。


 玄関広間で正装の使者が一礼し、「ヴァランタン侯爵夫人さまにお届け物がございます」と告げた時、夫はちょうど階段の踊り場に降りてきたところだった。


「宰相府から?」


 夫が眉を寄せた。


「私あてのはずだろう」


「いえ、こちらは……」


 使者は手にした封筒の宛名を改めて確かめてから、もう一度だけ礼をした。


「ヴァランタン侯爵夫人さまへの正式な確認状でございます」


 夫は階段を降りきり、私の手から封筒を取り上げかけて、宛名を見て止まった。「ヴァランタン侯爵夫人」とだけ書かれた、私の名がそこにあった。


「……宰相府は、何か勘違いしているんじゃないか」


 夫は使者に向き直り、苦笑混じりに言った。「うちの書状は当主あてに届くものだろう。間違いだったら困る。受け取らずに戻したほうがいい」


「お言葉を返すようですが」


 使者は背筋を伸ばしたまま、視線を一度だけ下げた。「差出人より、ご本人さまにお届けするよう、念を押されておりますので」


 夫は「そうか」と短く答えた。それから「君のほうで返事を出しておいてくれるか。俺は今日、リゼットを王宮の植物園に案内する約束をしている」と私に言って、上着の襟を直しながら玄関のほうへ歩いていった。


 使者は夫の背を一度だけ見て、それから視線を伏せた。


「お受け取りいただけますでしょうか」


「いただきます」


 私が封筒を受け取ると、使者はもう一度だけ礼をして、扉の外へ下がった。扉が閉まる前に、御者の隣に控えていた若い従者が一人、わずかに会釈を寄越した。気のせいかもしれなかった。


 封蝋を見て、私はもう一度、差出人を確かめる。


 ロードヴィック伯爵 アンセル様。


 書斎の机に積まれていた、まだ開けていない一通と、同じ封蝋だった。


 中を開くと、文面は短かった。三年分のヴァランタン領の収支書類について、宰相府で照合の必要が生じている。ついては当家の責任者にご足労いただきたい。差出人の名で、宛先は私本人。日付は翌日。


 封筒を閉じてから、私は侍女頭に告げた。


「ブランシェ家の馬車をお願い。ヴァランタン家のものは、今日はいらないわ」


 ベルタが、廊下の角で一度だけ深く頷いた。何も尋ねなかった。


 翌日、実家の馬車に乗ったのは、三年ぶりだった。


 座席の革は、嫁ぐ前に最後に座った時と同じ匂いがした。私はその匂いを覚えていなかったのに、嗅いだ瞬間に、覚えていたのだと分かった。窓の外を流れていく王都の街並みを見ながら、扇を一度だけ膝の上に置く。骨が一本歪んでいる扇のままだった。直す時間はあるはずだ。けれど、今日でなくてもよかった。


 宰相府の応接室に通されると、年上の紳士が机の向こうで立ち上がった。


 文官の上着。落ち着いた紺。襟元に銀の刺繍。


 二日前の夜会で、会場の遠い角に立っていた方だ。あの時、視線が一瞬だけこちらへ向いた、あの紳士だった。


「ヴァランタン侯爵夫人。ロードヴィック伯爵アンセルと申します」


 低い声だった。


「お初にお目にかかります。姉から、お名前は伺っておりました」


 姉。エレオノール様。義母様のことだ。


「アデライン・ヴァランタンと申します。本日はお呼び立てくださり、ありがとうございます」


「こちらへどうぞ」


 アンセル様は、机の向こう側の椅子を一度だけ目で示してから、自分は反対側に座り直した。机の上には、薄い書類束がいくつか並んでいた。すべて端が揃えられ、古い順に上から重ねてある。一番上の束の表紙に、私の知っている字が見えた。三年前の春に、私が嫁ぎ先のヴァランタン家の名で書いた、最初の挨拶状の写しだった。


「三年前のものから、保管しております」


 アンセル様は、書類束に視線を落としたまま、淡々と告げた。


「文体と、数字の整え方が、一貫していらっしゃる。差出人の名は当主の方ですが、書き手の手は同じだと、私は存じております」


 何も言えなかった。


 頭の中で、三年分の春と夏と秋と冬の挨拶状が、頁を繰るように一度だけ通り過ぎていった。誰も読んでいないのだと思いながら、それでも丁寧に書いてきた紙の束だった。


「ご確認いただきたいのは、こちらです」


 アンセル様は書類束の上から、一つを抜き出して机の中央へ置いた。


 ヴァランタン領の三年分の収支照合。署名欄には夫の名が並んでいる。けれど、各頁の末尾の小さな余白に、私が書き込んだ筆跡が並んでいた。私が確認して、私の手で書き加えた数字だった。


「宰相府といたしましては、書類の責任者がどなたか、確認しておく必要がございます」


「夫の名で出しております」


「存じております」


 アンセル様は、書類から視線を上げた。


「ですから、ご本人さまにお越しいただきました」


 紅茶が運ばれてきた。


 私は一口だけ口をつけて、書類の確認に戻った。三年分の数字を順に追っていく間、アンセル様は何も話しかけなかった。ただ、私が頁を繰る間に、一度だけ立ち上がり、給仕に何かを耳打ちした。新しい紅茶のカップが、私の前に静かに置かれた。


「冷めておりましたから」


 アンセル様は、自分の席に戻りながらそれだけ言った。


「書類は急ぎませんので、ゆっくりお進めください」


「……ありがとうございます」


 私の声が、思っていたよりも低くなった。声の低さに自分で気づいてから、もう一度、書類に視線を落とした。


 確認を終え、私が立ち上がった時、アンセル様も立ち上がった。


 廊下まで送ってくださる、というほどではなかった。けれど、応接室の扉の手前まで、彼は静かに歩を合わせてくれた。扉を開け、私が一度頭を下げた時、アンセル様は短く告げた。


「またお会いします」


 約束ではなかった。願いでもなかった。ただ、明日もそうであるように、と告げる事実のような声だった。


「はい」


 私はそう返事をした。


 宰相府を出る時、廊下の窓から見える庭で、梨の花が咲いていた。ヴァランタン家の庭の梨と、同じ匂いがした。


 馬車に乗り、扇を膝の上に置いた。骨が一本歪んでいる扇のまま、私はしばらく、自分の家ではない方向へ走らせてもらった。

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